メトロポリタン美術館、ダ・ヴィンチ作品を「しれっと公開」──億万長者秘蔵の《糸巻きの聖母》

ニューヨークメトロポリタン美術館で、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)と工房による《糸巻きの聖母(別名ランズダウンの聖母)》が今春、ひっそりと公開された。「小さいが、極めて重要な絵」を見られる貴重な機会に、専門家からは喜びの声が上がっている。

メトロポリタン美術館で展示されているレオナルド・ダ・ヴィンチ《ランズダウンの聖母》(写真中央)。Photo: Brian Boucher/ARTnews

ニューヨークメトロポリタン美術館は今春、プレスリリースすら出さず、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画をひっそりと公開した。

作品は、レオナルド・ダ・ヴィンチと工房による板絵《糸巻きの聖母(Madonna of the Yarnwinder)》(1501頃)。ヨーロッパ絵画部門がある2階の第609室に展示されている。高さ約50センチの小ぶりな作品で、フランチェスコ・フランチャとアンドレア・ソラーリオによる巨大な絵画の間に収まっている。8月3日にUS版ARTnewsが訪れた時点では、特段大きな注目を集めている様子はなかった。

絵画の所有者は、ヘッジファンドで財を成した億万長者で、US版ARTnewsの「トップ200コレクターズ」に名を連ねるケネス・C・グリフィンだ。グリフィンの事務所に作品の取得時期を問い合わせたが、すぐには回答がなかった。同館の広報担当者によると、作品は長期貸与されているという。

この作品は、かつての所有者にちなんだ別称《ランズダウンの聖母(Lansdowne Madonna)》でも知られている。メトロポリタン美術館の解説によると、19世紀にランズダウン侯爵夫人のコレクションで初めて公式に記録されたことに由来するという。もともとは、フランス王室の官僚フロリモン・ロベルテのために制作された。

METに「突如現れた」ダ・ヴィンチ作品

レオナルド・ダ・ヴィンチ《ランズダウンの聖母》(1501頃)Photo: Brian Boucher/ARTnews

《ランズダウンの聖母》は現在、ダ・ヴィンチ本人の関与が認められた絵画として、同館では唯一の作品だ。それにもかかわらず、その公開は驚くほどひっそりと始まった。来館者対応にあたる職員の一人はUS版ARTnewsに対し、館内からの通知ではなく、友人から聞いて初めて展示を知ったと明かしている。

US版ARTnewsが展示を知ったきっかけも、ニューヨークの美術商エヴァン・ビアードが週末に投稿したInstagramだった。ただし、記者のジュディス・ドブジンスキーは、それより早い4月5日に展示について投稿していた

ビアードはUS版ARTnewsへのメッセージで、「いったい誰が、ダ・ヴィンチ作品を大したことでもないように壁に掛けるのでしょう。それがメトロポリタン美術館ですよね」と語った。

南北アメリカでダ・ヴィンチ作品は2点のみ

ダ・ヴィンチの現存絵画は、帰属に議論のある作品を含めても20点に満たないとされ、その多くは欧米各地の美術館や教会、個人コレクションに分散している。なかでもルーブル美術館は、《モナリザ》(1503-1519頃)をはじめ5点を所蔵する、世界最大のダ・ヴィンチ絵画コレクションを誇る。控えめに言っても、北米で彼の絵画を目にできる機会はめったにない。

ワシントン・ナショナル・ギャラリーが所蔵する《ジネヴラ・デ・ベンチの肖像(Ginevra de’ Benci)》(1474-78頃)は、南北アメリカで常設展示されている唯一のダ・ヴィンチ作品だ。同館は1967年、当時の美術品として史上最高額となる500万ドルで購入した。これは現在の貨幣価値に換算すると約5080万ドル(現在の為替で約80億1200万円、以下同)に相当する。

それでも、2017年にクリスティーズで4億5030万ドル(約710億1800万円)を記録した《サルバトール・ムンディ》(1500頃)と比べれば、わずかな金額にも思える。同作の落札額は現在も、公開オークションにおける美術品の史上最高額とされている。

METで展示がはじまった《ランズダウンの聖母》では、聖母マリアのそばの岩場に座った幼子キリストが、十字形の道具を手にしてじっと見つめている。これは、糸をかせ状にまとめるためのもので、同館の解説では「ニディ・ノディ(niddy-noddy・かせ取り棒)」と呼ばれている。十字架を思わせるその形は、キリストが将来迎える磔刑を予告する象徴として描かれたという。

「かつて誰も描かなかった聖母子」

レオナルド・ダ・ヴィンチ《バクルーの聖母》(1501頃)Photo: Wikimedia commons

《ランズダウンの聖母》は、同じ構図を持つ別バージョンに、《バクルーの聖母(Buccleuch Madonna)》がある。同作はバクルー・リビング・ヘリテージ・トラストからスコットランド国立美術館に貸し出され、同館で公開されている。2003年には、所有者であるバクルー公爵の居城、ドラムランリグ城から盗まれた。当時の評価額は4000万ポンド(約84億8000万円)。その後、約4年間にわたって行方不明となったが、2007年に回収された。

メトロポリタン美術館の解説には、1501年にフィレンツェのカルメル会修道院長フラ・ピエトロ・ダ・ノヴェッラーラが、ルネサンスを代表するパトロンの一人であるイザベラ・デステに宛てた書簡も引用されている。ダ・ノヴェッラーラは、ダ・ヴィンチが制作中だった作品について、次のように記した。

「糸を紡ごうとしているかのように腰掛けた聖母。傍らの幼子は糸の入った籠に足を置き、十字架の形をした糸巻きをじっと見つめています。十字架を望んでいるかのように微笑み、それをしっかりと握って、母親に渡そうとしません」

ダ・ヴィンチ研究者のマーティン・ケンプは、2011年に開催された《バクルーの聖母》を中心としたスコットランド国立美術館の展覧会「Leonardo da Vinci: The Mystery of the Madonna of the Yarnwinder」の図録で、「それ以前に、聖母子をこのような姿で描いた者はいなかった」と評している。

彼は聖母について、「不安げな視線と宙に浮かせた手には、明らかな動揺、さらには予感すら感じられる」と指摘した。さらに十字架の象徴性について、「ダ・ヴィンチは極めて革新的な方法によって、象徴の意味を絵画の物理的、心理的な物語へと溶け込ませた」と評価。「この新たな動的象徴主義は、フィレンツェにおける盛期ルネサンス美術の発展に大きな影響を及ぼすことになった」と述べている。

ケンプによれば、この構図はほどなくイタリアをはじめ、ヨーロッパ各地で広く知られるようになり、「驚くほどの人気」を博した。2011年の展覧会当時、《ランズダウンの聖母》はニューヨークの個人コレクションにあると記載されていた。

ケンプは、《糸巻きの聖母》を主題とする諸バージョンのうち、《ランズダウンの聖母》を最も優れた2点の一つと位置づけている。ただし、その帰属をめぐる見解は時代によって揺れ動いてきた。過去には、弟子による模写、工房で制作された複製、ダ・ヴィンチ本人が「相当程度手を加えた」工房作、さらにはオリジナルそのものともされてきたのだ。

背景に描かれた《モナリザ》と同一のモチーフ

レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナリザ》(1503-1519頃)Photo: Wikimedia commons

背景については、ほかの作品にも見られる特徴と共通する「典型的なレオナルド様式」だとケンプは指摘する。中景に描かれた橋は、《モナリザ》の右側にあるものと「ほぼ同一」だという。

一方、ケンプは2011年当時、比較的自由な筆致で描かれた風景に「レオナルド本人の手を認めるつもりはない」と記していた。岩や山の形態には、ダ・ヴィンチ自身が描いた背景に見られるリズミカルな構成が欠けていると考えたためだ。

それでも、当時のケンプは次のように結論づけている。

「現時点では、《ランズダウンの聖母》はバクルー版より少し遅れて、巨匠の工房で完成されたものだと考えています。ただし、ダ・ヴィンチ本人の直接的な監督下で制作され、構図の設計だけでなく、人物群の実制作にも本人が積極的に関与した可能性があります」

ところがケンプは、US版ARTnewsの電話取材に対し、その後見解を「レオナルドとその工房」に修正したと語り、次のように説明した。

「さらなる科学調査により、この絵が複雑な成立過程を持つことが明らかになりました。2点の作品には、いずれもダ・ヴィンチによる下絵があります。一方はほぼ間違いなくフランス王のために、もう一方は宮廷官僚のために描かれたものです。ダ・ヴィンチは一つの構図に着手したのち、同じ主題で2点の絵画を制作することにしたのです」

《ランズダウンの聖母》は、2011年にシカゴ美術館で開かれた展覧会「Kings, Queens, and Courtiers: Art in Early Renaissance France」に出品された。さらに、ダ・ヴィンチ没後500年を記念してルーブル美術館が開催した2019〜20年の大規模回顧展にも出展されている。

所有者のグリフィンは有数のコレクターとして知られ、最近ではジャン=ミシェル・バスキアの作品10点を、ペレス・アート・ミュージアム・マイアミに貸し出している。そのなかには、2017年にサザビーズで当時のバスキア作品の最高額となる1億1050万ドル(174億2700万円)で落札した1982年の《無題(Untitled)》も含まれる。

ケンプは《ランズダウンの聖母》の展示を歓迎し、「この作品が一般の目に触れるようになり、とても嬉しく思います。長いあいだ、所有者のもとで厳重に秘蔵されていましたから。小さな絵ですが、その重要性は極めて大きいのです」と語った。(翻訳:編集部)

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