「安全な街」は、誰の居場所か──「路上、お邪魔ですか?」【EDITOR’S NOTES】

渋谷区立松濤美術館で開催中の「路上、お邪魔ですか?」は、私たちに最も身近な公共の場である路上を、7つのセクションから見つめ直す展覧会だ。金沢21世紀美術館から巡回した本展には、路上で生まれた遊びや表現とともに、そこに人間がいることを妨げるルールや排除の歴史も並ぶ。

「路上、お邪魔ですか?」展示風景。

1980年代に子ども時代を過ごした筆者には、懐かしさを覚える展示が多かった。

まず紹介されるのは、赤瀬川原平や藤森照信らによって1986年に発足した「路上観察学会」だ。同学会は、「1970年代から美術館・図書館離れした若い世代がシャレた店やテニスコートへと向かい、それができない不器用な人々は路上にさまよい出て、街にはびこるヘンテコなものを観察しはじめた」と結成の経緯を語っている。会員たちによる写真に写るのは、途中で作るのをやめたかのように途切れる滑り台や、必要以上にガードレールが設置された歩道など。確かに「へんなもの」ばかりで、思わず笑ってしまう。同時に、安全や効率が重視される現在の街では、こうした「余白」を見かける機会が少なくなったことにも気づかされる。

路上観察学会 発会式 1986 ©飯村昭彦 
鈴木康広《遊具の透視法》 2001 撮影:川内倫子
「路上、お邪魔ですか?」展示風景。

次の鈴木康広《遊具の透視法》(2001)では、かつて多くの公園にあった球体の遊具「グローブジャングル」の鋼鉄製のミニチュアに、遊ぶ子どもたちの映像が映し出される。ミニチュアは自由に回すことができ、手をかけるとずっしりとした質感。子ども時代に友人と交代しながら遊具を回した光景が蘇って懐かしくなった。だが、グローブジャングルはその危険性から徐々に公園から姿を消し、2026年現在、渋谷区内のものは全て撤去されたという。

一方、迫川尚子が撮影したのは、1990年代、新宿駅西口地下道のダンボールハウスで暮らした人々だ。新宿駅ビルでパブ兼カフェを営む迫川は1996年、ダンボールハウスの強制排除の報道をきっかけに現地へ通い、写真撮影を続けた。地面に突起物を設けた、いわゆる「排除アート」の上に洗濯物を干し、路上に板を敷いて眠る人。ひょっとこの面をかぶっておどける人。写真には、それぞれ異なる表情や日々の営みが写っている。

「路上、お邪魔ですか?」展示風景。
迫川尚子 お面をかぶっておどける新城さん。沖縄出身。右翼の街宣車だろうか。君が代が流れると頭をかかえてうずくまった。1996年8月 ©迫川尚子
「路上、お邪魔ですか?」展示風景。

銭湯山車巡行部の《銭湯山車》は、廃業し解体された銭湯から引き取った看板やロッカー、カランなどを組み合わせた山車だ。カランからは実際に水が流れ、山車に集まった人々は身を寄せ合いながら、銭湯にあった物に触れる。展示映像で制作メンバーが語るように、銭湯も路上も、見知らぬ人同士が互いの存在を意識しながら同じ空間を共有する場所だ。《銭湯山車》は、銭湯で育まれてきたそうした他者との関わりを、路上へと持ち出す試みともいえる。

建築コレクティブ、GROUPの《眠らない都市》は、渋谷に構想した「No Sleep City」の模型を通して、眠る場所や働き方、さらには安全のあり方まで都市によって設計されたらどうなるのか、と問いかける。

高さ300メートル、長さ1キロメートルのLEDディスプレイの壁に囲まれた街で、人々は昼夜を問わず人工の光の中で活動し、眠るときは壁の内部の居室に入る。家具は備え付けで、トランク一つで移動できるが、居室の中には監視カメラとセンサーが備えられており、安全が、常に「見られる」ことで担保されるという仕組みだ。

同展の作品から浮かび上がるのは、路上を本当の意味で「誰にでも開かれた場所」にすることの難しさだ。安全で快適な都市をつくろうとするほど、想定外の創造的な使い方や人との出会い、ただそこにとどまる余地まで排除する可能性がある。だからといって、無秩序であることが、そのまま自由や公共性を約束するわけでもない。異なる立場や事情をもつ人々が同じ場所を共有するために、都市は何を整え、何を余白として残すべきなのか。その問いを抱えながら、改めて街を歩いてみたい。

路上、お邪魔ですか?
会期:9月19日(土)〜11月23日(月祝)
場所:松濤美術館(東京都渋谷区2丁目14-14)
時間:10:00~18:00(金曜は20:00まで、入場は30分前まで)
休館日:月曜(10月12日、11月23日は除く)10月13日、11月4日

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