世界の美術館をつなぐ新しい文化インフラ──Bloomberg Connectsがひらく「知のアクセス」
美術館での体験を、より深く、より開かれたものにするために──。世界40カ国・地域、1000館以上が参加する無料アプリ「Bloomberg Connects」は、作品の背景にある物語へアクセスするための新しい「文化インフラ」だ。アートの自由と包摂を拡張するこのアプリが実現する、新しい「知のアクセス」のあり方を探る。

素晴らしい美術作品に触れるたびに驚かされるのは、いかにシンプルな表現にも、途方もないほど複雑かつ膨大な情報とメッセージが絡み合っている、ということだ。
もちろん、そのすべてを知らなくても、目の前の作品を純粋に楽しむことはできる。自分なりの感情や解釈を持つことは、美術の本質でもある。しかし、作品の背景にある思想、制作環境、時代の文脈など、作品の中で交差し、響き合う物語に触れたとき、鳥肌が立ち、心が震え、自分の中で何かが変わったことを実感する──そう、新しい世界が立ち現れるのだ。
ただ問題は、そうした体験があらゆる人々に開かれているだろうか、ということだ。美術作品を鑑賞し、「もっと知りたい」と思ったとき、その好奇心を受け止めてくれる環境は、果たして十分に整っているだろうか。
共通プラットフォームが変える美術館の未来
そうした「知のアクセス」を支えるために生まれたのが、Bloomberg Connects(ブルームバーグ・コネクツ)だ。
この無料アプリは、世界中の美術館や劇場などの文化機関・施設を横断し、作品解説、音声ガイド、映像資料、キュレーターやアーティストの声をワンタップで届け、来館者の「もっと知りたい」を支えることで、文化体験そのものを次のステージへ導くものだ。Bloomberg Philanthropiesが構築したこの「世界規模の文化インフラ」は、ときに排他的にもなり得る美術館のあり方を静かに、そして根底から変える可能性がある。
現在、Bloomberg Connectsを導入しているのは、ニューヨーク近代美術館(MoMA)やメトロポリタン美術館(MET)、テートをはじめとする、世界40カ国・地域の1000館以上の文化機関や施設。導入費用は無料だ。開発・運用・更新はBloomberg Philanthropiesが支援し、各館は自館の展示やプログラムを共通プラットフォーム上で発信できる。
「ひとつのアプリで世界中の美術館をめぐる」──この仕組みは、単なるテクノロジーによる効率化ではなく、美術館の持続可能性と公共性を再定義する「文化インフラ」だ。

テクノロジーがひらく「知のアクセス」
例えばMoMAでは、キュレーターによる音声解説、アーティストインタビュー、子ども向けプログラムが多言語で収録され、視覚障がい者のためのVerbal Description(言語による作品描写)も用意されている。来館前に展示の概要を知り、館内で作品に出会い、帰宅後に再びアプリで振り返る──この「訪問前・訪問中・訪問後」をつなぐ設計は、アートを「所有」ではなく「共有」の文脈で捉える新しい教育的モデルだ。
また、ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーは2023年のリニューアルオープンに際し、キュレーターやアーティストが案内する音声ツアーや、展覧会限定のコンテンツ提供など、Bloomberg Connectsを通じてフィジカルとデジタルの体験を融合。さらに、アクセシビリティ機能を標準搭載し、あらゆる来館者が歓迎される包摂的な環境づくりを実現した。
また、METでは、同アプリを社会的テーマの発信にも活用している。現在開催中のエジプト展(2026年1月19日まで)でも、出品作品の一部を「Verbal Descriptions Tour(音声による作品説明ツアー)」形式で公開。視覚障がいのある人々や来館できない人々も、3D空間を通じて展示室を歩くように鑑賞できる。また、筆者のお気に入りは、「Museums Without Men at the Met」と題された特集だ。ここでは、所蔵作品の中でも女性作家の作品に光を当て、美術史のジェンダー・バイアスを問い直している。こうした取り組みは、デジタル技術を「利便性」ではなく、「社会的包摂」へと結びつける好例であり、美術館の思想や態度を象徴するものでもある。

こうした事例から見えてくるのは、Bloomberg Connectsが、美術館での鑑賞体験を「一回限りのイベントから継続的な関係」へと変えようとしている点だ。アートは、人々が世界を理解し直すためのレンズとなり得るが、Bloomberg Connectsは、そうしたアートの力をより多くの人に届けることで、「知のアクセス」を拡張しようとしているのだ。
そんな壮大なミッションを負ったBloomberg Connectsだが、その強みはなんと言っても、文化施設の運営側とその利用者がともに無料で使え、かつ、施設運営側に開発・運用の負担がない点にある。だから、財政的・人的リソースに制約のある(それがない文化施設が今、世界のどこにあるというのか)小さな美術館でも、世界の主要館と同じアプリの基盤上で等しく情報発信できるのだ。また、パートナーからのフィードバックをもとに、Bloomberg Connectsのプロダクトチームとデータチームが連携してアプリを継続的に改善している。
規模や資金の格差に左右されず、文化発信の平等な土台を整えることができる──これは、美術館運営における構造的課題への一つの解答でもある。
日本の美術館を、より開かれた場所へ
では、日本国内に目を向けてみよう。現在、Bloomberg Connectsを導入あるいは導入準備中の施設は、東京や大阪、京都などの大都市だけでなく、茨城や群馬、そして青森といった地方都市にも広がっている。ジャンルも美術だけでなく、工芸、演劇、デザイン、絵本など多岐にわたり、より多様化しつつあるのは明るい兆しだ。地域再生と社会包摂の重要性が高まるなか、日本の文化施設における来館体験の向上は喫緊の課題だが、Bloomberg Connectsのような共通プラットフォームをさらに多くの施設が活用すれば、その課題解決のスピードは加速するだろう。
Bloomberg Connectsの利点のひとつは、海外来館者が日本語以外の情報に容易にアクセスできる点にある。アプリは50以上の言語に多言語対応しているため、音声ガイドや解説を通じて美術館は、より多様な人々に対して「観光×文化」のハブとしての機能を強化できる。つまり、美術館を起点に地域の文化や歴史を紹介すれば、文化体験そのものが国際的な回遊性を帯びる。これはそのまま、人的リソースが十分ではない施設にとって後回しになりがちな多言語対応だけでなく、アクセシビリティ全体の向上にもつながる。視覚・聴覚に障がいのある人々にも、これまで断念していたかもしれない美術鑑賞体験をより深く提供することができるからだ。
さらに、近隣施設との連携によって「街を巡る文化体験」を拡張できる可能性もある。同一都市や地域にある施設が多く参加すれば、アプリ上のマップに「文化の地図」が可視化され、旅の設計もしやすくなる。来館者は、展示から展示へと街を歩きながら、地域全体を「展覧会空間」として体験できるだろう。
こうした連携は、単館ではなく「ネットワークとしての美術館」という新しい構想を実現する大きな一助となる。参加する館が増えるほどコンテンツの多様性は増し、アプリ全体の体験価値も高まるため、ユーザーにとっての使用メリットは自ずと大きくなる。つまり、参加するほど文化が豊かになるエコシステムが形成されていくのだ。
そして、この循環が広がるほど、Bloomberg Connects自体が進化し、日本の美術館群は「文化の共有圏」として世界の文脈に接続されていくだろう。
美術館を「知る人のための場所」から、「誰にでも開かれた公共空間」へ。そして、誰もが美術にアクセスできる社会をつくること。その変化を支え、私たちが共有する「文化の未来」を更新し続けることが、この小さなアプリの大きな使命なのだ。