政治と芸術、その複雑な関係を見つめる──「共時的星叢──時を共にした星たち 越境する芸術のまなざし」【EDITOR’S NOTES】
異なる文化や思想との出会いは、新たな芸術表現を生み出す契機となる一方、その背景には複雑な政治的・社会的関係が存在することもある。東京都現代美術館で開催中の「共時的星叢」から、日本統治期から戦後にかけての台湾で生まれた表現と、その背景にある歴史をたどる。

芸術表現は、作家個人の内発的な問いだけでなく、時代ごとの社会状況や政治体制、異なる思想や価値観との接触など、さまざまな要因の影響を受けながら育まれる。しかし、その「影響関係」が常に対等なものとは限らない。東京都現代美術館で開催中の「共時的星叢──時を共にした星たち 越境する芸術のまなざし」は、20世紀前半の台湾と日本を中心とする芸術の交流を通じて、その複雑な関係を浮かび上がらせる。
本展がたどるのは、20世紀前半の台湾と日本を中心に、東アジアの作家や詩人たちが同じ時代を生きるなかで、どのように表現をつくり上げていったのかという歴史だ。西洋で生まれた近代美術が日本へ、さらに台湾へと伝わっていったという一本の系譜として描くのではなく、それぞれの土地で生まれた表現や交流を同時代の動きとして捉え直そうとしている。その背景にあるのが、1895年から1945年まで続いた日本による台湾統治だ。会場には絵画や彫刻だけでなく、文学、映画、音楽、演劇、雑誌や書簡までが並ぶ。
日本による統治が始まる以前の台湾では、福建など中国大陸南部に由来する書画文化や、廟を彩る彫刻、儀礼に関わる工芸など、多様な造形文化が育まれていた。しかし1895年に日本の植民地統治が始まると、西洋近代美術の概念や美術教育、公募展などの制度が日本を通じて導入され、台湾の美術を取り巻く環境は変化していった。
その象徴が、1927年に始まった台湾美術展覧会(台展)だ。日本の帝国美術院展覧会(帝展)を参考に設けられたこの公募展では、台湾の風土や暮らしを題材とする「地方色」が作品評価の重要な観点の一つとなった。会場に並ぶ郭雪湖《南街殷賑》(1930)の彩色下絵は、その一例だ。大稲埕(ダーダオチェン)で生まれ育った郭が、祖先やさまよう霊を供養する伝統行事「中元普渡」でにぎわう地元の街を題材に選んだこの作品は、第4回台展で台展賞を受賞している。
ただし、何が「台湾らしい」と評価されるのか、その基準もまた、植民地統治下の美術制度と無関係ではなかった。
日中戦争が始まる1937年以降、台湾では、日本の戦時体制の強化に伴い、文化活動や芸術表現に対する統制も強まっていった。日中戦争の勃発後、台湾総督府は皇民化政策を本格化させ、日本語使用の推進や新聞の漢文欄の廃止など、生活や文化の日本化を進めた。
第5章「描いた/描かせた のは誰か」には、台湾・新竹出身の李澤藩が日の丸を手に出征兵を見送る人々を描いた《出征の見送り》(1938)と、日本の洋画家・鶴田吾郎が、日本軍の戦争遂行のために台湾先住民族の人々を動員して構成された高砂義勇隊を題材とする《義勇隊を送る高砂族》(1944)が並ぶ。美術や文学が戦時体制へと組み込まれていくなか、ここでは作家が「何を描いたか」だけでなく、「なぜそれを描くことになったのか」までが問われている。
1945年の日本の敗戦によって植民地統治は終わり、台湾では中華民国による統治が始まった。しかし、その後も芸術表現をめぐる政治的な制約は続いた。なくなったわけではない。戦後、台湾では美術や文学、演劇などの活動が再び活発になる一方、1947年の二・二八事件では、中華民国政府による武力弾圧が起き、1949年から1987年まで続いた戒厳令下では、国民党政権による政治的弾圧が広がった。芸術家や文学者も、その対象となった。最終章「長い白夜」には、1954年に処刑された劇作家・簡国賢が妻に宛てた最後の手紙など、弾圧によって創作だけでなく、日常や命までも奪われた人々の存在を伝える資料も並ぶ。また、国民党政権は自らを「中華文化の正統な継承者」と位置付け、文化政策を推進した。戒厳体制下の検閲や政治的弾圧と、こうした政策や政治的な統制は、台湾の芸術表現にも影響を及ぼした。
台展の「地方色」、戦時下の「描いた/描かせた」、戦後の「正統」をめぐる文化政策。時代や政治体制の変化とともに、芸術表現を取り巻く制度や価値観も変容していった。本展で目にしたのは、そうした時代の条件と向き合いながら、異なる文化や思想との接触を通じて、それぞれの表現を模索し続けた作家たちの姿だ。

















