今回お邪魔したのは、舘鼻則孝さんのアトリエ。レディー・ガガが愛用していた、高下駄に着想を得た“ヒールレスシューズ”を生み出したことでも知られるアーティストです。自国の文化や歴史と伝統工芸の精緻な技に裏打ちされた独自の作品で観る者を魅了し、幅広い領域で活躍する舘鼻さん。ご本人の真摯で穏やかな佇まいにも、すっかり惹き込まれていた右近さんでした。
軸にあるのは日本の文化や伝統
舘鼻:僕の父の家は、昔、新宿・歌舞伎町で銭湯をやっていたんです。僕のひいじいちゃんが戦後わりとすぐに富山から出てきて開いた銭湯で、「歌舞伎湯」という名前だったんですよ。
右近:歌舞伎湯! いいですね! 舘鼻さんと、そんな“歌舞伎”繋がりがあったなんて! 僕は今年(昨年10月末の取材時)、「研の會」という自主公演で文楽人形とコラボさせてもらったんですが、舘鼻さんも文楽とご縁がおありだとか?
舘鼻:カルティエ現代美術財団からのオファーで、人形遣いの(三世)桐竹勘十郎さんと、2016年にパリで文楽を上演しました。
右近:パリで!? さすがです。
舘鼻:最初は、パリの劇団の公演をプロデュースしないかという話だったんですが、僕はその劇団のことを全然知らないし、せっかくなら日本のものを持って行きたいと思って、文楽を提案したんです。フランスではもともと人形劇が盛んなので、合っているんじゃないかと。
右近:桐竹勘十郎さんとは、以前から親しくされていたんですか?
舘鼻:いえ、パリの話をもらう少し前に知り合いました。それで早速お声掛けしたら、乗ってくださって。そこから準備期間を2年ほどいただいて、文楽について勉強しながら、衣装や小道具、舞台美術を新しく制作したんです。新しい表現や“ものづくり”が介在する舞台にしたかったので、小道具は伝統工芸士の職人さんに、着物の制作は友禅の染色家さんにお願いして。最高級のクオリティのものを間近で見てもらうために、花道を作って舞台をT字型にして、舞台と客席の距離も1メートルくらいにしました。僕の場合、普段から伝統工芸や伝統文化を主題として作品を作ることが多いんですが、舞台の総合芸術監督みたいなことは初めての経験だったので、思い出深いです。
右近:すごいです。演出も舘鼻さんがなさったわけですよね? お客さんの反応はどうだったんですか?
舘鼻:お客さんの大半はパリ在住の日本人だろうなと思っていたら、ほとんどが日本人以外のお客さんで、皆さん熱心に観てくださって。太夫、三味線、人形遣いから成る15名くらいの一座で、3人の遊女を主人公にした3つの短編を上演したんですが、ハイコンテクストなカルチャーが土壌としてあるフランスだからこそ、恋する男女の“死の道行”のハッピーエンドでもなければ、バッドエンドでもない感覚も伝わったのかなという気がしています。終演後、勘十郎さんにサインをねだるお客さんもいたんですよ。
右近:素敵ですね。僕も今年『ジャージー・ボーイズ』という翻訳ミュージカルに出演したんです。この背格好で「トミー」なんて呼ばれちゃって(笑)。歌舞伎役者でありながら、そういうことも経験できるのはありがたいことだと感じているんですけど、30歳を迎えた時にふと「自分がこれをやる意味って何だろう?」と考えて、それはたとえば、日本で美味しく食べられているイタリア料理が、日本人の舌に合うようにアレンジされているのと同じなのかなと思い至りました。それは同時に、自分の中に歌舞伎という圧倒的な軸があることを再認識する出来事でもあったんです。舘鼻さんは、日本の文化や伝統をいつ頃から意識するようになったんですか? ご自身の表現において、日本の文化や伝統はどういう存在なんでしょう?
舘鼻:僕は昔、海外にすごく憧れていたんです。高校生の頃はファッションデザイナーになりたくて、それこそパリでファッションの勉強をして、海外で活動したいと思っていました。でも、海外に身を置いた自分を想像した時に、何が自分の武器になるんだろう? まずは自分が生まれた国の文化をしっかり学んで、武器になるものをこしらえてから外に出ても遅くないのかなと思うようになって。
右近:それは、いくつぐらいの時ですか?
舘鼻:大学を受験する頃ですかね。それで、東京藝術大学の工芸科に進みました。そこで出会った日本の伝統文化や伝統工芸を糧に卒業制作として発表したのが、ヒールレスシューズです。作品自体はクラシカルなものではないけれど、その背景には自分が学んできた伝統的な日本の文化があるというのが、今でも重きを置いているところです。
花魁が着用する高下駄に着想を得た「ヒールレスシューズ」シリーズの一つ
右近:ヒールレスシューズには、どういった経緯で辿り着いたんですか?
舘鼻:工芸科でも1、2年生の頃は、日本画や彫刻、西洋絵画を制作したり、幅広く色々なことをやるんです。僕が在学していた頃は、専攻に分かれるのは2年生の終わりで、僕はそこで染織を専攻して、3、4年生の時は友禅染の技法を研究して着物を染めたり、下駄を作ったりしていました。それこそ、歌舞伎の衣装も色々調べたんですよ。そんな中で興味を持ったのが花魁装束の高下駄で、あれを現代に置き換えたらどうなるのか?と考えて、最終的にできたのがヒールレスシューズです。当時は靴作りに関する情報が全然なかったから、道具も海外で靴を作っている日本人の職人さんに頼んで入手して、独学で作りました。でも、卒業制作で発表した時は全然評価されなくて。
右近:どうしてでしょう? 見れば「あ、高下駄だ」って、わかると思うんですが。
舘鼻:そういう方のほうが少ないですよ。大学の先生たちにしてみれば、「今まで伝統的なものづくりをしていたのに、なんで急にこれ!?」みたいな感じだったと思います。自分としては、卒業制作という社会に出る前の最後の関門では、今までやっていた伝統的な技法やスタイルの模倣ではなく、自分の表現をしたいと思って、下駄じゃなくて靴を作ったんですけどね。そもそも僕が社会に出て実際にやりたいのはこっちで、そのために大学で日本の伝統文化を学んだわけなので。
アトリエには、ヒールレスシューズを制作するための道具が並ぶ
ファッションからアートの世界へ
右近:そこから、どうやってレディー・ガガに繋がっていったんですか?
舘鼻:自分で売り込みました。彼女の動向を見ると、たとえばロンドンでコンサートをする時には、ロンドンの若手ファッションデザイナーやアーティストの服を着たりしていたので、自分にもチャンスがあるかもしれないと思って、ワールドツアー中の彼女が東京に来る2週間前ぐらいに、当時の彼女の専属スタイリストさんに連絡したんです。ホームページのコンタクトフォームみたいなところから、メールを送って。そしたらすぐに「東京で○月×日に音楽番組に出るから、1足作ってほしい」という返事が来て。
右近:すごい急展開!
舘鼻:まさにそうでした。僕が大学を卒業したのが2010年3月25日で、レディー・ガガがヒールレスシューズを履いてくれたのが4月中旬。そこから海外の人達にも知られるようになっていって。でも、日本のファッション誌の反応は遅かったですね。日本で初めてヒールレスシューズが掲載されたのは、雑誌「anan」のレディー・ガガ特集で、その次が、僕の靴を履いた彼女がロンドンのヒースロー空港でこけた時に、取材したいと電話を掛けてきた「FRIDAY」(笑)。その頃は、まだ日本のどのファッション誌にも掲載されていなかったんですよ。海外では「VOGUE」をはじめ、色々取り上げられていたのに。
右近:まさに逆輸入だったわけですね。日本はミーハーなのに保守的だったりするからなあ。
舘鼻:でも、そうやって海外で先に注目されたことは、ある意味、幸運でした。向こうで取材を受けると、作品や僕自身のバックグラウンドについて質問されることが多いので、自分が学んできた日本の伝統文化についても話せるんですが、日本のファッション誌の質問は便宜的なことばかり。作り手が大切にしていることは、あまり関係ないんだなと思うと結構ショックで、自分が身を置きたいのはファッションではなく、アートの世界だなと思ったんです。
右近:なるほど!
舘鼻:ファッション業界にいると「ブランドを作って、これを大量生産して売りましょうよ」みたいな売り込みがあるんですけど、自分は別にそういうことを目指しているわけではないし、今はアートに移ってよかったなと感じています。ファッション業界であれば、創業者がいなくなった後も名前は残ってブランドは続いていくけれども、アートの世界は作家が死んだら基本的に終わり。自分がやりたいのは、ブランドを運営することよりも、作家として生きることだという気がしていて。
子ども用の小さなサイズのヒールレスシューズも。後ろに写るのは、制作中だった「雷」をモチーフにした「Descending Painting Series」の絵画
右近:当時は色々なショックがおありだったと思うんですが、舘鼻さんにとっては必要な流れだったんじゃないでしょうか。それにしても、レディー・ガガとの出会いは大きなものだったんですね。
舘鼻:彼女とは、2010年の歌番組以降、2年ぐらいずっと一緒に仕事をさせてもらったんです。それは本当に特別なことだったし、すごく恵まれていたなと思います。ただ、スケジュールが常に超カツカツで、連絡が来て2日後くらいには納品しなきゃならなくて。当時は一人でやっていたので本当に大変でした。
右近:そんな無茶なスケジュールで作っていたんですか!?
舘鼻:FedExが集荷に来ちゃうから、もう必死です(苦笑)。当時は鎌倉の実家に住んでいたので、集荷に間に合わない時は横浜の海外出荷倉庫まで自分で持って行っていました。でも、そうやってなんとか頑張ったから、仕事が続いたんだと思います。
右近:僕は、アーティストさんの中に職人気質なところを感じる瞬間がすごく好きなんですけど、今まさに舘鼻さんにそれを感じました。仕事を依頼された時に、自分の感覚やポリシーに合わなければ「それはできない」「no」と言うのがアーティストさんで、絶対「yes」と言うのが職人さん。僕の中には、そういうイメージがあるんです。
舘鼻:確かに、技術を尽くして、言われたことは絶対完璧にやるのが職人さんですよね。頼まれるとついやってしまう僕にも、そういうところはあるかもしれない(笑)。ただ、あの2年間みたいなことは、もうできないと思います。2年の間に25足以上作ったんですが、本当にいい経験になりました。そこで色々なデザインを生み、精査できたのは、彼女に鍛えられたお陰です。実際、それ以降、新しいデザインのヒールレスシューズを作っていないんですよ。
欲しいものがあるなら自分で作ればいい
右近:舘鼻さんは、ご自分が表現する上でいちばん強く影響を受けているのは、どの時代に触れていたものだと思われますか? 僕は最近、自分は結局すごく根幹的なところで影響を受けたものから発想しているなと感じることが多くて。
舘鼻:僕も子どもの頃に受けた影響は強いと思います。僕の母はシュタイナー教育で使うウォルドルフ人形の人形作家で、その作り方の講師もしているんです。家には母のアトリエ兼教室があって、小さい頃からその材料や道具が当たり前のように身近にありました。母はおやつも全部自分で作る人で、僕の友達が家に遊びに来ると手作りのケーキを出してくれたんです。小さい頃はそれが嫌でしたが。
右近:手間ひまの掛かった、最高に贅沢なおやつじゃないですか。
舘鼻:今ならそれがわかりますけど、昔はずっと「うちは貧乏だから、お店のケーキやお菓子が買えないんだ」と思っていたんです(笑)。玩具も全然買ってもらえなくて、いつも「遊びたいものや欲しいものがあるなら、自分で作ればいいじゃない」と言われていたので、僕も色々手作りしていましたね。自分で買ったミニ四駆用のサーキットを段ボールから作ったりして。それが今の仕事に繋がっている感じです。美術の大学へ行くことを勧めてくれたのも母だったので、感謝しています。
右近:ファッションデザイナーになろうと思われたのは、どういったきっかけで?
舘鼻:きっかけは……コンビニですかね。実家があるのが鎌倉の山のほうで、結構田舎だったんですけど、中学の時に近くにコンビニができて、そこが情報の窓口になったんです。雑誌コーナーには、ストリートファッション誌から「VOGUE」まで、見たことのない雑誌が並んでいて、それを見ているうちにファッションに興味が湧いて、東京の洋書店へ海外のファッション誌を見に行くようになりました。でも、メンズのファッション、要するに自分が着るものを作りたかったわけではないんです。当時から、ある意味、作品的な価値観で洋服作りをしたいと思っていましたね。
右近:(アトリエ内を見回しながら)今は平面作品やインスタレーション作品の制作もされているんですよね。
舘鼻:ええ。でも、表現していることは変わらないです。僕は「Rethink」という言葉を使っているんですが、絵画や彫刻の制作も「過去を見直して現代でどう表現するか?」みたいな感覚でやっています。たとえば、この絵のモチーフは雷と雲なんですが、神社とかでよく見る白い紙を細く切ってジグザグに折った紙垂(しで)も雷をイメージしたもので、邪悪なものを追い払う意味があるんですよ。そうやって普段目にしているのに意外と気付かないものを現代のフォーマットで表現して、そこに込められた文化や美学を今の人たちに伝えたいなと僕は思っていて。ヒールレスシューズにしても、制作の背景には、分断されているような印象がある和装の文化と現代のファッションの間に入りたい、江戸の文化を現代に翻訳して未来に繋ぎたいという思いがあるんです。
取材時の2022年10月末に制作中だった《Descending Painting Series》
右近:素敵です。僕も歌舞伎の魅力を少しでもたくさんの人に伝えて、歌舞伎を未来に繋ぎたい。以前は「自分のために歌舞伎を最大限活用しなきゃ」と考えていたんですが、この1年くらいで歌舞伎に対する思いがすごく強くなっていて、最近はずっと「大好きな歌舞伎のために自分ができることは何だろう?」と考えていて。舘鼻さんも日本のアート界に対して、そういう思いをお持ちだったりしますか?
舘鼻:正直そんなに考えてはいませんね。アーティスト同士がコラボレーションすることはあっても、ライブで共演するような機会はあまりないので、そもそも“チーム感”が希薄なのかもしれません。とはいえ、海外で仕事をする時は、やっぱり“日本のアート代表”というような責任を感じます。そういうふうに見られますしね。あと、自分の出身校に対しては色々思うところがあったりします。
右近:たとえば、どんなことですか?
舘鼻:僕が芸大にいた頃は、作家として成功できないなら、美術を諦めるしかないみたいな感じで、中間がなかったんです。でも、たとえば作家になる過程で、プロのアーティストのところで働くという選択肢があったっていいですよね? アーティストの仕事をサポートする傍ら、自分の創作活動も続ける、みたいな。それで僕の会社では、制作スタッフには出身校の人を正社員として採用しているんですけど、大学には「雇われたら負け」みたいな感じがあって。その結果、せっかく芸大を出たのにアートと関わりを持てなくなる人が多くいるのは、すごくもったいないことだし、日本にとってもよくないことだと思うんですよ。
右近:確かに、もったいないですね。そんな舘鼻さんが今興味を持っているのは、どんなことでしょう?
舘鼻:今は、次のプロジェクトのことで頭がいっぱいかもしれない(笑)。僕は展覧会を開く時、まずテーマを設けるんです。たとえば2018年には、京都のお香の老舗「松栄堂」とコラボして、日本の香りの文化にフォーカスした展覧会を行いました。文楽の時と同じように色々勉強して、松栄堂の畑社長と話しながら作品作りをして。
右近:すごいですよね。文楽にしても、お香にしても、自分がやったことのない分野に挑戦されていて。
舘鼻:そこはやっぱりチャレンジしていかないと、世界が広がらないですから。もちろん怖さもありますが、こちらの意気込みを見せれば、皆さんそれを感じ取って協力してくださるので楽しいです。そのための勉強、インプットは毎回大変なんですが、僕は子どもと一緒に遊ぶことでリフレッシュしています。プロの美術家として活動するようになって以降、物事をなかなか無垢な状態で楽しめなかったりするんですが、子どもと遊んでいるとシンプルに仕事から解放されて楽しいし、リセットされる感覚があって。やっぱりアートには、そういうプリミティブで無垢な視点が必要じゃないかなと感じますね。
右近:僕の場合、インプットとアウトプットは呼吸に近い感覚があります。やっぱり一旦出さないことには、吸収もできないというか。
舘鼻:バランスが取れているということですね。
右近:そうですね。でも、吐きすぎちゃって吸えていない時や、アウトプットしたくて役者をやっているのに、向いていないんじゃないかと思うこともあります。僕、子どもの頃から毎回緊張して、公演が始まる3日ぐらい前からお腹を壊すんです。20代半ば頃から徐々に治っていたのに、このところまたそうなってきちゃって。僕も子どもの頃の無垢な感覚は大事にしたい。でも、そこはリセットされなくていいのになあって思います(笑)。今日はお忙しい中、ありがとうございました!
【尾上右近コメント〜対談を終えて】
「今回は舘鼻則孝さんとお話をさせていただきました。非常に静かに、そして情熱的にゆったりと大きく、ワクワクした時間を過ごさせていただきました。ファッションを経て、今アートの仕事をされている舘鼻さんのお話。やはり日本に対する距離感、国外に対する距離感、そして日本の価値というものを、今の僕の状況というのも含めてだと思いますけれども、あらためて、すごく感じた時間でした。本当にゆったりと情熱的な方で、私も非常に元気をいただきました。楽しい時間でした。ありがとうございました。」
1985年、東京都生まれ。2010年に東京藝術大学美術学部工芸科染織専攻を卒業。個展「呪力の美学」(岡本太郎記念館、2016年)、個展「It’s always the others who die」(POLA Museum Annex、2019年)、個展「NORITAKA TATEHANA: Refashioning Beauty」(ポートランド日本庭園、2019年)をはじめ、ニューヨーク、パリ、 オランダなど世界各地で作品を発表。2016年3月にパリのカルティエ現代美術財団で文楽公演を開催するなど、幅広い活動を展開。また、東京都主宰「江戸東京きらりプロジェクト」の一環である、東京の伝統産業に焦点を当てた「江戸東京リシンク展」(旧岩崎邸庭園、2022年)では展覧会ディレクターを務める。作品はメトロポリタン美術館、ヴィクトリア&アルバート博物館などに収蔵されている。
1992年東京都生まれ。清元宗家七代目 清元延寿太夫の次男。7歳で歌舞伎座にて本名の岡村研佑で初舞台。12歳で新橋演舞場にて二代目尾上右近を襲名。2018年には浄瑠璃方の名跡・七代目清元栄寿太夫を襲名する。歌舞伎以外の舞台や映像作品でも活躍し、映画「燃えよ剣」で第45回日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞。また自主公演「研の會(かい)」で研鑽を積む。2023年3月に京都・南座『三月花形歌舞伎』に出演予定。また、7月には新作歌舞伎『刀剣乱舞』(新橋演舞場)への出演が控える。
Edit & Text: Kaori Okazaki Photo: Shin Inaba
Styling: Kazuya Mishima(Tatanca) Hair & Make-up: Storm(Linx)
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