不条理で滑稽な映像作品に見る「過剰さ」と「麻痺状態」【ヴェネチア・ビエンナーレ日記/コラテラル・イベント編】

ヴェネチア・ビエンナーレには、メイン展示、国別パビリオンのほか、ビエンナーレが公認した「コラテラル・イベント」と呼ばれる独自企画の展覧会がある。US版ARTnewsの姉妹メディア『Art in America』のレポート第三弾では、コラテラル・イベントで出合った映像作品を紹介する。

リー・イーファン《Screen Melanchol(スクリーン・メランコリー)》(2026)の1シーン。

「かしこまった態度で『bad luck(不運)』と言うには、英語でどう表現すればいいですか?」

裸で、股間がバービー人形のようにのっぺりしたCGイメージの人間が、スマホでChatGPTにそう尋ねている。体を雑に白塗りされ、両目の瞳孔がない人物は狂気を帯びた大理石彫刻のようだが、スマホが答えた「Inauspicious(前途多難)」の発音をたどたどしく繰り返す様子はかわいらしくもある。白塗り人間がなぜその質問をしたかというと、悪い知らせをできるだけ穏やかに伝えたかったからだ。

「1989年以降に生まれた人は前途多難だ」と。

一押しは台湾館リー・イーファンのCGアニメーション

私の脳裏には、ChatGPTが答えられなさそうな疑問が浮かんだ。リー・イーファンのアニメーションによって呼び起された感情を英語で表現するには、どんな言葉を使えばいいのだろうか。《Screen Melanchol(スクリーン・メランコリー)》(2026)と題されたこの作品は、コラテラル・イベントに位置づけられた台湾館に展示されている。

混沌とした内容は不条理で、不気味で、常軌を逸していて、気味が悪いが底抜けに可笑しい。それを見て湧き上がってくるのは、こうした要素の総和をはるかに超えた、まったく新しい感覚だ。丸3日、ビエンナーレを巡って疲れが溜まっていた私に、この作品は精気を吹き込み、新たな活力を与えてくれた。

《Screen Melancholy》には、エド・アトキンスの映像作品の不気味さ、スキビディ・トイレ(YouTubeのウェブアニメ・シリーズ)の不条理さ、そしてライアン・トレカーティンの作品に見られる「stuplimity(感覚の麻痺)」(*1)が感じられる。とはいえ《Screen Melancholy》は、完全に独自の存在でもあり、アートレビュー誌はリーを「改悪化(enshittification)の詩人」(*2)と評した。

*1 シカゴ大学教授で評論家のシアン・ンガイによる造語。Sublimity(崇高)をもじったもので、「stupefy(無感覚にさせる)」を名詞化している。強い刺激に日常的に接しているうちに陥る、驚嘆と退屈が入り混じった麻痺状態を表す。

*2 enshittification(メタクソ化/改悪化)は、オンラインプラットフォームがサービスの品質を徐々に低下させ、収益追求を優先する現象を指す造語。

白塗り人間は、目や前立腺、心臓、さらに虫垂へと変身を繰り返しながら鑑賞者に問いかける。「今まで見た全てのイメージとあなたの関係はどうですか?」──そんな問いが繰り出されるうちに、それまでの映像とはまったく異なる感覚が立ち上がってくる。「アニメーションについての知識はありますか?」という質問の後に、忘れられないような声がこう追いかけてきた。「教えることはできますが、料金をいただきます」。そしてあるシーンでは、数十ものパスタの画像ファイルで埋め尽くされたデスクトップに背景が切り替わる。

「台湾館では、無料充電できます!!!」

白塗り人間は踊りながらそう声を上げる。これはささやかな抵抗のしるしだ。中国がビエンナーレ側に圧力をかけた2003年以降、台湾館は公式パビリオンではなく、台北市立美術館が主催するコラテラル・イベントになった。確かに、来場者が座っている腕や足の形をしたベンチのあちこちから充電用のケーブルが伸びているが、それを利用するには覚悟が必要だと言っておこう。「公共の場でスマホを充電するなんて、気色悪い!」と、白塗り人間から叱責の声が飛んでくるからだ。

展覧会場でこれほど大笑いしたのはいつ以来だろうか。満員のパビリオンで私だけが笑い声を上げていた瞬間もあり気まずかったが、カウンターパブリックというアートNPOのジェームズ・マカナリーが、私を安心させるようにこう言ってくれた。

「これを面白いと思うか、単に不気味だと感じるか、感性を問われますね」

アメリカでも、この作品を見るチャンスがある。それは、今年9月にミズーリ州セントルイスで行われる「カウンターパブリック」だ。同名のNPOが同市で開催するこのトリエンナーレに、キュレーターのラファエル・フォンセカがリーを招待している。リーはまた、現在ピッツバーグのカーネギー美術館で行われている「第59回カーネギー・インターナショナル」展にも参加中だ。本当におすすめな作品なので、チャンスがあればぜひ見てほしい。

フォンダツィオーネ・イン・ビトウィーン・アート・フィルムの展覧会「Canicula」に展示されているジャニス・ラファの作品。Photo Emily Watlington

シュールでマキシマリスト的な映像が物語る「今」という時代

コラテラル展示の中で私が特に気に入った作品のうち2点は、偶然どちらにも肉が登場する。とはいえ、むしろ「ベジタリアン的」と言えるかもしれない。鮮やかなLEDスクリーンのおかげもあり、最近はビデオアートが勢いを取り戻している。このメディアは近年、スマホの画面に無限に供給されるショート動画との差別化に苦戦し、低迷していた。だが、周囲の環境に溶け込みやすい巨大LEDスクリーンには、映像と空間を一体化させる力がある。それに、ヴェネチアのパラッツォに設置されると、スクリーンの映像はさらに魅力的に見える。

アートNPOのフォンダツィオーネ・イン・ビトウィーン・アート・フィルムが、16世紀に建てられたコンプレッソ・デッロスペダレットで開催している展覧会には、私がここ数年で見た中で最高の映像作品があった。すっかり心を奪われたのは、ギリシャのアーティスト、ヤニス・ラファの《Baby I’m Yours, Forever(ベイビー、私は永遠にあなたのもの)》(2026)で、食肉処理・冷蔵施設の映像が、わざとらしい演出や露骨にグロテスクな描写に頼ることなく、不気味でシュールな雰囲気を漂わせていた。

ある場面では、皮を剥がれ宙吊りにされた動物の映像が、ストリッパーポールにぶら下がりながら解剖学的にあり得ないほど体を曲げた人間の映像へと切り替わる。肩甲骨の上に乳首が見えたような気もするが、確信は持てない。別のシーンでは、階段を滝のようにミルクが流れ落ちていた。

ルー・ヤン《DOKU The Illusion》のインスタレーション(2026)。Photo: Courtesy Espace Louis Vuitton Venezia 

この作品は、全体が魅惑的であると同時に嫌悪感を催させるものでもある。そして、目を背けたくなるような映像を突きつけつつ、私たちをさらに近くへと引き寄せる。それはまるで、シャイム・スーティンが描いた屠体のシリーズのようだ。スーティンは20世紀前半にフランスで活動したロシアユダヤ人の画家で、ユダヤ教の戒律を守りながら、おぞましくも魅力的な肉塊の絵を残した。

ラファは動物の命をテーマにした作品を多く制作している。それは不快な感覚を掻き立てるが、モラルを押し付けてはこない。私は道徳的にも物質的にも肉を拒絶してしまうが、彼女の作品には説教臭いところがない。かと言って、肉をおいしそうに見せているわけでもない。

一方、台湾館のリー・イーファン作品に見られるマキシマリズム(過剰さ)は、エスパス・ルイ・ヴィトンで展示されているルー・ヤンのインスタレーションにも含まれていた。世界中の人々がイメージの洪水にさらされ、麻痺状態にある現代においては、おそらく「多い方が豊か(more is more)」(*3)なのだろう。エスパス・ルイ・ヴィトンはパラッツォではないが、ルー・ヤンはそこをランチボックスの内側のような鏡張りの礼拝堂へと変貌させた。鏡張りの天井に反射するメインの映像作品は、未来的なフレスコ画のようだ。

*3 ドイツの建築家ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエの言葉で、シンプルでミニマルな明快さを良しとする「less is more(少ないほうが豊か)」と対照をなす概念。

ルー・ヤンの映像作品《DOKU The Illusion》(2026)の一場面。Photo: Courtesy Espace Louis Vuitton Venezia 

ルー・ヤンの映像作品では、アニメ、解剖学の授業、ミュージックビデオなど、さまざまな要素が次々と入れ替わり、そこに執着と欲望に関する仏教的な思索が重なる。そして、胴体の内側にある臓器や組織を一通り見せた後、鮮やかな赤いアイシャドウを施した主人公が踊り始める。食料品店の精肉売り場で繰り広げられるダンスシーンのところどころには、カルマ(因果応報)の考えが顔を出す──「人間」というラベルが貼られたカツレツのように。

イヴァン・トヴァル《El Fuete Melancolico (The Melancholic Whip)》(1969) Photo: Courtesy Fundación Iván Tovar.

上に挙げた3つの企画展では、いずれもシュルレアリスム的な世界観が展開されているが、最後に紹介するもう1つの展覧会には、正真正銘のシュルレアリスト、イヴァン・トヴァルの作品が並ぶ。ドミニカ共和国出身のトヴァルの絵画はまさに衝撃的で、ヴィフレド・ラム(キューバ出身のシュルレアリスト画家)より好みだと思ったほどだ。

今から100年ほど前、ファシズムが台頭し、現実そのものが不条理な状態に陥っていた時代、人間・動物・物体を融合させたハイブリッドな絵を描くシュルレアリストたちが大きな存在感を示した。そうした感性が今これほどの勢いで盛り返している理由は、説明するまでもないだろう。(翻訳:野澤朋代)

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