「ザ☆スタジオ・トーク」第2回の訪問先は、日本のポップアートの先駆者として知られる田名網敬一さんです。後編では、様々なアーティストに熱い支持を得ているレジェンドの、教育や仕事に対するスタンスについて伺いました。(前編はこちらから)
大切なのは想像力
右近:田名網さんの色彩感覚は、どこで培われたものなのですか? 子どもの頃にご覧になっていた映画は、モノクロだったと思うのですが。
田名網:確かにモノクロだったと思います。でも、僕が当時の映画館の情景を思い出す時、それは決まってカラーなんです。自分でも不思議なことに、僕の頭の中では全部カラーで見ていたわけ。
右近:えっ、カラーで?
田名網:子どもの時に「蒸気船ウィリー」というディズニーの短編アニメーション第1作を映画館で見たんだけど、それも後になってモノクロ作品だと知るまで、僕はカラー映画だと思っていたんです。だから、自分が見てきた色々な映画が、当初はモノクロで、途中からカラー映画になったという認識もほとんどないの。僕の中では最初から、ずっとカラーで見ていたから。
右近:すごい! 実際の色彩を上回る想像力! 無意識のうちに、想像力で色彩を補っていらしたわけですね。田名網さんが入院中に見たという幻覚の話もお聞きしたいと思っていたんです。45歳の時に大病を患われたとか。
田名網:胸に水が溜まる胸膜炎という病気で、4カ月ほど入院しました。寝る前に強い注射を打つんだけど、そうすると夜半に、高熱が出て、ベッドの足下の壁に幻覚が映るんです。誰かがお見舞いで持って来てくれたサルバドール・ダリの画集の影響なのか、毎夜、毎夜、ダリが住んでいたスペインのポルト・リガトという入り江の景色が現れる。それが苦しくて、怖くてね。熱にうなされて、病室の窓の向こうにある松の大木がぎゅーっと曲がるのも恐ろしかった。ほかにも色々見ましたよ。朝起きると平熱になっているので、そういったものを、退院したら描いてみようと思ってスケッチしました。創作に結びつけることで、自分を元気づけていたところもありますね。

右近:大病をされたご経験や幻覚のイメージも、やっぱり創作に昇華されているんですね。田名網さんが作品を作る時に、いちばん大切になさっていることは何ですか?
田名網:想像力かな。だから見る人も想像力を使って、好きに見て欲しいんだけど、日本人には、何が描かれているのか?を気にして、想像力で絵を見ない人が多いよね。美術館へ行っても、音声ガイドを聴きながら見ている人がたくさんいる。子どもの時に受ける教育が影響している気がしますね。
右近:大事ですよね、想像力って。僕らがやっているお芝居の世界も、演じ手の想像力と、見る側の想像力があってこそ成り立つもの。特に、お能のように削ぎ落された表現では、想像力がより必要になってくると思います。
田名網:そうでしょうね。ところが、新聞社のアンケートなんかを見ると、中学校の先生や生徒の80~90%が、大事なのは「考える授業」より「暗記する授業」だと答えているんです。なぜなら、暗記する授業のほうがテストでいい点が取れて、入試にも役立つから。残り10~20%の「考える」グループには、もしかしたら、歌舞伎の世界に行く人や、絵を描いたり、音楽をやったり、小説を書く道に進む人がいるかもしれない。ただ、そういう人たちの学校での成績は、必ずしも良くなかったりするからね。それで、ますます暗記する教育に重きが置かれて、想像力が欠如していっちゃうわけ。

右近:僕も学校の成績は、必ずしも良いほうじゃなかったなあ(笑)。日本の世の中に、人と違うことが恥ずかしいと思わせるような空気があることも問題だと思います。そのせいで、“自分が思ったようにやる”という勇気が育まれなかったりするんだろうなと。
田名網:そうだね。美術の授業でリンゴの絵を描く時、日本では最初に、有名な画家が描いたリンゴの絵を生徒に見せるんですよ。それでみんな、そのイメージに引きずられて、同じような絵を描いちゃう。でもアメリカなんかでは、個人の自由意思を尊重する教育をしているから、参考作品を見せちゃいけないことになっているわけ。だから生徒たちが描く絵も、他人に左右されずに、それぞれ違ったものになる。日本の教育が、いかに子どもの想像力を潰しているかということですよ。日本から世界的な芸術家がそんなに出ていないのも、その辺に問題がある気がするね。
右近:日本には「出る杭は打たれる」なんて諺(ことわざ)があるくらいだから、大人に諦めてもらえるだけの情熱と忍耐力を持った子どもだけが、突き抜けていけるんでしょうね。そういう意味で、僕は自分のことを「打つことを諦めてもらうことを待つ杭」だと思っているんです。「自分が思ったことをやろう」という人がもっと増えていくように、出る杭としては、ぐいぐいと出続けていきたいと思っています(笑)。
田名網:いいですね(笑)。絵の世界でも、美術学校を出た人で成功している人は、割合から言えば少ないんですよ。固定概念みたいなものでがんじがらめになって、それとの戦いで終わっちゃう人が少なからずいて。

右近:そもそも芸術って、教えてもらうことじゃなかったりしますよね。
田名網:そうだよね。教えるったって、教えられないよ。
右近:いっそのこと美大では、「美術は教えるものじゃない」ということを教えたらいいんじゃないでしょうか……なんて、調子に乗って生意気なことを言ってしまいました(笑)。ずっと第一線で日本の現代アートを引っ張って来られた田名網さんは、後輩の方たちや大学院での教え子の皆さんを、どんなふうにご覧になっていますか?
田名網:僕は、年齢で区切って考えるのはあまり好きじゃないのね。年が違うだけで、同業者だと思っているから。たとえば、佐藤允(あたる)という作家は僕の生徒の一人だけど、生徒という意識は全然なくて、電話で1時間も2時間も話をするし、ほかの生徒もそうだけど、一緒にお酒を飲みに行ったりもする。話しているといろんな刺激を受けるし、僕自身も勉強になるからね。要するに、年の離れた友人という関係ですよ。
右近:素敵ですね。歌舞伎の世界で、僕らが80代の先輩に“年の離れた友人”なんてスタンスで関わろうものなら、きっと周りの人間が黙っていないと思います。「そんな生意気は許さん!」って。先輩自身は何とも思わなくても、周りはどうしたって「うちの師匠を守らなければ」という意識が強いですから。結果的に、周りで支えている人たちが、先輩を孤独にさせてしまっているのかもしれないなと感じることがあります。
田名網:そういうことはあるだろうね。
右近:僕は、先輩に芸を教えていただくことは、先輩が人生をかけて磨き上げてきた芸を受け継ぐ儀式でもあると思っているんです。なので、教えていただく時は、尊敬の念と愛情を持って臨んでいます。たとえば、師匠の菊五郎のおじさま(七代目 尾上菊五郎)に教えていただく時は、おじさまとその芸への尊敬と愛情を思い切り注ぎながら教わる。そうすると、おじさまにもそれが伝わって、本当の意味で教わっているなと感じる瞬間がたくさんあるんです。


相手の気持ちになる
田名網:おじいさんが鶴田浩二さんということは、右近さんは歌舞伎の家の出ではないの?
右近:そうなんです。でも、これまたややこしいんですが、僕の父方の曽祖父は六代目 尾上菊五郎でして。
田名網:じゃあ、(歌舞伎俳優の)血は流れているんだ。
右近:はい。ただ、その曽祖父の娘、僕から見ると父方の祖母が、清元という歌舞伎音楽の家元と結婚して、そこで生まれた僕の父が、今の清元の家元なんです。だから本来であれば、僕は清元を継がなければならないんですが、どうしても歌舞伎役者がやりたくて、役者の道に進ませてもらいました。でもその後、清元のほうもやっていいよということになって、どっちもやらせてもらっているんです。

田名網:そういう人は結構いるの?
右近:今のところ、僕以外にいません。今は「二兎を追う者、一兎をも得ず」ということでもないのかなと思うし、中途半端は良くないけれども、可能性があることは全てやってみることを良しとする風潮もありますよね。どちらもやらせてもらっている身としては、その風潮に拍車をかけたいし、“可能性”というものを新たな伝統にしていくことも一つの役割なのかなと感じているんです。「あいつが役者も歌もやれているんだから、俺は画家と役者の二刀流で頑張ろう」というふうに、可能性が広がっていったらなと。それは人一倍大変なことかもしれないけど、その分、喜びや面白いことも人一倍ありますから。
田名網:いいですね。絵の世界もいまだに結構保守的だから、絵を描くことが王道とされていて、いろんなことをやる人は、どちらかと言うと好まれないところがあるんですよ。僕なんかは、絵だけじゃなく、アニメとか、映画とかデザインとか、いろんなことをやってきたから、若い頃は「一体何者なの?」というようなことをよく言われました。自然の流れでたまたま色々なジャンルのことをやるようになっただけだし、気にせず関係なくやっているうちに、何も言われなくなったけど。


右近:田名網さんは、ファッションブランドとか、音楽のアーティストさんとのコラボレーションもたくさんされていますよね。そういうお仕事の時は、どんなことを心がけていらっしゃるんですか?
田名網:しいて言うなら、“相手の気持ちになって作る”ってことでしょうね。たとえば、この前、八代亜紀さんのデビュー50周年記念のアートワークをやったんですよ。ベスト盤のジャケットとか、全部。その時も、八代さんの気持ちになって作りました。八代さんがさぞかし喜ぶだろうというものが、いちばんだからね。アディダスだったら、アディダスを買う人たちが喜ぶだろうなってものを提供する。そういう時のアイディアは、だいたい打ち合わせをしている時に決まっちゃうんですよ。頭に映像として浮かんでくるからね。

右近:すごいですね。僕は、歌舞伎と何かでコラボをしようという時、まだどうしても、歌舞伎をアピールしたい情熱のほうが勝ってしまって。相手を引き立てるとか、融合というよりも、ぶつかりたい気持ちのほうが強かったりします。
田名網:でも僕も30歳くらいの時は、もっと自分を強く出そうということに力点を置いていたと思うよ。年齢と共にそういうものがだんだん消えていって、いいものを作ろうというふうに変わってきたんだろうね。若い時はもっと生々しいから。
右近:いくつくらいで落ち着くんでしょう? やっぱり80代になると、何事も達観できるようになるものですか?
田名網:いやいや、僕だってまだ何もわからないし、何かが完成したとも思っていない。精神的には、35歳くらいで止まっている気がしますね。
右近:なるほど。それで、そんなにお若いのですね。今日はたくさん刺激とエネルギーをいただきました。ありがとうございました!

【尾上右近コメント〜対談を終えて】
「今回は田名網敬一さんと対談をさせていただきました。作品もたくさん見せていただきましたし、田名網さんはすごく楽しいお方でした。アート界のとてもビッグなアーティストさんでいらっしゃいますが、フラットにお話を伺えました。なかでも印象的だったのが、想像力でひた走って楽しむというエネルギーの強さ。これが一番刺激を受けたことだと思います。またお目にかかって作品を拝見できる機会があれば嬉しいです」
1992年東京都生まれ。清元宗家七代目 清元延寿太夫の次男。7歳で歌舞伎座「舞鶴雪月花」にて本名の岡村研佑で初舞台。12歳で新橋演舞場「人情噺文七元結」にて二代目尾上右近を襲名。2018年には浄瑠璃方の名跡・七代目清元栄寿太夫を襲名する。歌舞伎以外の舞台や映画、テレビなどでも活躍し、映画「燃えよ剣」で第45回日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞。また自主公演「研の會(かい)」で研鑽を積む。2022年4月は歌舞伎座「四月大歌舞伎」第二部『荒川の佐吉』、5月は同「團菊祭五月大歌舞伎」第三部『弁天娘女男白波』に出演予定。秋にはミュージカル「ジャージー・ボーイズ」への出演が控えている。ウェブサイト Instagram