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  • 2022.10.06

春木晶子評:痛みを忘れた「祝祭」──岡本太郎と縄文・アイヌ・SDGs──

岡本太郎が芸術の原点とみなした縄文時代の装飾は、幾多の屈折を経て、今日の社会に受け入られている。岡本太郎作品と石川直樹の写真を中心に構成された高島屋史料館Tokyoの展覧会「 まれびとと祝祭―祈りの神秘、芸術の力― 」を切り口に、昨今の縄文ブーム、ヒット漫画「ゴールデンカムイ」、岡本太郎の没後最大級の回顧展「展覧会 岡本太郎」など様々なトピックスを織り交ぜながら江戸東京博物館学芸員の春木晶子が論じる。

「まれびとと祝祭──祈りの神秘、芸術の力──」展示風景 高島屋史料館Tokyo提供

「祝祭」に向かう2つの身ぶり

日本橋にある老舗百貨店の4階の一角は、怪しくも濃密な空間と化していた。高島屋史料館Tokyoの企画展「まれびとと祝祭―祈りの神秘、芸術の力―」(2022/3/21-8/21)である。

会場に足を踏み入れてまず目に入るのは、仮面をかぶり草木に身を包む異形の者たちの姿だ。石川直樹(1977-)が「まれびと」を撮影したものである。

「まれびと」とは、国文学者であり民俗学者でもあった折口信夫(1887-1953)が提唱した概念である。折口によれば「まれびと」は、超現実の世界から現実の世界を訪れ、またもとの世界にかえっていく、人間を超えた存在である。「まれびと」の来訪/帰去によって、人と人ならざるもの、現実と超現実がつながる時空間を、「祝祭」と呼ぶ。 

「まれびと」は、時間と空間を滅ぼしては生まれ変わらせる。「祝祭」とは、自分たちがいる場所をなにか新しい場所に蘇(よみがえ)らせ生命を更新する、古い世界を滅ぼすと同時に新しい世界を生み出す営みだという。「祝祭」の持つそうした機能こそ、あらゆる芸術表現の根源であると、本展を監修した安藤礼二(1967-)は言う。


石川直樹《パーントゥ 沖縄県宮古島市平良島尻》(2006)

石川直樹が撮影した「まれびと」が連なる壁面の対面には、岡本太郎(1911-96)による写真と絵画作品が並ぶ。安藤礼二よれば石川直樹も岡本太郎もともに、折口信夫に惹(ひ)かれ、その足跡をたどった芸術家だ。

東北の「ナマハゲ」や「イタコ」、沖縄・久高島の「イザイホー」といった、岡本太郎による「祝祭」を撮影した写真群が、石川による「まれびと」たちと対峙(たいじ)する。岡本太郎は、そうした日本列島のまれびと祭祀(さいし)が、人類の古層、すなわち縄文にまでさかのぼると考えていたという。

よく知られるように岡本太郎は、東京国立博物館での縄文土器との出会いから「四次元との対話―縄文土器論」(『みづゑ』1952年)を執筆し、「日本が世界に誇るべき美」がそこにあることを声高に宣言した。縄文土器が日本美術史上に位置付けられる契機となる、画期的な提言であった。

岡本太郎は、縄文土器の過剰な「装飾」の背後に「呪力」を見いだし、それこそが芸術の原点であると考えた。彼の縄文への志向と、日本列島の土俗の「祝祭」への志向とは、その点で密接に結びついていた。

こうした思考の出発点は、彼が若くして滞在したパリ時代にあった。岡本太郎は社会学者・文化人類学者のマルセル・モース(1872-1950)に師事して民族学を修め、先史美術のコレクションに触れるとともに、狩猟採集社会への関心を高めた。岡本が親交を結んだ思想家ジョルジュ・バタイユ(1897-1962)はまさに、「祝祭」こそが人間活動の根源であると主張していた。彼らの思想、そして、西洋の歴史や伝統に縛られた芸術創作に異議申し立てを行っていた当時のパリの芸術家たちの活動が重なり合い、岡本に響いた。ピカソの抽象画との出会いを契機に、岡本もまた抽象画を志すことになっていく。

「まれびとと祝祭」展は、石川直樹による現代の「まれびと」から、岡本太郎による写真と絵画作品へと続く。日本列島の「祝祭」の写真、その起源たる縄文土器の写真、それらからインスピレーションを受けた抽象画が、壁面を埋め尽くす。

さらに展示は、縄文の血を濃厚に引き継ぐとされる、アイヌへと展開する。安藤礼二によればアイヌの人々は、華やかな装飾文化と祝祭を、現代まで継承してきた人たちだ。その装飾文化が縄文と結びつくものだと見いだしたのは、フランスの人類学者・考古学者のアンドレ・ルロワ=グーラン(1911-86)だという。北海道を訪れアイヌ文化を調査するとともに、アイヌの装飾とフランス・ラスコーの洞窟壁画がともに、彼らの神話の痕跡であると考えた人物だ。


「まれびとと祝祭──祈りの神秘、芸術の力──」展示風景 高島屋史料館Tokyo提供


アイヌの装飾を伴う衣服や道具を挟んで、石川直樹の写真と岡本太郎の写真や作品とが、向かい合う。決して広くないその一室で、上記の文脈のもとで集められた「まれびと」「祝祭」「縄文」「アイヌ」を象徴するものたちが、響き合う。

向かい合わせの2つの壁面は、「まれびとと祝祭」に対峙するわたしたちの、対照的な態度をあらわすかのように思われた。

石川直樹が映し出すのは確かに、ぎょっとせずにはいられない異形の「まれびと」たちの姿だ。しかし、民家の一室や路上に佇(たたず)む彼らは、あたかもそれが当たり前であるかのように、存在している。ぬらりと日常を訪れた彼らによって、日常は否応なしに非日常へと歪(ゆが)められていく。わたしたちは、それを受け容(い)れるしかない。

岡本太郎が映し出す「祝祭」には、必ずしも異形の姿ではない、「普通の」姿形の人たちも含まれている。しかし、彼らは何事か、異様な事態に身を置いている。「見てはいけない」ものを覗き見ることで、日常に亀裂が入る。秘事を目撃してしまったという罪悪感にも似た感覚を抱く。

やってくるものを受け容れる石川直樹と、前のめりに秘事を覗き見る岡本太郎。ともに「まれびと」と「祝祭」を対象に据えながらも、両者の身ぶりは正反対に見える。

些細(ささい)な印象の違いに過ぎないかもしれない。しかしこの違いは、本展で取り上げられる「縄文」と「アイヌ」、近年関心が高まっているこの2つの事象が、世の中にいかに受け取られているかという問題と密接に結びついているように思われる。

「縄文」と「アイヌ」

2022年8月、渋谷のシアターイメージ・フォーラムでは、松本貴子監督『掘る女 縄文人の落とし物』が上映され、好評を博していた。昨今の縄文人気を疑う人はいないだろう。昨年だけを見ても、賛否両論を巻き起こした竹倉史人『土偶を読む』(晶文社)の刊行とヒット、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界文化遺産登録決定など、話題に事欠かない。

縄文人気はいつからはじまったのか。1996年7月19日の朝日新聞で松岡正剛は、「三内丸山遺跡の発掘をきっかけに、大型の縄文ブームがおとずれている」と述べている。松岡の捉え方は的確で、そのブームは今日まで続く「大型」となった。

とりわけ2000年代後半から、ブームは加速する。話題を集めた展覧会には例えば、09年に大英博物館で開催された「The Power of Dogu」 展、同年から翌年にかけて開催されたその凱旋(がいせん)展となる東京国立博物館「国宝 土偶展」、同館で18年に開催され35万人を超える来場者を数えた「縄文―1万年の美の鼓動」展がある。全国各地でも大小さまざまな「縄文展」が開催され、研究の進展により変わる縄文のイメージが提示されてきた。


火焰型土器 縄文時代(中期)・前3000~前2000年 東京国立博物館蔵

土器や土偶の国宝指定も、2000年代後半から2010年代に集中している。1995年国宝指定の「縄文のヴィーナス」、99年国宝指定の火焔型土器群(新潟県笹山遺跡出土深鉢形土器)を除き、国宝土偶4体の指定は2007年から14年にかけてのことだ。

2011年度から「縄文時代」の記述が小学校の教科書で「復活」したことも※、ブームと無縁でないだろう。02年度から実施された「ゆとり教育」に伴い、小学校6年生の社会の教科書から「縄文時代」は消えていた。


※「小6教科書に「縄文」復活 「ゆとり」で消え10年ぶり」『読売新聞』2010年5月28日夕刊 8頁

15年には縄文時代をテーマにしたフリーペーパー「縄文ZINE」が発行され、18年には縄文ブームをテーマにした山岡信貴監督ドキュメンタリー映画「縄文にハマる人々」が公開される。土偶(らしき巨大生物)と戦う武富健治による漫画『古代戦士ハニワット』(漫画アクション/双葉社)の連載もこの年に開始された。「縄文」は教育分野以外にも広がり、そのブーム自体が話題となる状況が訪れた。

縄文ブームの始まりの年である1996年は、岡本太郎が死を迎えた年でもある。さまざまなメディアで追悼企画が組まれ、その生涯が振り返られるなかで、岡本による「縄文の発見」に言及するものは少なくなかった。縄文人気は、岡本太郎の死と、彼の再評価とともに進展したと言えそうだ。


「展覧会 岡本太郎」出品作品 岡本太郎 《縄文土器》 1956年3月5日撮影(東京国立博物館) 川崎市岡本太郎美術館蔵 Ⓒ岡本太郎記念現代芸術振興財団

最近この文脈に加わったのが、「アイヌ」だ。

「縄文」と「アイヌ」。先述の通り安藤礼二はアンドレ・ルロワ=グーランに導かれながら、「狩猟採集社会」と「装飾」という共通項で、両者を結びつけている。加えて安藤も指摘するように今日、日本列島において縄文人の要素を色濃く伝えるのは、アイヌの人々であるという言説が、定着しつつある。

北海道の歴史区分に、「弥生時代」は登場しない。大陸の影響を受けず、農耕が広まらなかった北海道では、縄文時代ののちに続縄文時代が訪れる。やがて本州との結びつきの強い擦文(さつもん)文化(*1)と、北方との結びつきの強いオホーツク文化(*2)の時代となり、それらが混ざり合い、アイヌ文化が形成される。これが今日、主流となっている考えだ。


*1 7~13世紀にかけて北海道で栄えた文化。四角い竪穴住居に住み、雑穀栽培を行うなど、本州の暮らし方を取り入れていた。
*2 8~13世紀頃にかけてサハリン南部、北海道北東岸、千島列島などのオホーツク海沿岸で発達した狩猟・漁労に基づく文化。

「弥生」を経由せずに生まれたアイヌ文化は、「縄文」を色濃く伝える。そうしたイメージがいつ頃からか形成された。そして、この考えに信憑(しんぴょう)性を持たせる学説が、1990年代に広まる。縄文人と渡来人が徐々に混血していくことで現代の日本列島人が形成されたという説で、列島の端に住むアイヌと琉球の集団は、縄文人の遺伝要素を多く残すという考えだ。

埴原和郎が提唱したこの「二重構造説」※1は、日本列島の人の成り立ちを説明する学説として長く支持されている。さらに、最新の遺伝子研究が、この学説を裏付ける状況となっている。2012年以降、斎藤成也らからなるDNA研究のグループは、現代の日本列島人3集団(アイヌ、琉球、本土日本人)と縄文人との関係を解析した。その結果、アイヌ、琉球、本土日本人の順に、縄文人の遺伝要素が強いという結果を得たという※2。


※1 埴原和郎「二重構造モデル:日本人集団の形成に関わる一仮説」『Anthropological Science』102 巻5 号 1994年 455-477頁
※2 神澤秀「縄文人の核ゲノムから歴史を読み解く」『季刊「生命誌」』87号 JT生命誌研究館 2015年 https://www.brh.co.jp/publication/journal/087/research/1 2022日8月16日閲覧

こうした考古学や人類学の研究成果を経て、「縄文」と「アイヌ」は、学術的な結び付きを強めてきた。加えて近年、「縄文」と「アイヌ」は、新たな共通項によって結びつけられているように見える。「SDGs」である。

「縄文」「アイヌ」「SDGs」

アイヌへの関心は、2020年前後から飛躍的に高まった。日本民藝館「アイヌの美しき手仕事」展(2020/9/15-11/23)、東京ステーションギャラリー「木彫り熊の申し子 藤戸竹喜 アイヌであればこそ」展(2021/7/17-9/26)、東京ドームシティGallery AaMo「ゴールデンカムイ」展(2022/4/28-6/26)と、アイヌに関連する展覧会が東京で毎年開催され、いずれも話題を呼んでいる。

日本民藝館の展覧会では、Instagramなどの口コミでの評判により若者が長蛇の列をつくったといい、アイヌ文化への関心の高まりが指摘されている。上記の通り現在全国巡回の展覧会が開催中の漫画、野田サトル『ゴールデンカムイ』の人気がその大きな要因だろう。連載開始は2014年で、今年の夏に完結したばかりだ。

同時に、アイヌをめぐる政治状況の変化もあった。2007年、国際連合において「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択され、世界的に先住民族への配慮を求める要請が高まった。ヴェネチア・ビエンナーレ国別パビリオンの北欧館が、今年から先住民族のサーミ族に敬意を表してサーミ館と名前を変えたというのも、こうした情勢を反映したものだろう。


ヴェネチアビエンナーレ北欧館の展示風景 Photo: Alex Greenberger/ARTnews

宣言の影響が目に見えるかたちであらわれるようになったのは最近のことだが、国際宣言の直後から、国策の変化があった。2008年には、衆・参両院の本会議で「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が全会一致で採択され、翌09年には、「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」報告において「民族共生の象徴となる空間」が提言された。これがのちの20年に一般公開された、国立アイヌ民族博物館を含む民族共生象徴空間「ウポポイ」である。


東京ステーションギャラリー「木彫り熊の申し子 藤戸竹喜 アイヌであればこそ」展展示風景

こうした国によるアイヌ関連の政策と足並みをそろえるかたちで、アイヌを取り上げたコンテンツが目立つようになった。2016年の「マンガ大賞」はじめ、『ゴールデンカムイ』は多数の賞を受賞、18年からアニメ化が行われるなど人気を高めていく。直木賞を受賞した川越宗一の『熱源』(文藝春秋社、2019年)や、福永壮志監督映画『アイヌモシㇼ』(2020年)など、アイヌを正面から取り上げたコンテンツが高い評価を得たのは、ウポポイ公開と同じ、20年であった。

国の施策と足並みをそろえているから、これらの作品は評価を得たのだ、などと言いたいわけではない。

例えば『ゴールデンカムイ』はしばしば、アイヌ文化を取り上げたことがヒットの理由であるかのように伝えられるが、そうではない。アイヌ文化は本作の一要素に過ぎないことを、誤解なきように強調しておきたい。


東京ステーションギャラリー「木彫り熊の申し子 藤戸竹喜 アイヌであればこそ」展展示風景
画像提供:東京ステーションギャラリー(撮影:若林勇人)

作者はアイヌ文化に限らず、明治時代後半の北海道を中心に、当時の漁港や都市での生活風俗や、陸軍の制度や装備、日清・日露戦争をめぐる政治状況など、従来の青年マンガがあまり対象としてこなかった時代の歴史や文化を綿密に取材し舞台を創った。そのうえで、多数のキャラクター一人一人の感情の機微を丁寧に描き、緻密(ちみつ)に練られたうえで目まぐるしく変転するストーリーを紡ぎ出した。

あくまでもエンターテイメントが主眼の作品のなかで、活(い)き活きと息づくアイヌ文化が、教育的な押し付けがましさなしに表現された。だからこそ、作品や登場キャラクターたちの魅力とともに、アイヌ文化の魅力もまた多くの読者に伝わることとなったと言えよう。

加えて本作の担当編集の大熊八甲は、ヒットの要因のひとつが「時代に適合」したことだとして、次のように考察している。

「私たちの中で、時代と添い寝することでヒット作が生まれるという考え方があります。要するに、時代に適合するということですね。リサーチをしてみますと、2004~20年まで15年連続でアウトドア業界が拡大しているらしく、これはデジタルの普及により「人間本来の欲求に基づく自然回帰の流れ」が起きていると推測されているそうです。『ゴールデンカムイ』の場合でいえば、こういったグルメ・サバイバルといった潮流とマッチし、時代とうまく添い寝ができたのではと思います※」


※「『ゴールデンカムイ』編集、宣伝担当者が語る! 話題を呼んだ最終回記念企画の裏側とヒット作の共通点とは」『PR GENIC』https://pr-genic.com/6271 2022日8月16日閲覧


東京ステーションギャラリー「木彫り熊の申し子 藤戸竹喜 アイヌであればこそ」展展示風景
画像提供:東京ステーションギャラリー(撮影:若林勇人)

本作でアイヌ文化は、もっぱら「食」あるいは「狩猟」に関するシーンで登場する。グルメ漫画にひけをとらない調理や食事の丁寧な描写に伴って、食材を得るための狩猟採集の様相や、アイヌ語や伝説、精神文化にも言及が広がる。

大熊が指摘するように、「アウトドア」「自然回帰」「グルメ・サバイバル」が「潮流」だとすれば、その背景には、「SDGs(Sustainable Development Goals、『持続可能な開発目標』)」や「エコ」「オーガニック」「エシカル」などといった、環境に配慮した消費行動がもてはやされる現状があるだろう。

2015年の「国連持続可能な開発サミット」で採択されたSDGsは、17年に経団連が企業行動憲章に盛り込んだこと、加えて同年に文部科学省が「持続可能な社会の創り手」という文言を学習指導要領の改訂で前文に採用したことにより、若い世代を中心に急速に国内で認知を高めていく。

アイヌの狩猟採集による伝統的な生活は、自然環境の循環を妨げないよう工夫されているといわれ、SDGsが掲げる環境配慮や持続可能な生産消費形態といった目標に適(かな)う。加えて、マイノリティな異文化であるアイヌ文化への理解を示すことも、「多様性の尊重」を基礎とするSDGsに見事に合致する。

これと同様の構造で、「縄文」とSDGsをつなげる言説もまた、メディアを賑(にぎ)わせている状況だ。しかしこの現況は、「縄文」を見いだした岡本太郎の思想とは、遠く離れたものだろう。

棘を抜かれた野生

「芸術はうまくあってはいけない、きれいであってはならない、ここちよくあってはならない」(『今日の芸術』)と主張した岡本太郎。1970年に開催された大阪万博のシンボルとなったモニュメント「太陽の塔」の制作にあたっても、「万国博のテーマ“進歩と調和”には反対だ」と公言していたという※1。

「人類は進歩なんかしていない。何が進歩だ。縄文土器の凄(すご)さを見ろ。ラスコーの壁画だって、ツタンカーメンだって、いまの人間にあんなもの作れるか※2」


※1、2 佐々木勝「「縄文の美」-岡本太郎とその周辺-」『岩手県立博物館だより』No.111 2006年 6頁

技巧的なものは、こうした立場から、否定される。高松塚古墳も、仏像も、雪舟も、彼からの評価は得られなかった。とりわけ被害を被ったのが、「縄文VS.弥生」という対立軸で対に置かれた「弥生」だろう。大陸から伝えられた技術に基づく精巧な機能美を持つ弥生土器は、縄文ブームの陰で、息を潜めることとなる。

かつての日本文化の柱はむしろ、「弥生」に代表される、シンプルな機能美、「わびさび」などと形容される「静」の造形だった。岡本太郎以降、対立概念として登場した「縄文」の、「過剰」や「装飾」といったキーワードが地位を得ていく。


「展覧会 岡本太郎」出品作品 岡本太郎 《犬の植木鉢》 1955年 川崎市岡本太郎美術館蔵 Ⓒ岡本太郎記念現代芸術振興財団

1970年前後には、雑誌「美術手帖」で美術史家の辻惟雄(1932-)により江戸時代の「奇想」の絵師たちが取り上げられて話題を呼ぶ。山下裕二(1958-)によれば、辻のこの発想も、岡本太郎の思想を反映したものだという※。辻の画期的な提言は徐々に浸透し、2000年に開催された京都国立博物館「伊藤若冲」展のヒットに結実する。以来、日本美術の主役の座には若冲をはじめとする「奇想の画家」たちが座り続けている現状だ。


※山下裕二『岡本太郎宣言』平凡社 2000年 48頁

同時期に人気を得ていった「縄文」と「奇想」。洗練された技巧的な表現よりも、荒々しさを伴う大胆奇抜な表現が好まれる傾向は、たまたま、日本経済が低迷していることを、誰もが認めざるを得なくなっていく時代状況と足並みを揃えている。「進歩なんかしていない」。岡本太郎の言葉と思想が、ようやく人々に重く響くようになった、ということかもしれない。

それにしても、岡本とわたしたちの振る舞いは、似て非なるものだ。もっぱら「進歩」が礼賛されるなかで果敢にそれに反逆した岡本に対し、今日のわたしたちは、あまりにも姑息だ。「進歩」が望めないとわかった途端に掌を返し、荒々しく粗暴なものを急に持ち上げはじめたのだから。あたかもはじめから「進歩」など目指していなかったかのように、振る舞いの歴史修正に躍起になっている。

2010年代以降、わたしたちはますます岡本太郎から離れようとしている。「縄文」にも「奇想」にも、「ゆるい」「かわいい」といった言葉が貼り付けられていくようになったからだ。ゆるく親しみやすい、そういった要素は、岡本太郎が見いだした「縄文」にも、辻惟雄が見いだした「奇想」にもなかった。むしろ正反対とさえ思われる側面が、取り沙汰されている状況だ。

石川直樹という写真家を知ったとき―エベレスト登頂を終えた彼が登頂時に撮影した写真を銀座のシャネルのギャラリーで展示すると聞いたとき―これと似たようなギャップを覚えた。石川直樹の活動や制作と、その作品の受容や消費のされ方とのあいだにある、差異のことである。

2001年に7大陸最高峰登頂の最年少記録を更新し、2度にわたってエベレスト登頂を成し遂げた石川は、世界の海山陸を精力的に駆け巡っては撮影を続けている。それを知ってしまうとつい、死と隣り合わせの過酷な状況をくぐり抜けてきたに違いないと、その写真にスペクタクルを期待してしまう。

しかし石川直樹の写真は、驚くほど静かで、汗臭さや血生臭さをまったくと言っていいほど感じさせない。ホワイトキューブに、あるいはシンプルにデザインされた雑誌や写真集の誌面に、彼の写真はよく似合う。

石川は恐らく、巧妙に、作品から生々しさや荒々しさを排除している。急峻(きゅうしゅん)なエベレストも、祭壇に祀(まつ)られた動物の死骸も、禍々(まがまが)しい「まれびと」も、さも特別なものではないかのような顔をして、作品となって並んでいる。

それは、この写真家が常に、死や汗と隣り合わせにあることに起因するのではないか。過酷な環境に抗して冒険を続ける石川にとって、予期せぬ困難や恐怖を受け容れることは、日常茶飯のことであろう。そうした彼の振る舞いが、作品に反映されているのではないか。

わたしたちを脅かす要素が作品から巧妙に隠されているからこそ、わたしたちは日常のなかで彼の写真を受け入れ、消費することができるのではないか。

石川といえばThe North Faceをはじめとするアウトドアブランドのファッションアイコンでもある。アパレル事業を拡大して近年目覚ましく業績を伸ばしてきたスノーピークに代表されるように、2000年代以降の野外音楽フェスティバルの定着や10年頃からの「山ガール」の流行などを経て、アウトドアは今やすっかり「おしゃれ」に消費されるようになった。

アウトドア業界が拡大していることは先に述べた。「ソロキャンプ」や「ベランピング」など、一人で、あるいは家のベランダなどで、「気軽に」アウトドア要素を日常に取り入れる消費行動が昨今のトレンドのようだ。

誰もが、安心安全に。日常を脅かされることなく、気軽に。アウトドアに限ったことではなく、この態度が、2022年現在のわたしたちのデフォルトとなっている。棘(とげ)を抜かれた、安心安全な、文化や芸術の受容と消費。「縄文」も「アイヌ」も、石川直樹の写真も、それにぴったり適(かな)うからこそ、受け入れられている。

翻(ひるがえ)って考えると、国のアイヌ政策の進展の背後にも、「安心安全」思想が働いていたのではないだろうか。すなわち、アイヌがもはや脅威ではないという、いやらしい考えがなかったとは言えないだろう。アイヌの人々が今更、伝統的な狩猟採集生活を行うことはない、土地の所有権のために暴動を起こすことなどない。そう高を括(くく)っているからこそ、政策は進展したのだろう。

縄文人の生活やアイヌの伝統的な暮らしがSDGsと結びつけられる時もまた、定住を伴わない狩猟採集生活の不安や過酷さ、残酷さは、巧妙に隠されているように見える。縄文人のイメージとしてかつて定着していた、粗野で野蛮な狩猟採集民といったイメージは、おおらかでのんびりと暮らしていた縄文人のイメージに、すっかり塗り替えられてしまった。

「SDGs」に胡散(うさん)臭さを感じるのは、このためだ。「環境保全」にしろ「多様性」にしろ、それらを謳(うた)いながらもその内実は、あくまでも自らに都合のよい限り、自らが脅かされない限りでの、「他者」の受け入れに過ぎない。自分の身を切ってでも、「他者」をありのままに受け入れる。そんな度量はいまのわたしたちには、ない。それにも関わらず「他者理解」や「多様性」を謳歌する、無自覚な欺瞞(ぎまん)と能天気さに、辟易する。

岡本太郎の思考は真逆だ。「大いに血だらけになり、傷だらけになって」※、変わっていく己を引き受けることを、志す。


※桑原武夫・岡本太郎「〈万国博への期待と不安〉冒険の精神を」『朝日ジャーナル』9巻44号1967年10月22日号 101頁

「人生に挑み、本当に生きるには、瞬間瞬間に新しく生まれかわって運命を開くのだ」※


※岡本太郎『自分の中に毒をもて』青春出版社1988年


「展覧会 岡本太郎」出品作品 岡本太郎 《傷ましき腕》 1936/49年 川崎市岡本太郎美術館蔵 Ⓒ岡本太郎記念現代芸術振興財団

25歳で描いた《痛ましき腕》は、そうした生き方を宣言する決意表明のように見える。皮を剥(は)がれ赤く染まる腕と、同様に真っ赤な、巨大なリボン。傷だらけであるからこそ華々しく堂々と、生まれ変わりながら生き続ける。

古い世界を滅ぼすと同時に新しい世界を生み出す営みこそ、「祝祭」であった。それは決してやさしいものではない。「祝祭」が痛みを伴うことを、岡本太郎は、繰り返し思い出させてくれる。

大阪中之島美術館で開催され、東京都美術館・愛知県美術館へと巡回する「展覧会 岡本太郎」は、没後最大規模の回顧展だという。「大いに血だらけになり、傷だらけになって」、己の生き方、感じ方を省みる機会としたい。

展覧会情報

展覧会名:「展覧会 岡本太郎」
【東京展】
会場:東京都美術館 (東京都台東区上野公園8-36)
会期:10月18日(火)~12月28日(水)
開廊時間9:30~17:30、金曜は~20:00(入場は30分前まで) 休館日:月曜
電話 : 050-5541-8600(ハローダイヤル)
【愛知展】
会場:愛知県美術館 (名古屋市東区東桜1-13-2)
会期:2023年1月14日(土)~3月14日(火)
開廊時間10:30~18:00、金曜は~20:00(入場は30分前まで) 休館日:月曜
電話 : 050-5541-8600(ハローダイヤル)

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