クリムト黄金期の傑作《接吻》はなぜ普遍的な魅力を獲得したのか──金箔に彩られた愛の象徴を解読
ウィーン世紀末を代表する画家であり、2025年11月、《エリザベート・レーデラーの肖像》(1914-16)が2億3640万ドル(約367億円)で落札されて近代美術作品の最高額を樹立したグスタフ・クリムト。金箔を用いた装飾的かつ官能的な作風で知られるクリムト作品の中でも最も華麗かつ劇的で、人気の高い作品が《接吻》だ。この作品になぜ普遍的な魅力があるのかを多角的に考察する。

1900年の世界に、20世紀の激動と恐怖はまだ訪れていなかった。しかし、ヨーロッパのある大都市では、社会や政治、芸術に対する不安が渦巻く中に、やがて来る未来の兆しが見え隠れしていた。
第1次世界大戦へと向かう19世紀末から20世紀初めのウィーンは、衰弱して不安定な二重国家、オーストリア=ハンガリー帝国の首都だった。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が統治していたのは火薬庫のような多民族国家で、チェコ、スロバキア、クロアチア、セルビア、ボスニア、スロベニアなどの各民族は、それぞれ独自の言語と伝統を持ち、独立への願望を膨らませていた。また、数多くのユダヤ人が、反ユダヤ主義の重荷を背負いながらもこの帝国に暮らし、特にウィーンの教養ある裕福なエリート層ではユダヤ人の割合が多かった。
その頃のウィーンは、後にさまざまな分野で大きな変化を引き起こす人物たちが行き交う交差点でもあった。その1人、精神分析学の父ジークムント・フロイトは、無意識の概念を提唱し、人間の心の状態に対するそれまでの理解をまったく新しいものに変えた。作曲家のグスタフ・マーラーとアルノルト・シェーンベルクはクラシック音楽を根底から変革し、芸術家への夢が破れた若き日のアドルフ・ヒトラーは、この街で放浪生活を送っている。そして彼の野望は、やがてホロコーストへと向かっていった。
日本美術や古代エジプト文明に影響を受けたクリムト
ウィーンにはまた、ヒトラーが果たせなかった成功を手にした画家たちがいた。その代表格がグスタフ・クリムト(1862-1918)で、美術史上最も有名な作品の1つである180センチ四方の絵画、《接吻》(1907-1908)を世に送り出している。クリムトは、やはりウィーンで活動したエゴン・シーレやオスカー・ココシュカとともに、抑圧された性的緊張に満ちた神経症的な文化を追求した。
クリムトは、オーストリア=ハンガリー帝国解体の初期段階を目の当たりにするまで、長寿を全うしている。その作品は、第1次世界大戦による帝国の崩壊の前兆というよりも、それに先立つ退廃的な狂騒を鮮明に捉えたスナップショットのようだった。大型の絵画《接吻》では、サイケデリックなデザインの先駆けのような細かい装飾模様を全体に散りばめ、きつく抱き合って融け合うような恋人たちを中央に描いている。男性の頭部は月桂樹の冠に包まれ、抱擁する2人は、花の絨毯が敷き詰められた断崖にひざまずいている。まるで、金箔に彩られた背景から続く奈落に気づかず、底へと落ちていきそうだ。
クリムトの作品は、象徴主義に通底する幻想的なイメージと、情感豊かな表現が特徴だが、その基盤となっていたのはグラフィックデザインと建築だった。当時の多くのヨーロッパの芸術家と同様、日本美術に大いに感化されていたが、それと同時にナポレオンのエジプト遠征をきっかけにヨーロッパを熱狂させた古代エジプト文明にも影響を受けていた。実際、《接吻》に描かれた人物像は、エジプトの「王家の谷」の墳墓で発見された壁画のように平面的で、全体に描かれたさまざまな模様は、クリムト独自の幾何学的、あるいは有機的な形状の象形文字のように見える。
1897年にクリムトは、デザイナーのコロマン・モーザー、建築家のヨーゼフ・ホフマンらと共にウィーン分離派を結成し、優美な曲線に彩られたアール・ヌーヴォー様式の旗手となった。ウィーン分離派という名称の由来は、伝統的な美学を信奉する既存の美術団体と決別したことにあり、のちにモダニズムを確立することになる学際的運動とされたデ・ステイル、バウハウス、ロシア構成主義に先立つ動きだったとの見方もある。
相反する要素が絶妙なバランスで内包された《接吻》
クリムトの絵画や壁画の主な題材は女性で、裕福なユダヤ系銀行家の妻を描いた《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像》(1907)のような肖像画や、真理を象徴するほぼ等身大の裸婦像《ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)》(1899)などの作品がある。後者では、クリムトが陰毛まで描き込んだために、ポルノ的だとの批判を呼んだ。
また、1900年から1907年にかけて、ウィーン大学の大ホールの天井画として制作された3点の寓意画、《哲学》《医学》《法学》も大論争を引き起こした。これらに比べれば《接吻》は控えめで、はるかに大きな好意的反響を呼んだものの、ウィーンのエリート層の中でも保守的な人々からは激しい非難を浴びている。
《接吻》に描かれた恋人たちが誰だったかについてはさまざまな説がある。男性はクリムト自身ではないかと言われることもあり、女性はクリムトのパートナーだったエミーリエ・フレーゲ、「赤毛のヒルダ」と呼ばれたモデル、グスタフ・マーラーの妻アルマ・マーラーなどの名が挙げられてきた。しかし、結局のところ確かなことは誰にも分からず、それがかえってこの作品に謎めいた雰囲気を与えている。
一方、《接吻》はクリムトの黄金期の頂点を示す作品だという点で、多くの意見が一致している。この時期のクリムトは金箔をカンバスに貼って絵の放つ力を強め、きらびやかな別世界を魔法のように出現させている。この特徴的な手法が生み出された背景には、父アーネストが金細工師だったことがあるだろう。
さらによく知られているのは、1903年に訪れたイタリア・ラヴェンナのサン=ヴィターレ聖堂から受けた影響だ。そこでクリムトは、6世紀の東ローマ帝国皇帝、ユスティニアヌス1世と皇后テオドラのモザイク画を目にしている。
5世紀後半の西ローマ帝国崩壊後、失われていた領土をユスティニアヌス帝が再征服したのをきっかけに制作されたこのモザイク画には、金箔を施したタイルが用いられ、臣下や聖職者に囲まれた皇帝夫妻が描かれている。ユスティニアヌス帝を、自分の領土だけではなく、黄金に輝く天界をも支配する権力者として表現するこのモチーフは、中世絵画における重要な要素であり、特にイタリアで多く見られる。
《接吻》の金箔に覆われた部分は、ユスティニアヌス帝の自己顕示的なプロパガンダであるモザイク画と同様に神秘的で奥深く、宗教的な神聖さすら感じさせる。しかし、クリムトが描いたのは精神的な歓喜ではなく肉欲的な歓喜で、絵画を制作する行為そのものによって聖なるものに昇華された交わりを表現している。
クリムトは、「すべての芸術はエロティックである」と記している。それが意味するのは、芸術制作の快楽は、明示的に表現されているか否かにかかわらず、性行為の快楽と区別がつかないということだ。クリムトが(主にモデルとの)数々の情事で14人の子をもうけたことを鑑みれば、その考え方は理解できる。
《接吻》は単なる感傷に陥りかねない主題を描きつつも、さまざまな要素が絶妙なバランスで内包されているおかげでその危険を免れた。それは、聖と俗、古代と現代、装飾と芸術、親密さと壮大さのバランスだ。この絵には、美術史を代表する他の芸術作品と同じく、時代を超越した普遍性がある。その一方で、やがて戦争という暴力によって終焉を迎えることになる時代と場所を色濃く反映した作品だと言えるだろう。(翻訳:清水玲奈)
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