The Met x Vacheron Constantin The Artisan Residency Programme 2026
The Met x Vacheron Constantin "The Artisan Residency Programme"

伝統が未来へ変わるとき──THE METとヴァシュロン・コンスタンタンが探る、工芸と芸術の可能性

女性たちの手仕事を巨大な木彫へ、古代エジプトの器を大胆な陶芸作品へ、そして精緻な金属細工に朽ちゆく美を宿す──メトロポリタン美術館とヴァシュロン・コンスタンタンによる「アルチザン レジデンシープログラム」の成果が発表された。伝統的な技術を受け継ぎながら、新たな表現を追求した3人の作家の作品から、工芸と芸術、そして文化の継承について考える。

メトロポリタン美術館デンドゥール神殿にて発表された「アルチザン レジデンシープログラム」。Photo: Courtesy of Vacheron Constantin

美術館が担うのは、過去の文化遺産を保存し、研究し、次の世代に伝えることだ。しかし、その役割は、すでに存在するものを守ることだけで完結するのだろうか。いずれ過去となる現在において、私たちは未来へ何を残せるのか。その問いに一つの答えを提示する取り組みが、10月8日、ニューヨークで発表された。スイスの高級時計メゾン、ヴァシュロン・コンスタンタンとメトロポリタン美術館(以後、THE MET)が共同で実施した「アルチザン レジデンシープログラム」の成果発表だ。

その舞台となったのは、約2000年前に建造され、1978年にニューヨークのTHE METに移築されたデンドゥール神殿だ。この神殿自体、かつてエジプトのアスワン・ハイ・ダム建設に起因する遺跡の水没危機から国際協力によって救われた歴史がある。その謝意の印として1965年にアメリカに寄贈され、かつてナイル川沿いに建っていた姿を想起させるよう、THE METに再建された。

そんな文化遺産の継承というプログラムの理念にも重なる空間で披露されたのは、異なる分野で活躍する3人の職人による意欲作だ。公募によって選出された彼らは、18カ月にわたり、METの膨大なコレクションや専門家、ジュネーヴにあるヴァシュロン・コンスタンタンの工房や職人たちとの交流を通して、それぞれの技術と表現の限界を超えて、新たな可能性を探求した。

完成した作品は、まるで生命を得たかのような木彫による巨大な器、軽やかに舞うような大胆な陶作、そして、時間による変化や朽ちゆく美を表現した精緻な金属細工。素材も造形も大きく異なるが、いずれも、それぞれが持つ歴史的・文化的な背景と技術を受け継ぎながら、従来とは異なる目的や表現に挑戦した芸術作品だ。

伝統を継承するとは、過去の作品や技法を忠実に再現することなのか。それとも、受け継いだ技術に新たな意味を与え、変化させ続けることなのか。作家や関係者たちの話から、その問いを掘り下げてみたい。

伝統を受け継ぐとは、過去を再現することではない

ヴァシュロン・コンスタンタン アメリカ社長、アレクサンダー・シュミット(左)と、The Metの教育部門を率いるハイディ・ホルダー(右)。Photo: Courtesy of Vacheron Constantin

「私たちは時計を製造するメゾンですが、それ以前に職人の集団でもあるのです」

発表翌日にTHE METで開催されたトークセッションで、ヴァシュロン・コンスタンタンのスタイル・アンド・ヘリテージ・ディレクター、クリスチャン・セルモニ(Christian Selmoni)はそう語った。

近年、フランスのルーヴル美術館や中国北京の故宮博物院内に設置された教育機関「故宮学院」とのパートナーシップなど、文化機関との共同プロジェクトを精力的に展開する同社のはじまりは、1755年、創業者ジャン=マルク・ヴァシュロンが最初の弟子と徒弟契約を結んだことから始まった。芸術的な創造性と職人的な技術の区分が体系化された18世紀から現在に至るまで、精密な時計製造と装飾工芸を発展させてきたメゾンだ。

一方、所蔵する歴史的な美術品を現代の職人や作り手の創作に生かすという理念を持つTHE METの教育部門責任者として、このプロジェクトを率いたハイディ・ホルダー(Heidi Holder)は、セルモニの言葉にこう続けた。

「重要なのは、受け継いできた伝統や技術をどう生かすか。過去を再現するのではなく、創造性と革新によって、現代に意味を持つものを生み出すことなのです」

2人の言葉からも、今回のプログラムが、過去の遺産を研究する機会を現代の作家へ提供するだけではなく、そこから新たな表現が生まれることを目指していることが伝わってくる。

「小さくされることを拒む」──女性たちの手仕事を巨大な木彫へ

The Met x Vacheron Constantin The Artisan Residency Programme 2026
メトロポリタン美術館とヴァシュロン・コンスタンタンによる「アルチザン レジデンシープログラム」に参加したアスペン・ゴラン(Aspen Golann)とその作品《Vessel》。Photo: Courtesy of Vacheron Constantin

では、3人の作家たちは、このプログラムの思想をどんなふうに受け取り、実現していったのか。アメリカの家具職人でアーティストのアスペン・ゴラン(Aspen Golann)は、豊かな曲線を描く巨大な木彫の器《Vessel》を前にこう説明する。

「この作品の高さは5フィート4インチ(約163センチ)。アメリカ人女性の平均身長と同じ高さなんです」

伝統的な木製キャビネットを思わせる脚部を持ちながらも、《Vessel》はもはや家具としての機能を持たない。むしろ、17層の木材を重ね、各層を異なる色に手作業で染めてから接着したという独自の積層材は人間の肌を想起させ、ふくらみのあるフォルムは、どこか女性の身体を思わせる。さらに、その積層材の表面を彫り進めることで内部の異なる色を露出させ、草花や果実、動物などのモチーフからなる複雑な装飾を浮かび上がらせている。

《Vessel》制作風景。Photo: Courtesy of Vacheron Constantin
《Vessel》制作風景。Photo: Courtesy of Vacheron Constantin
《Vessel》制作風景。Photo: Courtesy of Vacheron Constantin
《Vessel》 Photo: Courtesy of Vacheron Constantin

そこには明確な意図がある。ゴランが着想を得たのは、植民地時代のアメリカで盛んに行われたイギリス発祥のクルーエル刺繍(crewelwork embroidery)だ。主にウールの糸を使い、布地に草花や動物などの模様を施すこの技法は、歴史的に女性たちの手仕事と深く結びついてきた。彼女が特に関心を寄せたのは、15歳から17歳ほどの少女たちが制作した刺繍だったという。身の回りの自然や動物を描写した図像と、空想上の生き物や場面が混在し、現実と想像が入り交じる独特の世界は、彼女にとって、少女たちの豊かな内面──しかもそこには、「愛だけでなく、暴力や労働、恐怖も存在していた」──を知るための手がかりだったという。

「少女たちの刺繍は、キャビネットの中や寝室など、家の中のプライベートな空間に置かれ、しまい込まれていたんです。だからこそ私は、しまっておくことのできないものをつくりたかった。彼女たちの世界をすべて詰め込めるだけの空間が欲しかったんです」

初期アメリカの家具製作は、主として男性の職能として発展してきた。ゴラン自身、木工を学ぶなかで「女性の教師に教わった経験は一度もない」と話す。そうした歴史も背景に、ゴランは男性中心の家具製作の技術を使いながら、女性たちの表現をキャビネットの内部から解放し、それ自体が人間の身体ほどの存在感を持つ作品へと変えたのだ。ここには、収納と展示、私的空間と公共空間、不可視化と可視化という、複数の対立関係が見て取れるとともに、工芸の歴史において、誰の仕事が人目に触れ、誰の表現が評価されてきたのかという問いをも投げかけているようだ。

ゴランはいう。

「私の作品には機能的なものとのつながりが残っています。でも、もはや実用品ではありません。作品の美しさや意味、力強さは、何のために使うかによって生まれるのではなく、それが何であるかということ自体から生まれているんです」

古代エジプトの器が、時を超える彫刻に

「アルチザン レジデンシープログラム」で制作されたイブラヒム・サイードによる陶芸作品《Shaping Time》。Photo: Courtesy of Vacheron Constantin

母国エジプトとアメリカを拠点に活動する陶芸家イブラヒム・サイード(Ibrahim Said)は、THE METが所蔵する古代エジプトの「新年のボトル(New Year's flask)」に着想を得た《Shaping Time》を発表した。古代の器に見られる流麗な曲線を受け継ぎながら、鋭い稜線と幾何学的な透かし彫りを組み合わせ、まったく新しい複雑な構造へと発展させた作品だ。

大胆にうねる曲面と、随所に開けられた空洞。幾何学的な装飾をまとった陶の造形は、内と外、量塊と空間を複雑に交錯させながら、わずかな接地面で絶妙な均衡を保っている。陶器の重量や脆さを感じさせない軽やかさと強さで、《Shaping Time》はふわりと自立しているのだ。

「今回のレジデンシーでは、自分自身にどう挑戦するかを考えました」と語るサイードは、今回のレジデンシーに応募する以前から、METのエジプト美術コレクションの中でも古代エジプトで新年の祝祭と結びついていた新年のボトルの造形に強く惹かれ、小さな作品を試作し始めていたのだという。その後、レジデンシーへの参加が決まり、資金と時間、専門家の支援を得たことで、構想を大胆なスケールへと発展させることができた。

もとの新年のボトルは、高さ十数センチほどの小さな器だったが、サイードは、そこに見られる首飾りのような装飾や帯状の構造に注目した。

「この形をどう変えられるだろうか。どうすれば空間を開き、ねじり、つなぎ合わせられるだろうか。一つの円ではなく、二つの円にできないだろうか」

古代の器の装飾的な要素を、立体の構造そのものへと転換する。それは、器として培われてきた造形の可能性を、彫刻的な表現へと押し広げる試みでもある。その試みは、土という素材の特性ゆえに、技術的にも大きな困難を伴った。特に、大きく張り出した陶器の構造を、わずかな接続部分で支えることは、今回の制作における最大の挑戦の一つだったという。彼は、くじけそうになりながらも実験と試作を繰り返し、ついにブレイクスルーを得たのだ。

スタジオにて《Shaping Time》を制作するイブラヒム・サイード。Photo: Courtesy of Vacheron Constantin
《Shaping Time》制作風景。Photo: Courtesy of Vacheron Constantin
《Shaping Time》制作風景。Photo: Courtesy of Vacheron Constantin
《Shaping Time》制作風景。Photo: Courtesy of Vacheron Constantin

エジプトで育ち、現在はアメリカで暮らす彼にとって、THE METのエジプト美術やイスラム美術のコレクションに触れることは、故郷に帰るような体験でもある。

「METに来て、エジプト美術やイスラム美術の展示室にいると、エジプトに帰ったような気持ちになる。作品を見るときには、それがつくられた時代を生きてみようとするんです」

今回のレジデンシーでは、METの学芸員らとの対話や調査を通じて、着想源となった作品への理解を深めることができた。そして、その歴史的な知識と、自らの身体に刻まれた文化的な記憶を結びつけながら、古代の造形に新たな形を与えていった。

サイードは、伝統と革新の関係についても明確な考えを持っている。彼にとって、伝統を受け継ぐことと、新しい表現を生み出すことは、別々の行為ではない。自らの文化的なルーツをたどりながら、古くから存在する形に自らのアイデアを加え、現代の身体感覚と技術によって、新たな表現へと発展させていく。その連続性の中に、創作があるというのが持論だ。

「それらを切り離すことはできません。実際には、一緒に存在しなければならないのです」

《Shaping Time》という作品名には、もう一つの重要な意味が込められている。

「私が考えているのは、私たちが今生きている時間と、死後の世界の時間です」

死後の世界という考え方は、彼自身が受け継いできた文化とも結びついているという。古代エジプトの器に着想を得ながら、現在の生と死後の世界という異なる時間を一つの造形へと結びつける《Shaping Time》。それは、歴史的な形を再現するのではなく、過去から受け継いだ文化や技術を通して、今を生きる自分自身の時間観を表現しようとする作品なのだ。

完璧なものをつくれるからこそ、不完全さを選ぶ

The Met x Vacheron Constantin The Artisan Residency Programme 2026
メトロポリタン美術館とヴァシュロン・コンスタンタンによる「アルチザン レジデンシープログラム」に参加したジョイ・ハーヴェイ(Joy Harvey)とその作品《Ruined Splendour – BRONZE DIADEM》。Photo: Courtesy of Vacheron Constantin

英国とイタリアにルーツを持つ金工作家ジョイ・ハーヴェイ(Joy Harvey)の《Ruined Splendour – BRONZE DIADEM》にも、サイードと同じ「長い時間の価値」への敬意が見て取れる。

手作業で制作した2000個以上の小さな金属の輪や、精緻な葉の装飾を組み合わせた作品でひときわ目を引くのが、酸化によって生まれた鮮やかなブルーだ。緻密に組み上げられた金属細工の表面に現れた青は、作品に強烈な視覚的印象を与えると同時に、金属が時間とともに変質していくことを示している。

作品名の「Ruined Splendour」は、朽ちゆく華麗さ、あるいは失われゆく栄華とでも訳せるだろう。ハーヴェイが関心を寄せるのは、完成されたものが時間とともに変化し、やがて崩れていくという不可避の過程だ。その背景には、気候変動や世界各地で起こる破壊に対する思いもあるという。

しかし、彼女が追求する「不完全さ」は、技術的な未熟さから生まれたものではない。それは、優れた「表現」は完璧さを超えるという信念の表れでもある。

例えば、作品を構成する小さな金属の輪は、すべてを完全に同じ形につくることもできたというが、「それでは意味がない」と彼女は強調する。むしろハーヴェイが目指したのは、長い間地中に埋まっていた遺物が、ある日発掘されたような姿だった。

《Ruined Splendour – BRONZE DIADEM》制作風景。Photo: Courtesy of Vacheron Constantin
《Ruined Splendour – BRONZE DIADEM》制作風景。Photo: Courtesy of Vacheron Constantin
《Ruined Splendour – BRONZE DIADEM》制作風景。Photo: Courtesy of Vacheron Constantin
《Ruined Splendour – BRONZE DIADEM》 Photo: Courtesy of Vacheron Constantin

技術的な制約の結果ではなく、明確な美意識に基づく選択としての不完全さに挑戦した彼女は、1930年代以前のアンティークジュエリーに惹かれるという。

「完璧につくられたジュエリーを見ると、技術的には素晴らしいと思います。でも、どこか冷たく感じるんです。一方、古いジュエリーには、現代の精密な製造技術では再現しきれない魅力がある。そこには人の手の痕跡が残っているからです」

イタリアとイギリスにルーツを持つハーヴェイは、今回の制作を通じて「異なる文化の技術や造形を組み合わせること」へ挑戦してもいる。彼女が今回の作品の着想源となるMETの所蔵品に初めて出会ったのは、2019年のこと。彼女は、今回のレジデンシーのインスピレーションとなる所蔵品を写真に収めていた。今回の制作では、それらの作品を組み合わせ、互いに対話するような造形を目指した。

「METの展示室を歩けば、私の作品がどこから生まれたのかが分かるようにしたかったんです。その出自が分かることが、私にとっては大切でした。一方で、自らの出自によって、自分の表現を限定する必要があるとは感じていません。できる限り、世界中のさまざまな文化からインスピレーションを受け、異なる文化やその技術に敬意を払いながら創作したいと思っています」

まだ存在しない未来の文化をつくるために

それは、セルモニが「手の知性(intelligence of the hand)」という言葉で表現した、ものづくりの本質とも重なる。高度な技術を習得することと、その技術を使って何を表現するかを考えることは、決して別々の営みではない。ハーヴェイの作品は、精緻な技術の先に、必ずしも完璧さを目指さない創造の可能性があることを示している。

3人の作品に共通するのは、過去から受け継いだ技術を、単に保存すべきものとして扱っていないことだ。ゴランは家具製作の技術を使って女性たちの表現を可視化し、サイードは古代の器の造形から新たな時間の概念を探求し、ハーヴェイは精緻な金工技術によって完璧さの価値そのものを問い直した。

いずれの作品も、卓越した技術なしには成立しない。しかし、その価値は技術的な完成度だけでは測れない。受け継いだ技術を使って何を表現し、どのような問いを投げかけるのか。3人の実践は、工芸と芸術を分ける境界そのものを問い直しているとも言える。

「私たちは作品を保存しています。しかし、150年後の私たちのような美術館のために、次に何が起こるのかも考える必要があります」

ホルダーのこの言葉は、美術館が過去の文化遺産を守るだけでなく、現在の創造を育む場にもなり得ることを示唆している。かつて誰かが生み出した作品が、数百年、数千年の時を経て美術館に収められているように、今を生きる作り手たちの作品もまた、未来の誰かにとっての文化遺産になるかもしれない。伝統を受け継ぐとは、過去を変わらぬ形で保存することだけではない。受け継いだものに新たな意味を与え、まだ存在しない未来の文化をつくっていくことでもあるのだ。