「見えない世界」を描いた9人の女性たち──霊的世界との交信から生まれた、もう一つの美術史

近年、日本を含む各国で再評価が進むヒルマ・アフ・クリントをはじめ、さまざまなスピリチュアルアートの女性作家に光が当たるようになった。その中から代表的な9人を選び、独創的で多様な作品世界、制作手法や霊的な活動を紹介する。

ジョージアナ・ホートン《The Omnipresence of The Lord》(1864年10月31日) Photo: Collection of the Victorian Spiritualist’s Union, Melbourne, Australia
ジョージアナ・ホートン《The Omnipresence of The Lord》(1864年10月31日) Photo: Collection of the Victorian Spiritualist’s Union, Melbourne, Australia

19世紀半ばに勃興したスピリチュアリズムは、大勢の信奉者を集めた。中でも特に多かったのが、この運動にほかでは得られない力を与えられた女性たちだ。スピリチュアリズムに影響を受け、19世紀から20世紀に活動した女性アーティストたちに関する著書『The Other Side: A Story of Women in Art and the Spirit World(向こう側:芸術と霊的世界における女性たちの物語)』(2024)の序章で、ジェニファー・ヒギーは次のように記している。

「私は非凡な女性たちが住む世界へと時間旅行をした。(中略)彼女たちが精神世界に安らぎを見出したのは、その無限とも思える才能を発揮するには現実の世界があまりにも敵対的だったからだ」

一大ムーブメントになったスピリチュアリズムが始まったのは、1840年代後半のニューヨーク州北部ハイズビルだった。当時そこに住んでいたケイトとマーガレットのフォックス姉妹がラップ音を聞き、それを通じて霊と交信できると主張。大きな注目を浴びた2人は霊媒師としてアメリカ中を巡りながら交霊会を開催するようになり、死者の霊と交信したいという人々の願望は瞬く間に大西洋を越えて広まっていった。

それから程なく現れたのが、霊から受け取ったメッセージが不思議な図像に変換されると主張する霊媒師的なアーティストたちだ。そして、西洋美術史における抽象表現の先駆者とされてきたワシリー・カンディンスキーらより早く、初の非具象作品を生み出したのは、非物質的な世界とつながろうとした女性たちだった。ヒギーはこう分析する。

「それぞれ独特の作風ではあるが、スピリチュアリズムに傾倒した女性作家たちは皆、共通する目標を持っていた。それはアートを通じて別次元と交信し、そこから学びを得ることだった」

19世紀後半から20世紀初頭のヨーロッパにおける抽象芸術の発展は、スピリチュアルな思想と密接に結びついていた。この点について深く掘り下げたのが、1986年にロサンゼルス・カウンティ美術館で開催された画期的な展覧会『The Spiritual in Art: Abstract Painting 1890-1985(芸術における精神性:抽象絵画 1890-1985)』だ。そして同様のテーマは、今もさまざまな展覧会で取り上げられている。

たとえば、スウェーデン人アーティストのヒルマ・アフ・クリントを抽象芸術の先駆者として位置づけ、記録破りの来場者を集めたグッゲンハイム美術館の2018年の展覧会や、現在ホイットニー美術館で開催中のミニー・エヴァンス回顧展(2027年1月10日まで)、さらにヒギーがキュレーションを手がけ、イギリスのターナー・コンテンポラリーで来年2月に開幕する「Natural Magic: Women, Art, Sprit Worlds(自然の魔法:女性、芸術、霊の世界)」などがある。

この記事では、過去2世紀に異世界との交信を試み、その体験を芸術作品として記録した9人の女性アーティストに焦点を当てる。ヒギーはそれらの作家についてこう書いている。

「彼女たちは確かに本質的な何かを理解していた。私たち1人ひとりが自らの存在に意味を見出す方法は、決して単純なものではないということを」

1. ジョージアナ・ホートン(1814-1884)

ジョージアナ・ホートン《The Love of God》(1864年8月5日) Photo: Collection of the Victorian Spiritualist’s Union, Melbourne, Australia
ジョージアナ・ホートン《The Love of God》(1864年8月5日) Photo: Collection of the Victorian Spiritualist’s Union, Melbourne, Australia

カンディンスキーが『抽象芸術論:芸術における精神的なもの』を1911年に出版する何十年も前、自分は霊に導かれているとして完全に抽象的な水彩画や鉛筆画を描いたイギリス人女性がいた。美術教育を受けたアーティストであると同時に、芸術的な霊媒でもあったその作家、ジョージアナ・ホートンは、1860年代から70年代にかけてトランス状態を体験する集まりや交霊会に参加し、自動描画で絵を制作。時には、ティツィアーノやコレッジョ、カラヴァッジョなど、既にこの世にいない芸術家に導かれていると主張することもあった。

プリズムのような色彩と渦巻く線で抽象的な作品を生み出したホートンは、この世ならぬものが本当の作者なのだと主張することで、抽象画という言葉が使われるようになるはるか以前から自在にそうした絵を描けたのかもしれない。著書『Evenings at Home in Spiritual Séance(自宅の心霊降霊会で過ごす夜)』(1882)の中で彼女は、「それまで夢にも思わなかった形やデザイン、距離を私は発見した」と述べている。

1871年、ホートンは自らの企画と出資で、ニュー・ブリティッシュ・ギャラリーでの個展を開催し、155点の作品を発表した。この個展はジ・エラ紙(The Era)によって「今ロンドンで開かれている展覧会の中で最も驚嘆すべきもの」と評されたが、商業的には失敗に終わり、1884年にホートンが脳卒中で死去すると作品はほぼ忘れ去られてしまった。現存が確認されている彼女の作品は50点に満たないが、そのうち最も多くを所蔵しているのがオーストラリアの宗教団体ビクトリア州スピリチュアリスト・ユニオンだ。同団体は、1910年に展覧会のためオーストラリアへ送られた作品をその後取得している。

ホートンの作品は、近年再び脚光を浴びている。2016年にロンドンのコートールド美術館で彼女のドローイング展が開かれて高く評価され、その前年にはメルボルンのモナシュ大学美術館でも作品が展示された。また、2023年にはシドニーのニュー・サウス・ウェールズ州立美術館で個展が開かれたが、カンディンスキー展と同時期に開かれたこの展覧会で、彼女は抽象芸術の先駆者とされていた。

2. アンナ・メアリー・ハウィット(1824-1884)

アンナ・メアリー・ハウィット《Spirit drawing》(1858年頃) Photo: Wikimedia Commons.
アンナ・メアリー・ハウィット《Spirit drawing》(1858年頃) Photo: Wikimedia Commons.

イギリスにおける初期のスピリチュアルアーティスト、アンナ・メアリー・ハウィットも、正規の美術教育を受けた作家だ。画家のヘンリー・サスが設立したロンドンの美術学校で、後にラファエル前派を結成したウィリアム・ホルマン・ハントやダンテ・ゲイブリエル・ロセッティと共に学び、その後はミュンヘンで研鑽を積んだ。だがイギリスに戻った彼女は、美術評論家のジョン・ラスキンから作品を酷評されたことで自身の絵画をすべて焼き捨て、一からやり直すことにしたという。「彼女は情熱的で衝動的な性格で、必要以上に空想的だった」──美術評論家のウィリアム・マイケル・ロセッティ(ダンテの弟)は著書『Some Reminiscences(回想録)』(1906)でそう述べ、「霊たちが放っておいてくれたなら、ぞの影響下で描いたものよりはるかに優れたドローイングや絵画を彼女は生み出せたはずだ」と付け加えている。

両親が揃って心霊主義者だったハウィットは、スピリチュアリズムがイギリスに伝わって間もない頃から交霊会に参加していたが、その動機の1つに亡き弟クロードと交信したいという願いがあった。トランス状態での自動描画を彼女が始めたのは1856年のことで、その心霊画は主に薄いトレーシングペーパーに描かれていた。一般に公開された最初期のスピリットドローイングである彼女の絵は、友人のカミラ・デュフォー・クロスランドが著した心霊主義に関する本『Light in the Valley(谷間の光)』(1857)で紹介されている。

ハウィットが創設メンバーの1人に名を連ねるロンドンの心霊研究カレッジ(College of Psychic Studies)には、絵や著書、記事など彼女に関する品々が並ぶ展示室がある。そこに展示されているフレデリック・ハドソンが撮影した心霊写真には、アンナと父親、そして死んだ弟の霊だとされる人物が写っている。また、ケンブリッジ大学図書館が、心霊現象研究協会(Society for Psychical Research)のアーカイブの一部としてハウィットのドローイングを所蔵している。

3. アンナ・カッセル(1860-1937)

アンナ・カッセル《No. 54》(1915)
アンナ・カッセル《No. 54》(1915)

アンナ・カッセルが、のちに友人で共同制作者となるヒルマ・アフ・クリントと出会ったのは、2人が通っていたストックホルムの工芸学校でのことだった(学生時代の2人は恋人同士だった可能性がある)。スピリチュアリズムを信奉し、交霊会や自動描画の実験を行った女性グループ「5人」にカッセルが所属していたことは以前から知られていた。しかし研究が進むにつれ、アフ・クリントが1906年から1915年にかけて制作した14のシリーズからなる193点の作品群「神殿のための絵画」に、カッセルが大きく貢献していたことが明らかになりつつある。

オーストリアの神秘学者、ルドルフ・シュタイナーのアーカイブから2021年に発見されたカッセルのノートを分析した美術史家のヘドヴィグ・マルティンは、「神殿のための絵画」の最初の連作(1906-07)を構成する26点の小さな油彩画のうち、12点がアフ・クリントによるもので、14点がカッセルによるものではないかと推察している。マルティンは、このシリーズ(当初は「シリーズ1」または「最初の26点の小品」と呼ばれ、後に「原初の混沌」と改名された)には2人の作風の違いがはっきり表れていると指摘。几帳面なカッセルが細部にまで注意を払って絵の具を均一に塗っていたのに対し、アフ・クリントの筆致は表情豊かで彩度が高いという。

「神殿のための絵画」の制作には「5人」の他のメンバーたちも関わっていた。しかしアフ・クリントは、のちにこの連作のうちさらに2つのシリーズを共同制作することになるカッセルだけを対等な存在として認め、ほかの4人は助手に位置づけていた。アフ・クリントは1914年にこう記している。

「A(アンナ)、導き手はあなたにメッセージを送っています。もうすぐあなたの進むべき道が整います。間もなくあなたの力は高まり、あなたはほかに類を見ないほど強固な支柱となるでしょう」

4. ヒルマ・アフ・クリント(1862-1944)

ヒルマ・アフ・クリント《グループIV、10の最大物、No. 7、成人期》(1907) Photo: Heritage Images via Getty Images
ヒルマ・アフ・クリント《グループIV、10の最大物、No. 7、成人期》(1907) Photo: Heritage Images via Getty Images

神秘主義者だったスウェーデン人アーティストのヒルマ・アフ・クリントは、自分は未来に向けて絵画を制作していると考えていた。2018年にニューヨークのグッゲンハイム美術館で開催され、大成功を収めたアフ・クリントの回顧展(同美術館の開館以来、最も多くの来場者を集めた展覧会の1つ)は、彼女を抽象芸術の先駆者としている。しかし生前の彼女は、一般の観客は自分のスピリチュアルな作品を受け入れる準備ができていないと感じていた。1932年、彼女はノートに記した「神殿のための絵画」の作品一覧のうち一部の作品にX印を付け、自身の死から20年後まで公開してはならないと指示している。

ストックホルム近郊で生まれ、同地の王立芸術アカデミーで学んだアフ・クリントは、当初は職業画家として具象画を描き、そのかたわら薔薇十字団や人智学、神智学への幅広い関心に根ざしたスピリチュアルな作品を自分のために制作していた。彼女がアンナ・カッセルとともに結成したグループ「5人」のメンバーは、トランス状態に入って「高次の導き手たち」と彼女たちが呼ぶ霊からのメッセージを受け取り、それを記録していたという。しかしアフ・クリントが、リーダーは自分であるべきだというメッセージを得たと主張したことをきっかけにグループは解散した。

「5人」の解散後、アフ・クリントは「神殿のための絵画」の制作に注力した。それは14のシリーズからなる193点の絵画で、彼女の代表作とされている。鮮やかな色彩と幾何学的な形にあふれたこの作品群を、アフ・クリントはメッセージだと捉えていた。「これらの作品は強烈な力で、下絵もなしに私という存在を介して直接描き出されました。何を描こうとしているのか自分でもまったく分かりませんでしたが、それでも私は筆致を一度も修正することなく、迅速かつ確信を持って制作を進めたのです」

ただし最近の研究では、「神殿のための絵画」シリーズはアフ・クリントが単独で制作したものではなく、友人たち、とりわけアンナ・カッセルとの共同制作の産物だった可能性が示されている。

5. ジャンヌ・トリピエ(1869-1944)

ジャンヌ・トリピエ《And there all the soldiers of the republican guard》(1937) Photo: Collection de l'Art Brut, Lausanne, Switzerland
ジャンヌ・トリピエ《And there all the soldiers of the republican guard》(1937) Photo: Collection de l'Art Brut, Lausanne, Switzerland

独学のフランス人アーティスト、ジャンヌ・トリピエがスピリチュアリズムに関心を持ったのは、58歳になってからのことだった。デパートの店員として働いていた彼女は仕事を辞め、降霊術の下で行うドローイングや執筆、刺繍、かぎ針編みに没頭。ジャンヌ・ダルクなどの死者から直接啓示を受け取っていると考え、しばしば反復をテーマに型破りな手法で作品を制作した。たとえば自らが書いた文章の横に添えられた小さな絵は、画材ではなく、ヘアカラーやマニキュア、薬、砂糖などで描かれている。

トリピエは1934年に慢性精神疾患、多弁症、誇大妄想と診断され、パリの精神科病院に入院し、最晩年の10年間はヌイイ=シュル=マルヌの精神病院で過ごした。アール・ブリュット(*1)の画家として捉えられることも多く、2018年から19年にはマドリードのラ・カサ・エンセンディダで個展が開催された。また、パリのポンピドゥー・センターのコレクションには数点のトリビエ作品が収蔵されている。

*1 アール・ブリュット(Art Brut/生(なま)の芸術)は1940年代にフランスの画家ジャン・デュビュッフェが提唱した概念で、既存の文化や流行、美術界の影響を受けずに制作を行う独学のアーティストなどの作品。

6. アグネス・ペルトン (1881-1961)

アグネス・ペルトン《Sea Change》(1931) Photo: Whitney Museum of American Art. Digital image copyright © Whitney Museum of American Art/Licensed by Scala/Art Resource, New York
アグネス・ペルトン《Sea Change》(1931) Photo: Whitney Museum of American Art. Digital image copyright © Whitney Museum of American Art/Licensed by Scala/Art Resource, New York

ニューヨークのブルックリンにあるプラット・インスティテュートでの学生時代に制作されたアグネス・ペルトンの最初期の絵画には、風景の中にいる優美な女性たちが描かれている。それから約10年後の1910年代、彼女は住居兼スタジオに改装したロングアイランドの古い風車小屋で、「イマジナティブ・ペインティング」と呼ぶ作品群の制作に取り組み始めた。こうした抽象画の何点かは1913年のアーモリー・ショーに出品され、1929年にモントロス・ギャラリーで開かれたニューヨーク初個展でも展示された。個展の図録でペルトンは、「単に目に見える美しさだけではなく、より包括的な性質を持ち、私たちの発達しつつある新しい知覚により直接的な衝撃を与えるような美」を見つけようと試みたと述べている。

1932年にカリフォルニア州のカテドラルシティに移住したペルトンは、1961年に死去するまでそこで暮らし、「この光の振動、空の広大さに魅了されました。ほかのあらゆるものと同様に自然にも精神が宿っていることは知っていましたが、この砂漠の精神はとりわけ明るく輝いていたのです」と語っていた。

ペルトンは独自の信念体系に基づき、瞑想時に浮かんだ曲線的でエネルギーに満ちたイメージを描き出した。美術史家のエリカ・ドスは、キリスト教神秘主義、アグニ・ヨガ、そして古代の伝統とオカルトを近代的な霊的実践へと発展させた神智学に傾倒したペルトンについて、「彼女にとって絵画制作は献身的な実践であり、自身の精神的信念を現代美術で表現するための手段だった」と、「Agnes Pelton: Desert Transcendentalist(アグネス・ペルトン:砂漠の超越主義者)」と題された個展の図録で書いている。この展覧会は2019年のフェニックス美術館を皮切りに、ホイットニー美術館、パームスプリングス美術館を巡回した。

7. マッジ・ギル(1882-1961)

マッジ・ギル《Untitled》(制作年不詳) Photo: Private Collection. Artwork © Crown copyright. Digital image: Bridgeman Images
マッジ・ギル《Untitled》(制作年不詳) Photo: Private Collection. Artwork © Crown copyright. Digital image: Bridgeman Images

独学でアーティストになったマッジ・ギルは、「ミルニネレスト」という霊的な導き手の力で作品が生まれると信じていた。そのため、ウエストエンドの商業ギャラリーから展覧会の開催を持ちかけられたときも、作品を自分のものとして売るべきはないと考え、申し出を断ったという。ギルの話によれば、初めてミルニネレストが彼女に憑依したのは1920年3月で、38歳の時だったという(叔母を通じて彼女がスピリチュアリズムに出会ったのはその数十年前だった)。それ以降、ギルは生涯にわたってこの導き手に従い、絵や文章のほか、織物や編み物、かぎ針編み、ピアノ演奏などの表現活動に取り組んだ。単色の線で描かれた反復的な画風が特徴のドローイングは、ギル自身あるいは導き手いずれかの姿を捉えたもので、しばしばミルニネレストの署名が見られる。

当時ロンドンのホワイトチャペル・ギャラリーでは、イーストエンドを拠点とするアマチュア芸術家のグループ展が毎年開催されていた。ギルはこの展覧会に1932年から47年まで定期的に参加するなど、生前から作品を発表している。ロール状の綿布を部分的に広げ、そこにインクで絵を描いては巻き取りながら描き進めていった絵の中には長さが40メートル近くにおよぶものもあり、1939年にホワイトチャペルで展示された。2026年2月26日には刺繍作品がクリスティーズ・ニューヨークで12万ドル(約1900万円)で落札され、ギルのオークション記録を更新している。その2年前の2024年にもヴェネチア・ビエンナーレに出品され、注目を浴びた。

さまざまな媒体を使ったギルの創作物は、降霊術的なアート作品であると同時に、彼女が抱えていた心の問題を反映したものと解釈されてきた。未婚の母の子として生まれ、9歳のときに孤児院に預けられたギルの人生は苦難の連続だった。小間使いになるため10代の頃に移住させられたカナダでも辛い思いをし、ロンドンに戻ってからの不幸な結婚生活では4人の子供をもうけたが、生き残ったのはそのうち2人だけだった。

8. エマ・クンツ(1892-1963)

エマ・クンツ《Untitled (Work No. 030)》(制作年不詳) Photo: Artwork copyright © Emma Kunz Foundation. DIgital image courtesy Emma Kunz Centre, Würenlos, Switzerland
エマ・クンツ《Untitled (Work No. 030)》(制作年不詳) Photo: Artwork copyright © Emma Kunz Foundation. DIgital image courtesy Emma Kunz Centre, Würenlos, Switzerland

エマ・クンツは自身をアーティストではなく、ヒーラー(治癒者)だと考えていた。効能のある植物を育て、「AION A」と名付けた天然の鉱物に治癒効果があるのを発見したと主張した彼女は、有害なエネルギーを癒しのエネルギーに変換する方法の研究に勤しんだ。霊媒のようにトランス状態でドローイングを制作するときには、48時間もの間、食事も睡眠も取らずに制作を続けることもあったという。

18歳の頃からテレパシーや予知能力について探求していたクンツは、中年期に入ってから色鉛筆やオイルパステルを使い、自らが「レディエステシア(radiesthesia、放射感知)」と呼ぶ手法で方眼紙の上に幾何学的なドローイングを描き始めた。先端にヒスイがついた銀の振り子を用いるこの手法からは、さまざまな線や形の模様が生み出されている。自らの芸術的なエネルギーの場を、「次元としてのデザインと形」、「リズム、シンボル、そして数字や概念の変容」と表現したクンツは、色や形には特定の意味があると考え、世界を理解するための手段だと捉えていた。

クンツはおよそ600点のドローイングを残したが、タイトルや制作年が記されたものは1つもなく、それらが何を意味するのかを説明する記録も残されていない。生前には一度も発表されることがなかった彼女の作品は、1973年にスイスのアールガウ美術館で初めて公開された。その後、クンストハレ・デュッセルドルフやパリ市立近代美術館で回顧展が開催され、2013年にはヴェネチア・ビエンナーレでの展示が行われている。

9. ミニー・エヴァンス(1892-1987)

ミニー・エヴァンス《Untitled (Red Lips on Moon)》(1959) Photo: Collection of Nathan Kernan. Artwork copyright © The Estate of Minnie Evans. Photo: Paul Takeuchi, courtesy of the High Museum of Art
ミニー・エヴァンス《Untitled (Red Lips on Moon)》(1959) Photo: Collection of Nathan Kernan. Artwork copyright © The Estate of Minnie Evans. Photo: Paul Takeuchi, courtesy of the High Museum of Art

スピリチュアリズムを信奉するヨーロッパのアーティストたちと同じ時期、アメリカで活動していたのがミニー・エヴァンスだ。彼女が夢をもとにドローイングや油彩画、コラージュを制作し始めたのは43歳になる直前の1935年の聖金曜日のことで、それ以降およそ1000点の作品を残している。幼い頃から鮮明な夢を見ていた彼女は、神聖な存在がそうした幻視を通じて世界に伝えるべきメッセージを自分に授けているのだと信じていた。後年、アートディーラーとして自身の作品を扱うようになり、友人でもあったニーナ・ハウエル・スターにも、「これまでの私の全人生は夢だった」と語っている。

エヴァンスの特徴とされるのは、幻想的な生き物や瞑想的な模様、植物のモチーフを組み合わせた緻密で神秘的な作風だ。カリブ諸島のアフリカ系の人々の文化や、神話、宗教的テーマ、装飾芸術を着想源とした彼女の作品に繰り返し登場する目のモチーフは、神の全知を象徴すると同時に、魂の窓を表している。細かく描かれたこれらの作品は事前に計画されたものではなく、手を動かすうちに自然に展開していったとする彼女は、「私が生み出した作品は、おそらく大洪水の前に既に滅んでいた国々からやって来たのだと思います。そうした国々について知る人は誰もいませんが、それをこの世に再びもたらす使命を神が私に与えたのです」と説明している。

エヴァンスはノースカロライナ州ウィルミントンで生まれ、人生のほとんどをそこで過ごした。地元で結婚して3人の息子をもうけ、エアリー・ガーデンズという歴史ある自然公園で30年近く門番として働き、95歳の誕生日の4日後に死去した彼女の墓石には、こう刻まれている。「言葉では表せないことを絵で語る、ミニー・エヴァンスを偲んで」(翻訳:野澤朋代)

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