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尾上右近「ザ☆スタジオ・トーク」
アートが生まれる現場を見てみたい、作家の頭の中を覗いてみたい……そんな思いに駆られることはありませんか? 「ザ☆スタジオ・トーク」は、若手実力派として活躍の場を広げる歌舞伎俳優・尾上右近さんが、海外からも高い評価を得ている人気アーティストのスタジオを訪問。アーティストとの対話を通して、その素顔に迫る連載企画です。

#2 「田名網敬一さん、どうして絵を描くのですか?」(前編)

Mar 04, 2022
STORY
尾上右近

「ザ☆スタジオ・トーク」第2回の訪問先は、田名網敬一さんです。1960年代から半世紀以上にわたってアートシーンを牽引し、今も圧倒的なエネルギーと鮮烈な印象を放つ作品を創作し続けている、日本のポップアートの先駆者。ファッションブランドや異業種アーティストとのコラボレーションも展開し、幅広い世代から支持を得ています。奇想天外なイメージに満ちた極彩色の作品と、柔和でどこか少年のような雰囲気も漂う田名網さんとのギャップに、戸惑いつつも興味津々の右近さん。年齢差56歳の対談の内容は、戦争中の話から今の教育の話まで、多岐にわたりました。まずは前編をお届けします。

絵を描く過程が好き

右近:(スタジオ内に置かれている作品を見回しながら)田名網さんの作品には、独特のパワーがあるというか、どの作品からもものすごいエネルギーを感じます。作品を生み出すご自身のエネルギー、原動力は何だと思われますか?

田名網:絵を描くことが子どもの頃からずっと好きで、それが変わらなかったということだと思いますね。何かが特別に自分を奮い立たせるわけじゃなく、単に、ほかに比べるものがないくらい絵を描くのが好き。その一点だと思います。そもそも僕は、漫画家になりたかったんです。子どもの頃は手塚治虫さんの漫画が大人気で、手塚さんに憧れて漫画ばかり描いていました。でも親は、僕が絵を描くことに大反対で。それで、美術学校を出て就職でもすれば許してくれるだろうということで、仕方なく漫画をやめて美術学校に入りました。

右近:ご家族は、なぜ絵を描くことに反対していたんですか?

田名網:絵では食べていけないじゃないですか。だいたい当時は、映画やテレビドラマに出てくる絵描きといえば、飲んだくれで貧乏で、ろくでもない役柄でした。うちの母親は、テレビを見ていて絵描きが出てくるシーンがあると、僕を呼ぶんです。「あんたは、いずれこうなるんだよ」と。親戚にも「親不孝するんじゃない」と怒られたり、とにかく絵を描いていること自体に罪悪感があるような時代でした。

右近:そんな罪悪感を持ちながらも、田名網さんは絵を描きたいと思われたわけですね。周囲の反対と、自分がやりたいことに対する情熱の摩擦が“美しい”んだなと、今お話を伺っていて感じました。絵を描くことのどういうところがお好きなんですか?

田名網:絵にはたくさんの要素があるからね。色々な選択肢の中から、「今度はこの技術を使ってみよう」とか「こういう線を引こう」「ここは原色で描こう」というふうに、自分で選んで進めていく工程全体が好きですね。絵描きには「過程が好きな人」と、完成したものがどういうふうに世の中に出て、どうなっていくかに興味を持つ「結果が好きな人」の2種類がいるんです。僕なんかは、完成しちゃったら自分の作品でもあまり関心がなくなるから、「この絵だけはアトリエに置いておきたい」というようなこともないんですよ。

右近:毎日どういうスケジュールで過ごされているんでしょう?

田名網:朝起きて、ご飯を食べて、その辺を散歩して、仕事場に来て、絵を描いたり、頼まれている仕事をやったりして、帰る。もう何十年もそういう生活をしています。だから、全然抑揚のない人生ですよ。絵を描くことが趣味であり、それで生活もしているから、メンタルの面では、趣味と実益が非常に一致した楽しい人生だとは思うけどね。

右近:描きたくない時はどうされているんですか?

田名網:描きたくない時は、ない。逆に、描かないと落ち着かないというかね。向こうの奥の部屋に、ピカソの模写を300点くらい置いているんですよ。

右近:廊下にも置かれていますよね。さっき、ちらっと拝見しました。

田名網:あれは全部、この2年くらいの間に描いたものなんです。コロナで色々な展示が中止になっちゃって、時間がめちゃくちゃできたんだけど、何かを創作する意欲があまり湧かなくてね。そんな時に、昔、ピカソの母子像ですごく好きな絵を模写したことを思い出して、もう1回模写してみたら、精神的に落ち着くというか、すごく気持ちが楽になった。それで面白くなって、どんどん描いていったら、300点くらいになったわけ。で、これは何だろう?と考えたら、一種の写経なんだなと。僕は昔、写経をしていたことがあるんだけど、何も考えずにただ模写していると、その時と同じような精神状態になるんです。お陰で、このコロナの2年くらい、すごく気持ちが楽でしたよ。

戦争と映画の記憶

右近:すごいなあ。本当に一貫して、絵を描くことがお好きなんですね。田名網さんは、子どもの頃から映画もお好きだったとか。僕の母方の祖父は、映画俳優の鶴田浩二なんです。僕が生まれた時にはすでに他界していたので、僕は会えていないんですが。

田名網:そうなんですか。言われてみれば、ちょっと似ているよね。僕が子どもの頃は、映画が唯一の娯楽といっていい存在で、映画館に行くことが最大の楽しみでした。鶴田浩二さんの映画は、任侠物も含めてほとんど観ているんじゃないかな。

右近:海外の映画もご覧になっていたんですか?

田名網:観ましたよ。戦後しばらくは、「アメリカはこんなに素晴らしい国だよ」ってことを宣伝する映画ばかり上映されていたんです。小屋主が自分で買いたい映画を選ぶなんてことができない時代だったし、敵国だったアメリカを憎んでいる人が大勢いましたから。アメリカの豪華な生活が映っているものとか、ヒーローものとか、とにかくアメリカに都合の悪い映画は一切やっていなかった。

右近:戦後間もない日本で、そういうアメリカ映画を観た人達には、色々な思いがあったんじゃないでしょうか。

田名網:そうだと思います。僕は、目黒駅の近くにあったちっぽけな映画館にしょっちゅう通っていたんです。中学生くらいの時に、そこで映画を観ていたら、特攻隊の格好をした人が隠し持っていた日本刀で、いきなりスクリーンをめちゃくちゃに斬ってしまった。今だったら、すぐに上映を止めるだろうけど、小屋主はそのまま映し続けて、みんな黙ってそれを最後まで観ていた。ひらひらと垂れ下がったスクリーンの残骸に映る、アメリカ映画を。特攻隊の格好をした人は、そのままどこへ行ったかわからないんだけど、アメリカに対する憎しみが爆発したんじゃないかと思います。すごい時代でしたよ。

右近:その光景自体が映画のワンシーンみたいです。特攻隊といえば、祖父は特攻隊の整備士だったらしくて。いつも仲間を送り出してばかりいる整備士には、自分も特攻隊員になりたいと願い出る人が多かったそうで、祖父もその一人だったとか。ところが、出撃する予定だった8月15日に終戦を迎えて、飛び立てなかった。祖父は生涯、そのことを悔いていたそうです。

田名網:そうでしたか。

右近:でも、別のところから聞いた話では、「鶴田浩二は戦後の映画界に必要不可欠な存在だ」ということで、出撃させないことになっていたんだとか。それで本人を納得させるために、出撃予定日を8月15日にしたと。上層部は、その頃には戦争が終わることがわかっていたらしくて。祖父本人は、その話を知らないまま亡くなりました。僕はこの話を聞いて、祖父は生かされている存在だったんだなと、改めて感じたんです。田名網さんは、戦争をどんなふうに捉えていらっしゃるんでしょう?

田名網:僕が戦争を体験したのは小さい頃だったから、戦争はこうだったというような論理的なものはないんです。ただ、防空壕の中にいても肌が真っ赤に焼けるくらいの爆弾の熱風を、母親が濡れたタオルを体に貼り付けて防いでいたとか、そういう五感の恐怖の記憶はすごくあるし、周りの様子から、これは普通の状態じゃないんだなとは感じていました。僕が住んでいた目黒の家の周りは、一面の焦土だったからね。絨毯爆撃というのがあって、B29が100機くらい編隊を組んで飛んで来て、どんどん爆弾を落とすから、そこいらじゅうが焼けてしまって。

右近:すさまじいですね。

田名網:飛行機の塊が去った後、防空壕を出て家に帰るんだけど、道には焼けただれた人が何十人といたり、血だらけの人が山積みになっていたりするわけ。僕が見ないように、母親がタオルで僕の目を押さえるんだけど、隙間から見えちゃうじゃないですか。普通の子どもが経験する枠を、遥かに超えたものを受けたわけですよ。だから、僕が描いているものの根底にある過去の記憶の大半は、戦争の記憶なんです。そのくらい衝撃が強かった。

右近:想像もできないです。

田名網:戦争をくぐり抜けてきたというのは、その人間にとって、カウンセリングとかリハビリを受けないと頭がおかしくなっちゃうくらい、大変な体験なんです。でも戦後の日本には、そんなこともないまま占領軍が入ってきて、それまでとはまったく違う民主主義の世界になった。だから政府は隠していたけど、それに対応できずに精神を病んでしまう子どもや大人が大勢いたわけ。生き残れたとしても、戦争というのは、それくらい人生を左右するものだと思いますね。

右近:田名網さんご自身は、戦争という経験がなかったら、どのような人生を送っていたと思われますか?

田名網:今とまったく違っていたんじゃないかな。描いている作品とか、進んできた道も。戦争を経験したことによって、僕の記憶の膨らみができたことは確かだし、そういう強烈な体験をしたということは、表現者としては強いじゃないですか。そういう意味では、得をしたって言うとおかしいけど、よかった気がしますね。

右近:表現していくうえでは、ありとあらゆる経験が糧になるというか、悲しいことや辛いことも、プラスに転じさせたり、別の形として昇華させることができるのが表現なんだと思います。僕は、戦争を経験した世代の歌舞伎の先輩方の舞台を映像で拝見していると、得も言われぬ結束力のようなものを感じるんですね。何か一つの、とてつもなく大きな出来事を共有した世代だからこそ生まれる、連帯感のようなものがあるんだろうなと。

田名網:それはあるかもしれませんね。

右近:肉体的な危機感は比較にならないとは思うんですが、僕らの世代の歌舞伎役者も、今のこのコロナ禍を自分たちの情熱を確認するチャンスに変えて、みんなで乗り越えたという共有意識を、これからの歌舞伎に反映していかなくては。手垢のついた表現ではありますけど、ピンチをチャンスに変えたいなと、そんなことを思います。

田名網敬一(たなあみ・けいいち)

1936年東京都生まれ。武蔵野美術大学デザイン科卒業。同大学在学中に日本宣伝美術協会主催の日宣美展で特選を受賞。雑誌のエディトリアルデザインなどで活躍し、75年には日本版「プレイボーイ」誌の初代アートディレクターに就任する。その一方で、実験的な作品を発表。絵画や彫刻、アニメーションの制作など、メディアやジャンルを横断した創作活動を国内外で展開する。ニューヨーク近代美術館(MoMA)やベルリン国立美術館など世界の主要美術館に作品が収蔵され、またファッションブランドなどとのコラボレーションも多数。1991年より京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)大学院教授。ウェブサイト  Instagram

二代目 尾上右近(にだいめ おのえ・うこん)

1992年東京都生まれ。清元宗家七代目 清元延寿太夫の次男。7歳で歌舞伎座「舞鶴雪月花」にて本名の岡村研佑で初舞台。12歳で新橋演舞場「人情噺文七元結」にて二代目尾上右近を襲名。2018年には浄瑠璃方の名跡・七代目清元栄寿太夫を襲名する。歌舞伎以外の舞台や映画、テレビなどでも活躍し、映画「燃えよ剣」で第45回日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞。また自主公演「研の會(かい)」で研鑽を積む。2022年4月は歌舞伎座「四月大歌舞伎」第二部『荒川の佐吉』、5月は同「團菊祭五月大歌舞伎」第三部『弁天娘女男白波』に出演予定。秋にはミュージカル「ジャージー・ボーイズ」への出演が控えている。ウェブサイト  Instagram

Edit & Text: Kaori Okazaki Photo: Shin Inaba Styling: Kazuya Mishima(Tatanca) Hair & Make-up: Storm (Linx)

Index
1
Jan 17, 2022
#1 尾上右近が井田幸昌のスタジオを訪れる(前編)
#1 尾上右近が井田幸昌のスタジオを訪れる(前編)
2
Feb 04, 2022
#1 尾上右近が井田幸昌のスタジオを訪れる(後編)
3
Mar 04, 2022
#2 「田名網敬一さん、どうして絵を描くのですか?」(前編)
4
Mar 23, 2022
#2「田名網敬一さん、どうして絵を描くのですか?」(後編)
5
May 20, 2022
#3 エリイさん(Chim↑Pom from Smappa!Group)の制作現場へ
6
Jun 29, 2022
#4 佃弘樹さんの「コラージュ」が生まれるスタジオへ
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