「悪」を別の何かに変容させるアートの力【ヴェネチア・ビエンナーレ日記/メイン展示編】
第61回ヴェネチア・ビエンナーレのメイン展示テーマは「In Minor Keys」。しかし、このテーマ発表直後の2025年5月、芸術監督のコヨ・クオが死去したため、5人のキュレーターたちが後を引き継ぐ異例の形になった。公開された展示に見られるクオの遺志と、困難な時代を生き抜く適応力を感じさせる作品について、US版ARTnewsの姉妹メディア『Art in America』のレポート第二弾をお届けする。

これまで経験したヴェネチア・ビエンナーレを思い出す限り、人目につかないところで泣きたくなるほど心を揺さぶられたのは今回のメイン展示「In Minor Keys(短調で)」が初めてだ。
アルセナーレの会場入り口の壁には、パレスチナ人作家レファアト・アラリールが2023年にイスラエル軍のガザ空爆で死亡する前に書いた詩が掲げられている。
もし僕が死ななければならないなら/君は生きなければならない
僕の物語を語り/僕の持ち物を売り/一切れの布と糸を買い......
アラリールの願いは、白い凧を作って空に飛ばすことだ。ガザのどこかにいる子どもの希望のしるしになるように。
苦境を耐え抜く適応力について考えさせる作品群
「忍耐」と「遊び」というこの詩の主題は、メイン展示を貫くいくつかのテーマの中でも特に力強く感じられる。悲劇的な時代が重くのしかかってはいるが、それはあくまで背景として──来るべき世界をアーティストたちが想像する背景として、そこにある。その中でこの展覧会は、逆境に打ち勝って生き延びるだけでなく、困難を乗り越えていかに豊かに生きられるかを探ろうとしている。展示の解説文にある通り、「社会を育み」、「魂の安らぎ」を与えることが目的なのだ。
最初に胸を締め付けられたのは、アルセナーレでグアダルーペ・マラビージャの彫刻を見たときだった。哀悼の気持ちや、肉体や社会の病の治癒というテーマを掘り下げる彼の作品が、私は以前から好きだった。それは、子どもの頃にエルサルバドルから徒歩でアメリカへ渡り、長じてのちに結腸がんを患った彼の体験に根ざしている。
だが、今回出展された彫刻シリーズ「Disease Throwers(病魔を払うもの)」の新作には、《ICE Age(アイス・エイジ)》というゾッとするようなタイトルが付けられている。ICE Ageとは、氷河時代を表す言葉とアメリカの移民税関捜査局(略称ICE)をかけたもので、彫刻には記憶に新しいウサギの帽子が使われている。今年1月、ある事件に巻き込まれた5歳の少年が同じ帽子の青色のものをかぶっていた。その少年、リアム・コネホ=ラモスは、ミネソタ州で幼稚園からの帰宅途中、父親とともにICEの捜査官に拘束、連行されたのだ。

マラビージャの彫刻は、社会的・政治的状況がいかに病を生み出すかを示唆している。これと似たテーマを扱っているのが、ジャルディーニに展示されているアレクサ・クミコ・ハタナカの作品だ。それは手漉きの紙を支持体としたリノカットの版画で、何世紀にもわたりイヌイットが道標としてきた溶けかけの雪の吹きだまりが描かれている。この作品の着想源となったのは、ハタナカが患う双極性障害についての研究だ。それによると、この疾患は障害ではなく、極端な気候変動に適応するすべとして氷河時代初期に現れた可能性があるという。
自然をテーマにしたセクションはアルセナーレにもある。そこでは自然の移ろいやすさではなく、苦境を耐え抜く力に焦点が当てられ、カロリーナ・カイセド、ワルダ・シャビール、マイケル・ジュー、ベラ・タマリらが、しぶとくはびこる雑草や種子を保存する伝統、そして動植物の化石化を題材とした作品を展示している。チャールズ・ダーウィンの進化論は「適応か、淘汰か」という概念を生んだが、無数の逆境を適応によって乗り越えてきた自然界の生物たちから、人類も学ぶべきだろう。
アートの社会的側面に光を当てたコヨ・クオの眼差し
「In Minor Keys(短調で)」という展覧会タイトルは、音の調性だけでなく、私に小さな島々(*1)を思わせる。そこに並ぶ作品は世界の構築と変化を表しているが、多くの場合、何世代にもわたってゆっくりと進み、私たち自身では見届けることのできない変化を想起させる。アートを世界構築のツールとして位置づける展示を企画した芸術監督の故コヨ・クオは、文化機関の構築にも尽力してきた。今回の展覧会では、その志を同じくするアーティスト主導のコレクティブ──デニストン・ヒル、ナイロビ・コンテンポラリー・アート・インスティテュート、フィアス・プッシー──にそれぞれ展示室が割り当てられている。
*1 「Keys」という単語が、キーウェストやセブンマイルブリッジで知られるフロリダキーズ(Florida Keys)の小群島を思い起こさせることに言及。
昨年5月にクオが急逝した後、彼女が定めていたキュレーションチームによって展覧会は完成した。彼女をよく知る人々から聞いた話では、そのような力量のあるチームを作れたのはクオだからこそだという。
展示の中で特に力強く感じたいくつかの文脈について、ここで指摘しておきたいと思ったのは、それも理由の1つだ。芸術監督が不在なので仕方がないことだが、名前を与えられないままになっているテーマも多い。土台は整っているので、もしクオ自身がこの展覧会を完成させられていたら、それらをめぐる議論はもっと明確な形になっていたのではないかと考えてしまう。
一方、多くの国際的大規模展と同様、平凡に感じられた作品が少なくなかったことも付け加えておく。特に批判するほど悪いわけではなく、単に私の好みに合わなかっただけだが。
いずれにせよ、私は「In Minor Keys」が打ち出すアートのあり方を強く支持したいと思う。この展覧会は、アートの視覚的な側面だけでなく社会的な側面にも光を当て、来るべき世界を思い描きながら現実世界にも目を向けている。そこに並ぶのは、世界にある「悪」を取り上げ、それを別の何かに変容させる作品だ。この点については後日、本格的なレビューで掘り下げるつもりだが、ここでは私の考えを伝えるため、以下にその例を2つ挙げる。

ジャルディーニでは、デュシャンの《トランクの中の箱》が展示されている。21世紀の30年代が近づく中、私がつい思い浮かべてしまうのがこれだ。デュシャンが自らの代表作をミニチュア版として再現し、箱に詰めたこの作品を作る前、冗談めかして次のように話していたことはよく知られている。
「私がこれまでに成し遂げた重要な仕事はすべて、1つのスーツケースに収まる」
私はこれを、デュシャンが自嘲ぎみに放った言葉だと思っていた。そして実際にそうだったのだろう。だが彼がこう言ったのは、ファシズムが台頭して戦争が迫り、ヨーロッパ脱出という選択肢がいよいよ現実味を帯びていた時期だった。彼は淘汰されるより、適応することを選んだのだ。
困難な状況をしたたかに乗り越える強さは、アルセナーレに展示されているワリッド・ラードの作品の中にも表れている。1990年にレバノン内戦が終結すると、同国の民兵組織は武器を売却し、その多くはバルカン半島に流れ込んだ。つまりユーゴスラビア紛争は、主にレバノンから来た武器で戦われたのだ。
そうした武器の輸送に使われた木製パレットの下から、長らく盗難届が出されていたアラブやトルコの絵画の美しい複製が発見された。そこに絵を忍ばせたのはどんな人だったのかと思いをめぐらせるうちに気づいたのは、適応力と創造性は本質的には同じものだということだ。(翻訳:野澤朋代)
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