アール・ヌーヴォー再考──誕生の背景から思想家の論争、ミュシャの信念まで

数ある芸術様式の中でも指折りの人気を誇るアール・ヌーヴォー。その代表作家であるアルフォンス・ミュシャの新しい美術館が今年2月にプラハでオープンし、日本でも昨年から今年1年を通じて各地でさまざまなミュシャ展が開催されるなど、今また関心が集まっている。アール・ヌーヴォーの魅力の源泉と、それに対する批判の理由を考察する。

アルフォンス・ミュシャの作品。左から右へ《La Dame aux Camélias》(1896)、《JOB》(1896)、《The Moon and the Stars: Pole Star》(1902)。Photo: ©Mucha Trust.
アルフォンス・ミュシャの作品。左から右へ《La Dame aux Camélias》(1896)、《JOB》(1896)、《The Moon and the Stars: Pole Star》(1902)。Photo: ©Mucha Trust.

無機質な灰色の街と言われるベルリンで、門を開けようと何の気なしに手を伸ばしたときに感じたあの興奮と喜びを言葉で表現するのは難しい。私が握った鉄のドアノブは、ベルギー産の野菜、アンディーブの形をしていたのだ。品よく手に馴染む滑らかな曲線を持ちながら、その形はあまりにもリアルで、可笑しみのあるものだった。それから3年経った今でも、たまにスマホの写真を見ては、その形を愛でている。

このちょっとした魔法を体験してみたいと思った読者のために書いておくと、その門はブレーハン美術館にある。ここはアール・ヌーヴォーと、そのドイツ版である(個人的には美しさでは勝ると思う)ユーゲントシュティールの作品を収蔵している美術館だ。概して、ドイツでは主に幾何学的な抽象化と様式化が追求されたのに対し、フランスでは自然界のフォルムをより写実的に表現することに重きが置かれていた。

いずれにせよ、ブレーハン美術館の門は、それまでアール・ヌーヴォーを不当に軽視していたかもしれないという気づきを与えてくれた。私は長い間、アール・ヌーヴォーが過度に甘ったるく、特に女性と自然、日用品を組み合わせる傾向は、フェミニズムの観点からも難があると思っていたのだ。

ワイマールのクラナッハ通り12番地に1905年に建てられたユーゲントシュティール様式の住宅。ルドルフ・ザプフェ設計。Photo: Alan John Ainsworth/Heritage Images/Getty
ワイマールのクラナッハ通り12番地に1905年に建てられたユーゲントシュティール様式の住宅。ルドルフ・ザプフェ設計。Photo: Alan John Ainsworth/Heritage Images/Getty

アール・ヌーヴォー誕生の背景と賛否それぞれの理由

アール・ヌーヴォーに懐疑的だったのは私だけではない。実のところ、私が感じていた居心地の悪さは、ヴァルター・ベンヤミン(*1)とテオドール・アドルノ(*2)の有名な論争と性質がよく似ている。それを知ったときは、自分は間違っていなかったという嬉しさが湧いてきたが、ひょっとすると得意げな顔になっていたかもしれない。それ以来この2人は、天使と悪魔のように私の両肩に陣取って議論を続けている。ベンヤミンはアール・ヌーヴォーに批判的な態度を取り、対するアドルノは、相反する感情を抱いているようだ。

*1 ベルリン生まれの思想家、評論家。ユダヤ系のため亡命を余儀なくされた。
*2 フランクフルト学派の代表的思想家、社会学者、作曲家、音楽評論家。

パリ7区にあるアール・ヌーヴォー様式の建物。ジュール・ラヴィロットによって1901年に設計された。Photo: Gilles Targat/Getty
パリ7区にあるアール・ヌーヴォー様式の建物。ジュール・ラヴィロットによって1901年に設計された。Photo: Gilles Targat/Getty

アール・ヌーヴォーは、その少し前に勃興した印象派と同様、産業革命の副産物として生まれた。当時産業革命は、列車や蒸気船、スモッグなどの形で社会に姿を現していた。また、アール・ヌーヴォーが登場したのは、華麗な装飾と退廃的なドラマ性を特徴とするバロック様式が、フランスの美術界で再評価されていた時期でもあった。

19世紀末にテクノロジーの存在感が増し、かつてないほど生活が自然から切り離されていく中、アール・ヌーヴォーの主導者たちは「自然の全てを破壊し、その存在を忘れてしまわぬよう、それを室内に取り入れよう」と考えたのではないだろうか。また、地方から都市に集まってきた人々が集合住宅で暮らすようになり、ある意味で自然が贅沢品となっていたこの時代に、それを枯れたり腐ったりしない手頃な大量生産品として提供する狙いもあった。

それから約1世紀半の間に進んだ環境破壊を省みれば、私たちが徐々に損なってきた自然の美に目を向けさせてくれるものが身近にもっとあったなら、と思わずにいられない。アドルノがアール・ヌーヴォーを擁護した理由は、まさにここにある。彼はこの芸術運動を、アートと自然、テクノロジーを調和させる、真摯でユートピア的な願いの現れだと見ていた。ただし彼はそれが成功したとは考えておらず、『美の理論』(彼の死後の1970年に刊行された)では、社会矛盾を単に覆い隠すのではなく、より深い変革を促すモダニストのフォルムの方が好ましいと明言している。

一方、ベンヤミンの見方ははるかに厳しく、アール・ヌーヴォーは嘘つきで、「技術的進歩に対し、その時代の人々が無力だったことの証明」に過ぎないと考えていた。彼にしてみれば、それは大量生産品のドアノブの見栄えをよくしただけで、生産のあり方を変えることも、人間と自然を隔てる扉を壊すこともせず、代わりに自然とつながっているというまやかしの感覚を提供しただけだった。

パリのメトロの入口。エクトール・ギマール設計 Photo Christian Böhmer/Getty
パリのメトロの入口。エクトール・ギマール設計 Photo Christian Böhmer/Getty

確かに、植物の形をしたドアノブを増やしたところで、気候変動を食い止める役には立たなかったろう。それでも、そこに表れている人間の渇望、つまり自然に囲まれて暮らしたいという思いに、私は敬服の念を抱く。アール・ヌーヴォーは、これまで興った芸術運動の中で最も広く知られ、最も人気のあるものの1つだが、心地よく美しいそのスタイルは、多くの人々を惹きつける一方で、その美しさゆえに批判を呼ぶのだ。

頭の中で論争を続けるベンヤミンとアドルノの声を静めたいと思いつつ、最近アール・ヌーヴォーに関心が向けられていると知った私は嬉しくなった。たとえば、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の彫刻庭園では、アール・ヌーヴォーの最も象徴的なデザインの1つであるパリのメトロの入口を見ることができる。緑に彩色された錬鉄製の入口は、曲線的な装飾と「METROPOLITAN」と書かれた看板が印象的だ。

フランスのエクトール・ギマールが19世紀末にデザインしたこの入口は、両脇に2本の背の高い曲線的な植物が伸びており、花のつぼみの部分がランプになっている。パリは世界で2番目に地下鉄が敷設された都市で、その入口のデザインに自然の形態が取り入れられたのには、見慣れないものへの抵抗を和らげる意図もあった。

最近オープンしたプラハのミュシャ美術館。Photo: Ondřej Polák
最近オープンしたプラハのミュシャ美術館。Photo: Ondřej Polák

アール・ヌーヴォーを代表する画家、ミュシャの魅力

今年2月、プラハにアルフォンス・ミュシャ美術館がオープンした。彼は1860年に現在のチェコ共和国に生まれ、キャリアの大半をフランスで過ごしている。ミュシャ財団が運営するこの美術館のほかに、彼の作品をまとめて鑑賞できるのが、ワシントンD.C.のフィリップス・コレクションからサンタフェのニューメキシコ美術館へ巡回して開催されている「Timeless Mucha: The Magic of Line(時代を超越するミュシャ:線の魔法)」展だ(9月21日まで)。

私はミュシャ美術館と巡回展の両方を見たが、ミュシャが「時代を超越する」というタイトルに、最初は違和感を覚えた。彼の絵に登場する、大きな瞳にふっくらとした唇を持ち、信じられないほど髪が長い官能的なニンフのような女性たちは、明らかに彼が生きた時代を色濃く反映しているからだ。おまけに、この展覧会の冒頭に飾られている写真にもげんなりさせられた。解説文によると、ミュシャや彼がアトリエを共有していたポール・ゴーギャンと並んで写っているのは、ゴーギャンの10代の「愛人」アナ・ラ・ジャヴァネーズだという。

それでも、私は展示を見続けることにした。ミュシャが最も有名なアール・ヌーヴォーのアーティストであることは間違いなく、彼がなぜこれほど多くの人々を惹きつけるのか知りたかったからだ。さらに、逆説的だが、「花のモチーフ」、「生活の中にある日用品」、「手工芸」という特徴からアール・ヌーヴォーが軽く見られがちであることもまた、女性蔑視的だという思いもあった(フェミニストの批評家ロザリンド・ガルトは、2011年の著書『Pretty: Film and the Decorative Image(プリティ:映画と装飾的イメージ)』でこの点について論じている)。

総合芸術を追求したアール・ヌーヴォーは、ハイアートとインテリアデザインの間にあったヒエラルキーを平坦化した。そして、作品の多くにはパステル調の色彩で美しいものが描かれている。今日でもアール・ヌーヴォーについての真面目な論考が少ないのは、こうしたことが背景にあるのかもしれない。

アルフォンス・ミュシャ《The Arts: Dance》(1898) Photo: ©Mucha Trust
アルフォンス・ミュシャ《The Arts: Dance》(1898) Photo: ©Mucha Trust

先入観を取り払うと視界が広がるものだが、ミュシャについての展示を見ていく中で、私はいくつかのことを知った。その1つが、ミュシャが同時代の女性たちの間で引っ張りだこだったことだ。それも当然で、こんなにも美しく描かれることを喜ばない人はいないだろう。

彼を一躍有名にしたのは、1894年に人気女優サラ・ベルナールのために制作したポスターだった。単発の仕事としてミュシャが請け負ったこのポスターをベルナールは大いに気に入り、彼と6年間の契約を結んだ。この契約期間にミュシャは、劇場ポスターや舞台美術、衣装、ジュエリーデザインを手がけている。彼女が舞台で見せる優雅で流れるような動きに着想を得た最初のポスターは、ミュシャの絵によく見られる渦巻くQ字型の構図で描かれたものだ。

ミュシャが後世に及ぼした影響は幅広く、展覧会ではマンガからサイケデリックなポスターまで、明らかに彼のスタイルを取り入れたと分かる作品が数多く並ぶ。その人気の理由が、複製を前提にしたグラフィックデザインでありながらも、驚くほど緻密に描かれていることにあるのは間違いない。ミュシャは、線の可能性を誰よりも理解していたのだ。

「アートは全ての人のために存在すべき」という信念

真に価値のあるスタイルは、美的価値を超えた信念を体現しているものだ。ミュシャは、アートは全ての人のために存在すべきだという信念を持っていた。だからこそ、印刷技術で量産でき、誰もが親しめる美しい線のグラフィック作品を生み出した。

ボヘミアのブドウ農家に生まれた彼は、父親が働いていた刑務所の上階で育った。ウィーンを経てパリに移る前の若かりし頃、ミュシャは父親の口利きで速記士の仕事に就いたが、長くは続かなかった。ミュシャ財団の理事長でこの画家の曾孫にあたるマルカス・ミュシャによると、絵を描いてばかりいたので、すぐ解雇されたという。その後美術学校に入った彼は、やがてパリのエリート層と交わるようになったが、それでも「アートは全ての人のためにある」という信念を捨てなかった。

晩年には絵画に専念するためポスターの制作から離れ、帝国主義の脅威にさらされていたスラブ民族の伝統を描く壮大な絵画シリーズ「スラブ叙事詩」(1910–28)に取り組んだ。プラハで制作され、スラブ民族に捧げられた20点からなるこのシリーズは、近い将来、トーマス・ヘザウィックのスタジオが設計を手がけるプラハの展示施設(*3)で恒久展示されることになる。

*3 展示施設は、プラハの中心地で2026年の完成が予定されている大規模再開発プロジェクト「サヴァラン」の一部。

ウィリアム・モリスの習作。Photo: Print Collector/Getty Images
ウィリアム・モリスの習作。Photo: Print Collector/Getty Images

「スタイルには信念が現れる」という考えは、美術史学の祖の1人として知られるオーストリアの著名な美術史家、アロイス・リーグルが19世紀に提唱したものだ。ウィーンのアール・ヌーヴォー作家たちに影響を与えた著作の中で、彼はこの概念を「Kunstwollen(芸術的意思)」と呼んでいる。アール・ヌーヴォー作品では、倫理と美学が一体であることが容易に理解できる。リーグルがこの運動を「モダンアートの先駆け」と呼んだのはそのためだ。

1902年に制作されたティファニーのランプ。Photo: Heritage Art/Heritage Images/Getty Images
1902年に制作されたティファニーのランプ。Photo: Heritage Art/Heritage Images/Getty Images

この時代の精神から生まれた最も美しい信念は、ウィリアム・モリスのものだと私は思う。彼が主導したイギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動は、その少し後に始まったアール・ヌーヴォーの理想の土台となった。社会主義者で、デザイナーや作家として活躍したモリスは、豊かに生い茂る植物模様の壁紙で広く知られている。

自分がデザインした壁紙が安アパートの壁を飾ることを夢見ていたモリスは、美は全ての人々のためにあると考えていた。彼は芸術が世界を変えられると信じ、それが人々をより良い未来へと導き、革命を実現するために必要な心の糧と情熱を提供できると信じていたのだ。1890年の小説『ユートピアだより』の中で彼が描いた社会主義的ユートピアでは、職人たちが利益ではなく喜びを得るために物作りをしている。彼らの心の内にある喜びは外界へと溢れ出て、彼らが作る日用品の中へ、そしてより広い世界へと広がっていく。

しかし、希望に満ちたより良い世界を構築したいというビジョンを持ちながらも、モリスは自身が掲げる使命を妨げる根本的な問題を解決することはできなかった。モリスの壁紙は、彼がそれを一番届けたいと思っていた人々には高価すぎた。誰もがそれを手に入れられるようにするには、彼の芸術だけでは起こせない、より大きな革命が必要だった。残念ながら、これがアドルノとの議論でベンヤミンが優勢になるもう1つのポイントだ。

とはいえ、アール・ヌーヴォー作品から溢れ出る魅力は、時に驚くべき威力を発揮する。1939年にチェコスロバキアを解体したナチスが最初に捕らえた人物の1人はミュシャだった。周辺一帯で覇権を握ったドイツがスラブ民族の伝統を抹殺しようとしていた時代に、彼はそれを称賛する作品の制作に打ち込み、オーストリア=ハンガリー帝国からのチェコスロバキアの独立を公然と支持していたからだ。

彼は結局釈放されたものの、それからすぐに肺炎で命を落としてしまう。だがこの不幸な出来事の中で意外なことが起きていた。ミュシャの家に踏み込んだ秘密警察の1人が彼の作品を密かに持ち帰り、自分の事務所に隠し持っていたのだ。その理由は、単純にミュシャの作品を気に入ったからで、ナチスの占領が終わるとそれらは返却された。ミュシャの作品はこうした波乱を乗り越え、ついに今、専用の美術館に飾られている。(翻訳:野澤朋代)

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