菅谷富夫と読むジェフ・クーンズ──凡庸と開放をめぐる対話【エスパス ルイ・ヴィトン大阪トークイベントレポート】

エスパス ルイ・ヴィトン大阪で開催中のジェフ・クーンズ個展「Paintings and Banality」(10月18日まで)に合わせ、6月1日に国立新美術館長の菅谷富夫をゲストに迎えたARTnews JAPAN読者向けトークイベントが実施された。その模様をレポートする。

エスパス ルイ・ヴィトン大阪で開催中(会期延長につき10月18日まで)のジェフ・クーンズの個展「Paintings and Banality」に合わせ、ARTnews JAPAN読者に向けたトークイベントが行われた。ゲストに迎えたのは、大阪中之島美術館特別顧問(前館長)で、現在は国立新美術館長を務める菅谷富夫。モデレーターはARTnews JAPAN編集長の名古摩耶が務めた。

本展は、エスパス ルイ・ヴィトン設立20周年、そしてフォンダシオン ルイ・ヴィトンの「Hors-les-murs(壁を越えて)」プログラム10周年を記念するものであり、意外にもクーンズにとって日本初個展。1980年代の初期シリーズから2000年代の大型絵画まで、約40年にわたる創作の変遷をたどる構成で、クーンズの名をアート界に知らしめた「Equilibrium」シリーズのバスケットボールが水に浮かぶ作品や、その評価を確たるものにした「Banality」シリーズの磁器彫刻、「Hulk Elvis」シリーズの絵画などが並ぶ。消費社会のイメージをアートの文脈へと導入し、「高尚」と「低俗」など価値の序列を問い続けてきたクーンズの40年以上に及ぶ実践をひも解く展覧会だ。

本展の中でも特に、菅谷にとって思い出深い作品が水を張ったタンクにバスケットボールを浮かべた《THREE BALL 50/50 TANK (WILSON NBA FORGE PRO, WILSON NCAA ENCORE, SPALDING DR. JK SILVER SERIES)》(1985)だ。1990年代初頭から大阪中之島美術館の準備室で同館のコレクション形成を担ってきた菅谷は、当時、「皆が驚くような、一番尖った作品を集めたい」と考えており、本作の収蔵を検討したが実現できなかったと振り返る。長く公立美術館運営に携わってきた菅谷の目に、ジェフ・クーンズという作家はどう映るのか。以下、トークの一部を紹介する。

日本でクーンズ展が実現しなかった理由

──ジェフ・クーンズは世界的に知られる現代アーティストですが、日本で個展が開催されるのは今回が初めてです。市場でも高い人気を誇る作家でありながら、日本初個展までこれほど時間を要した理由を、菅谷さんはどのように考えますか?

展覧会は、さまざまな条件が揃わなければ実現できませんが、とりわけ重要なのが、十分な作品数を確保できるかどうかです。

クーンズは1970年代後半から80年代にかけて頭角を現し、90年代には美術史的な評価を含めその地位を確立したことで、作品価格が急騰しました。その結果、日本のコレクターや美術館にとって、質の高い作品を容易に収集できる作家ではなくなっていった。国内にまとまった数の作品があるわけではないため、展覧会を開催するには海外から借用する必要があり、そこに大きなハードルがあったのだと思います。

一方で興味深いのは、2000年代以降、彼の市場での人気は衰えていないにもかかわらず、美術の批評や展覧会の文脈で名前を聞く機会が以前より少なくなったことです。2010年代にヨーロッパで大規模な回顧展が巡回した後も、市場では変わらず存在感を示していましたが、批評の中心からはやや距離を置かれるようになった印象があります。

そして近年は、そこに輸送の問題も加わっています。円安による航空輸送費の高騰に加え、中東情勢の影響やロシア上空を通るルートの制限によって、国際輸送は以前より不安定になっています。こうした状況を考えると、大規模な海外借用を前提とした展覧会は、ますます成立しにくくなっています。

時代ごとに理由は異なりますが、日本でクーンズの個展は、結果として長らく実現の機会を逃してきたのだと思います。

──そうした状況は、クーンズが好んで用いる「バナリティ(凡庸・ありふれたもの)」という言葉と矛盾しているようにも感じますね。そもそもこの「バナリティ」は、クーンズの作品においてどのような意味を持っているのでしょうか。

「凡庸」というのは、確かに彼を理解するうえで重要な言葉です。80年代のニューヨークでは、シミュレーショニズムやアプロプリエーションを含む潮流が台頭します。クーンズもそうした時代精神のなかで登場した作家の一人です。

シミュレーショニズムは大衆的なイメージを「サンプリング」あるいは「リミックス」する手法を特徴とする動きで、クーンズもそのなかに位置づけられます。かれらは、唯一無二のオリジナルを追い求める近代美術の価値観や、歴史が直線的に進歩していくという考え方そのものに疑問を投げかけていました。イメージが大量に複製され、流通する時代において、「オリジナル」とは何か、「作者」とは何かを問い直そうとしたのです。皆が知っていて、取るに足らないとされてきたイメージをあえて取り入れる。そうした手法は、当時とても新しかったのです。

また、80〜90年代には、ギャラリーが作家のキャリア形成や価格形成に大きな影響力を持つようになりました。クーンズの急速な評価の上昇も、作家の実践だけでなく、そうした制度や市場の変化と無関係ではなかったと思います。

「開かれたアート」という言葉の裏側

──クーンズは「誰にでもアートを開いていく」という趣旨の発言を続けてきました。一方で、彼の作品は非常に高額で、限られた人しか所有できません。市場において極めて高い評価を受けている作家が「アートを開く」と語ることを、どのように考えればよいのでしょうか。

「大衆のために作品を作る」と宣言した作家の作品が高価になるという矛盾は、19世紀から繰り返されてきました。たとえば、アーツ・アンド・クラフツ運動を率いたウィリアム・モリスは、「美しいものをすべての人の手に届ける」という理想を掲げながら、その品質へのこだわりゆえに作品は高価になり、広く普及するには限界がありました。

ただ、クーンズの場合は少し違うように思います。彼は、自分の作品を誰もが所有できるわけではないことを、最初から十分に理解している。そのうえで、それでも「開かなければならない」と語っているのです。

ただ、彼の言う「大衆」や「多くの人」という言葉には、いつも見えない括弧がついているように感じます。言葉どおりに、誰もが作品を所有できると信じているわけではない。むしろ、所有の民主化ではなく、作品を通じた体験や価値観へのアクセスを開こうとしているのではないでしょうか。

その意味で、彼は自らの立場が抱える矛盾を十分に自覚しながら、それでもなお「開く」という言葉を使い続けている人なのだと思います。

──クーンズ作品は、消費社会的モチーフを用いることで、どんな鑑賞者にも語りかけられるという意味で「開かれている」と言えますね。一方、私たちは現代美術と対峙するとき、作品が抱える「問い」や「意味」をつい探りたくなります。しかし、クーンズは、そうした態度そのものをするりとかわしてくる居心地の悪さがあります。

そうだと思います。これまでの作家たちには、ある種の問いがありました。先人たちが積み重ね、問い詰めてきた課題を引き継ぎ、「自分はそれを半歩でも進めることができた」と言える到達点があった。鑑賞者もまた、その問いに向き合い、何らかの答えを受け取ることができたのです。

ところがクーンズは、その物語自体をあまり信じていないように見えます。彼は、ありふれたものと高尚なものを区別しない。意味を読み解こうとする私たちの姿勢そのものを揺さぶってくる。何か隠された意味があるのではないかと探しても、彼は「それを決めるのは私ではなく、あなた自身だ」と突き放してくる。

彼の言う「開く」とは、鑑賞者が自分自身の価値観や判断基準を問い直す場を開く、ということなのかもしれません。

「凡庸」を演じる作家

──クーンズは一貫して、悪趣味なものに惹かれる気持ちや人間の欲望を含む、全面的な「self acceptance(自己受容)」をテーマにしてきました。それは本人の話し方や振る舞いにも表れているように感じます。

私もクーンズとコーヒーを飲みながら話す機会があったのですが、本当に穏やかで優しい人でした。しかし、だからと言って彼を「親しみやすい人だ」などと安易に信じてはいけない(笑)。考えてみてください。クーンズは、自身と最初の妻イロナ・シュタラー(チッチョリーナの芸名で知られるハンガリー出身の俳優・政治家)とのセックスを、巨大な写真や彫刻として描いた作家です。

つまり、その穏やかさや親しみやすさも含めて、彼の表現と切り離して考えることは難しい。クーンズは「バナリティ」、つまり凡庸さやありふれたものを掲げ、誰も知らない珍しいものではなく、どこかで見たことのあるイメージを選び取ってきました。コミックから引用したようなイヌ、バスケットボール、装飾品など、彼が扱うのは、特別な知識がなくても何かしら反応できるものばかりです。

そう考えると、彼の作品だけでなく、話し方や振る舞いもまた、作品世界と無関係ではないように思います。彼は自分の生き方そのものを、非常に意識的に作品と接続させてきた作家なのではないでしょうか。

──最後に、作品を「開く」というクーンズの態度に重ねて、長らくパブリック・ミュージアムの運営に携わってこられた菅谷さんは、美術館は今後さらに開かれた場所になり得ると考えていらっしゃいますか?

わたしは前職(大阪中之島美術館の館長)の時代から、人々がアートに触れる方法は、決して美術館で作品を観ることだけではないと考えてきました。作品が制作された経緯や作家の考えを調べることも、ワークショップに参加してみることも、すべてアートに触れる行為です。そうした入口を豊富に用意しておく場所が、美術館です。

一方、先日オープンしたばかりのヴィクトリア&アルバート博物館の「見せる収蔵庫」である「V&A East Storehouse」のように、所蔵作品をパブリックに開示する、という方法もあります。わたしは実際に見てはいませんが、共有財産としての所蔵品への「アクセス」という点では、かつてないほど開かれていると感じました。しかし、作品の前に立ったときに感じる熱のようなもの、作品と出合う喜びを、人々と分かち合えるのかどうか。いずれにしても、これからも考え続けなければならない課題だと思っています。

Photos: Kiyotaka Kuratome