第61回ヴェネチア・ビエンナーレ 国別パビリオン・ベスト10──「崩壊」と「再生」のリアリティ

総合キュレーター、コヨ・クオの急逝や審査員団の総辞任など、異例の状況のなかで開幕した第61回ヴェネチア・ビエンナーレ。植民地主義、環境破壊、移民、家族といった主題を通して「崩壊」と「再生」をめぐる表現が目立った各国館の展示から、US版ARTnews編集部が選ぶベスト10を紹介する。

Venice Biennale 2026, Austria Pavillion
オーストリア館の展示風景。Photo: ©Nicole Marianna Wytyczak

ヴェネチア・ビエンナーレには、ある種の「廃墟感覚」が漂っている──それはすでに広く知られていることだろう。より正確に言えば、今回の展覧会で際立ついくつかの国別パビリオンは、身体的、インフラ的、考古学的な「崩壊」に深く浸されている。壊れ、血を流した政治機械が現在をその腐臭で満たし続けているのだ。

スロベニア館では、ノニュメント・グループ(Nonument Group)が過去のビエンナーレで使用された資材を再利用し、第一次世界大戦中にボスニア系ムスリム兵士のために建てられたモスクの廃墟を構築している。いっぽう、内戦後初となるシリア館を率いるサラ・シャマ(Sara Shamma)は、ISISによる文化抹消の過程で破壊された古代都市パルミラの塔墓群を想起させる。

「Ruin(廃墟)」と題されたドイツ館は、パビリオンの建築そのものを通して展覧会の構造を問い直す。アートウォッシングの論理において、歴史は本当にきれいに拭い去られるのか。それともナショナリズムの残滓は、別の名前のもとで転移・増殖するだけなのか。アーティストのヘンリケ・ナウマン(Henrike Naumann)とソン・ティエウ(Sung Tieu)が提示する答えは、本来なら受賞候補に値するものだろう──もし、ヴェネチア・ビエンナーレにまだ審査員団が存在していたなら。先週、その5人の審査員は突如辞任した。彼らは、「国際刑事裁判所で人道に対する罪に問われている指導者を擁する国家は審査対象としない」と表明していた。現在、賞は一般投票によって決定される予定だ。

コヨ・クオ(Koyo Kouoh)によるメイン展示「In Minor Keys」もまた、キュレーター自身の死によって大きく揺さぶられた。クオの逝去に端を発した一連の衝撃を経たあと、このビエンナーレがどのように記憶されるのかは、いまだ不透明だ。論争によって煽られたスペクタクルとして記憶されるのか、それとも、待望されていた新しい風として受け止められるのか。

オーストリア館で実際に鐘を鳴らしたアーティスト、フロレンティナ・ホルツィンガー(Florentina Holzinger)は、これらを同一の状況として捉えているようだった。オープニングスピーチで彼女はこう語った。

「なんてこと! 審査員もいない、賞もない。私たちはシステムが崩れていくのを目撃している。でも絶望する必要はない。必要なのは風向きの変化、新しい方向性、そして過去の象徴を作り変えることだけだ」

以下、過去を批評的に見つめながら現在への示唆を提示する、注目のパビリオンを紹介する。

ドイツ

ドイツ館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN
ドイツ館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN
ドイツ館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN
ドイツ館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN
ドイツ館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN
ドイツ館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN
ドイツ館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN
ドイツ館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN
ドイツ館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN

緑色の壁に囲まれたドイツ館──ヘンリケ・ナウマン(Henrike Naumann)の死後に実現したインスタレーション作品──に立っていると、ある感覚が次第に形をなしていった。ジャルディーニ全体が、幽霊屋敷の点在するゴーストタウンのように感じられたのだ。ナウマンと共同出展者ソン・ティエウ(Sung Tieu)は、それらの幽霊に形と名前、そして責任を与えた。キュレーターのキャスリーン・ラインハルト(Kathleen Reinhardt)による展覧会「Ruin」は、このパビリオンを「ファシズム建築」と位置づけている。それは、1938年にナチ党によって行われた改築への言及だ。

館内には、《The Home Front》(2026)が置かれている。これは、ドイツ冷戦期の家庭的記憶──とりわけ、ナウマンが東ドイツで育つなかで身近だったソ連的デザイン環境──を、国家のイデオロギー的堆積物へと折り畳む彫刻的アッサンブラージュだ。緑色の壁は、旧東ドイツに残る使われなくなった兵舎を反復している。壁面には玩具、椅子、肖像、斧、鍬など、小型化された日用品が格子状に並べられている。ナウマンはそれらを「ヒエログリフ」と呼んだ。そのあいだには、社会主義リアリズムの仲間たちから「笑顔を描かない」と批判された、彼女の祖父であり芸術家でもあった人物の木製レリーフも差し込まれている。ここで描かれる人物像は、いずれも顔を持たない。

ティエウの作品はトーンこそ異なるが、目的は共有している。パビリオン外壁の大部分を覆う《Human Dignity Shall Be Inviolable》は、300万個のテッセラで構成されたモザイク作品で、アーティスト自身もかつて暮らした東ベルリンのプレハブ式社会主義住宅の残骸を描いている。その建物は、旧東ドイツで外国人契約労働者向けに建設された集合住宅群の一部であり、現在は解体予定となっている。タイトルはドイツ基本法第1条——人間の尊厳を不可侵とする——に由来する。さらに《They Have Eyes, But They See Not, They Have Ears, But They Hear Not》は、800体のてんとう虫彫刻がパビリオンの各隅に集積し、前方へと進み出ていく作品だ。純粋かつ自発的な欲求としての意志と尊厳が、少しずつ積み重なりながら、このナショナリズムの記念碑に新たな読みを染み込ませていく。

オーストリア

オーストリア館の展示風景。Photo: ©Nicole Marianna Wytyczak

フロレンティナ・ホルツィンガーの「Sea World」は、(映画監督の)ジョン・ウォーターズ(John Waters)と一緒に観たい、と夢想するような種類の体験だった。いかなる予備知識も通用しない、身体という福音書への大胆な洗礼である。私たちは原初の海から引きずり出された動物であり、何百万年もかけて脚を得た末に、その海岸で排尿している──そんな感覚が立ち上がる。スペクタクルを精密に制御するホルツィンガーは、巨大な鐘の内部で裸のまま揺れ動き、自ら招いた破滅への警鐘を響かせた。だがそれは始まりに過ぎない。別の裸の女性は、来場者に使用を促される簡易トイレに囲まれた水槽のなかを漂っている。尿は他の親密な体液とともに濾過され、水槽へ循環されているという。開場と同時に観客は熱狂し、パビリオンへ押し寄せた──その波は、不穏なほど群衆雪崩に近づいていた。

やがて誰も踏み潰されないとわかると、空間には畏怖が広がった。人々はグロテスクな芸術に飢えている。少なくともそれは、現在という条件に対して正直だからだ。ホルツィンガーはこう問いかける。「何が"貧しい"とされるのか? 何が"汚染されている"とされるのか? 私たちは何を隠し、見たがらないのか?」

ペルー

ペルー館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN
ペルー館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN

ペルー館のタイトルは「From Other Worlds」だが、アーティストがタペストリーや映像インスタレーションのなかで描き出す土地は、私たちの世界とよく似ている。ただしそこでは、信念と注意深さ、そして生態学的均衡によって世界が統治されている。館内には、セミかバッタのような虫の羽音が絶えず響き、鳥のさえずりが重なる。それは、生きた風景、繁栄する土地の存在を知らせる音だ。

アーティストのサラ・フローレス(Sara Flores)はアマゾンのシピボ=コニボ族(Shipibo-Konibo)出身であり、ヴェネチア・ビエンナーレでペルー代表を務める初の先住民アーティストとなった。それは、あまりにも遅すぎた栄誉だ。ここでは、人は自然世界に与えたものしか受け取れない。森林破壊と、それに伴う文化的抹消の危機を前に、この原則はより切迫した意味を帯びている。

展覧会に先立つインタビューで、彼女はシピボ=コニボのデザイン哲学「ケネ(kené)」を「修復の実践」と表現していた。彩色された彫刻はすべて手作業によって制作され、その文様は揺るぎない軌道と持続する曲線を描く。この意味において癒やしとは、精密さと注意深さを必要とする、時間のかかる鍛錬なのだ。問題は単純だ——私たちに、その忍耐はあるのか。

日本

日本館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN
日本館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN
日本館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN
日本館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN
日本館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN
日本館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN
日本館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN
日本館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN

特別深い理由があるわけではないが、私はこれまで赤ん坊を抱いたことがなかった。しかし今年、パフォーマー兼彫刻家の荒川ナッシュ医によってカーニバルのような保育室へと変貌した日本館を訪れたことで、その身体的、そして象徴的な重みを少し理解した気がした。5〜6キログラムという現実的な重さを持つ赤ん坊のシミュラークルたちは、鳥のようにパビリオン外壁に止まり、内部では腕を広げ、すきっ歯の笑みを浮かべながら野原のように散乱している。建物全体を、文字通り赤ん坊たちが"這い回っている"のだ。来場者はスタッフから無作為に1体を手渡され、おむつを替えるよう促される。そのおむつの中には、占星術師で作家である石井ゆかりによる詩が収められている。親になることとは、もしかすると「うんちの下に埋もれた美しい秘密」なのかもしれない。

パビリオン序文に添えられた、双子の新米パパでもある荒川ナッシュの手書きメッセージでは、クィアのアーティストとして、すでに日本社会の主流的規範から外側に位置づけられている自分が、いかに複雑なかたちで父親になったのかが綴られている。そして彼は、「善良」であることを求められる特有の圧力についても触れている。「草の赤ちゃん、月の赤ちゃん(Grass Babies, Moon Babies)」と題された本展は、ある意味で歴史の偽善性についての考察でもある。戦争を煽り、超国家主義的な立場をとる者たちは、非規範的なアイデンティティを糾弾しながら、その背後に破壊を残していく。対照的に、穏やかな発想に貫かれたこのパビリオンは、「生命を与える」のだ。

韓国

韓国館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN
韓国館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN
韓国館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN

今年の韓国館には、ロ・ヒョレ(Hyeree Ro)とチェ・ゴウン(Choi Goen)の2人が参加した。そのうちチェによる作品は、建物に入る前から来場者を迎え入れる。巨大な工業用パイプが建築から突き出し、再び内部へ潜り込み、最終的には日本館へと蛇行していくのだ。高い可塑性と熱処理を必要とする金属によって制作されたこの作品は、日本と韓国──植民地支配者と被支配者──の歴史的な絡み合いを想起させると同時に、両国による初のビエンナーレ共同企画にも言及している。

日本館の代表作家、荒川ナッシュもステートメントで述べているように、この力学は日本の公教育のなかでは大部分が覆い隠されてきた。しかし韓国において、それは社会的・歴史的経験の中核をなしている。日本は35年間に及ぶ植民地支配ののち、1945年に朝鮮半島から撤退した。しかし、その後の権力の空白はアメリカとソ連によって即座に利用され、朝鮮自身が再建の形を決定する主体性は閉ざされた。ビンナ・チェ(Binna Choi)キュレーションによる「Liberation Space: Fortress/Nest」は、その短い自己決定の瞬間を、人生に不可避な行為──追悼、記憶、観察、生、待機、計画、共有、修復──に捧げられた8つの親密な空間として夢想する。

それらすべては、ロによる4000枚のオーガンザから成る膜状インスタレーションに包み込まれている。さらに本展には、ノーベル賞作家のハン・ガン(Han Kang)らによる「フェローシップ」も加わる。彼女はここで、二分された新生国家へのアメリカの介入によって形成された、国家による残虐な弾圧──済州4・3事件の犠牲者を追悼する2018年のインスタレーション《Funeral》を発表している。

ブラジル

ブラジル館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN
ブラジル館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN
ブラジル館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN
ブラジル館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN
ブラジル館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN
ブラジル館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN

修復を終えたブラジル館は、サンパウロ拠点のロザナ・パウリーノ(Rosana Paulino)と、リオデジャネイロ拠点のアドリアナ・ヴァレジョン(Adriana Varejão)という、同国を象徴する2人のアーティストによって幕を開けた。30年以上にわたる歴史的作品群によって構成される本展は、ディナ・リマ(Dina Lima)によるキュレーションのもと、「Comigo ninguém pode」と題されている。これは、「誰も私を扱えない」「誰も私を倒せない」といった意味を持つブラジルの表現であると同時に、ディフェンバキア(Dieffenbachia)という植物も指している。

美しく、強靭で、そして強い毒性を持つその植物は、ブラジル全土に植生している。そしてここでは、自然の豊かさに恵まれながらも、アメリカ大陸有数の奴隷制度の中心地であったという埋もれた歴史によって傷ついた国家の象徴として咲いている。革命的感性を持つ2人の作家、ヴァレジョンとパウリーノは、強力な「発掘チーム」だ。パウリーノの《Aracnes》(1999–2026)は、奴隷化された女性たちの写真を埋め込んだコンクリート壁であり、ヴァレジョンの《Still Life amid Ruin》(2026)と並置されている。後者は、パビリオンの壁を突き破るかのように見えるレリーフと壁画のシリーズであり、建築そのものが抱え込む悲劇的歴史を収めきれないかのようだ。

デンマーク

デンマーク館の展示風景。Photo: ARTnews
デンマーク館の展示風景。Photo: ARTnews
デンマーク館の展示風景。Photo: ARTnews

デンマーク館を手がけたマヤ・マルー・リュセ(Maja Malou Lyse)の「ソリューション志向」は、称賛すべきほどだ。展覧会で引用される研究によれば、出生率低下という生物学的危機は、VRポルノを見ることで対処可能だという。ここで彼女は、コレクティブDISと協働し、刺激的なストリップショーを含む「出生促進PSA」を提示している。ポルノ俳優たちが、生殖に関するデータを語る。その合間には、赤ん坊や露出度の高い衣装の女性たちの映像が挿入される。観客の中に生じかける対象化の衝動は、奇妙な説得力を持つ「母性」のヴィジョンによって逸らされていく。

別室では、まるで宗教画のように配置された映像作品が、「精子レース」の様子を映し出している。これは実在する競技で、男性たちが監督下で射精し、その精子が顕微鏡下で実質的な「走り幅跳び」を競うというものだ。パビリオンを後にするとき、未来の可能性に対して奇妙な安心感が残る。

モロッコ

モロッコ館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN
モロッコ館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN

モロッコ初の国別パビリオンでは、少しだけ目を閉じてみてほしい。開いた窓辺では男が鼻歌を歌い、その向こうでは車のクラクションが柔らかな雨音を切り裂く。近くでは、回転する織機の木製パーツが乾いた音を立て、その歌に句読点を打つ。もし、前方に吊るされた精緻なテキスタイルに手を伸ばしてしまえば──触れてはいけないのだが──その巨大インスタレーションを制作した工房の客人になったような感覚に陥るだろう。

本展の「Asetta」という題名は、アマジグ語で「織機」および「織りの儀式」を意味する言葉に由来する。アーティストのアミナ・アゲズナイ(Amina Agueznay)、キュレーターのメリエム・ベラダ(Meriem Berrada)、そして約150人の織り手たち──その大多数は女性──によって、モロッコに何世紀も続く工芸文化が祝福されている。

アゲズナイは、「工芸家」や「職人」といった固定的肩書きを拒み、関わる全員をアーティストと呼ぶ。「工芸は最先端。それは過去を見ているのではなく、未来を見ている」と彼女は語る。モロッコでは、現代美術、デザイン、伝統的サヴォワフェールといった区分は厳密に分かれていないのだという。建築家として訓練を受けた彼女の背景は、空間構成の精度にも表れている。高い天井の下で布は空中を舞い、折り重なり、浮遊する入口を形成する。公共と私的領域を隔てる精神的境界「âatba」の概念は、モロッコ建築において重要な役割を果たしている。「すべては動きと静止──動きと停止についてです。それがリズムなのです」とアゲズナイは語る。

ウズベキスタン

ウズベキスタン館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN
ウズベキスタン館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN
ウズベキスタン館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN
ウズベキスタン館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN
ウズベキスタン館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN

ゆるやかに進行する社会的・生態学的破壊の果てに、かつて広大だったアラル海は、この100年で90%を失った。ソ連時代の灌漑計画は、その水を工業農業へ転用し、中央アジアで海に生計を依存していた数百万人の暮らしを壊滅させた。占領は終わったが、災厄は終わらなかった。

現在のアラル海は、ウズベキスタンとカザフスタンのあいだに横たわる「高塩分濃度の傷口」として残っている。それは昨秋、カザフスタンで目撃したアラル海神話を再演するパフォーマンス作品を経て、私が「Land(less) Art」と呼びはじめたものの舞台であり主題でもある。失われた水を呼び戻し、そのなかにポストコロニアルな未来への道筋を探ろうとする欲望は、ここに集められたウズベキスタンの作家たちにも共通している。ただし彼らは、異なる文化的視座から語っている。

本展は、アラル海が再生された世界を描くウズベク系カラカルパク作家アラヤル・ダルメノフ(Allayar Darmenov)のフィクションと、18世紀以来アラル海北西岸に暮らしてきたカラカルパク人の物質文化を手がかりとしている。ジ・カフラモノヴァ(Zi Kakhramonova)の参加型インスタレーション《Lost Form Archive》(2026)では、来場者は結晶化した塩を魚の形へと成形することができる。同じ海洋生物たちは、アイグル・サルセン(Aygul Sarsen)の絵画のなかで魔術的に変容していく。さらにズルフィヤ・スポワート(Zulfiya Spowart)の《Untitled (The Cradle)》(2026)は、テキスタイル彫刻、彫刻、そして揺りかご「beshik」を通して、母性をめぐる寓話を静かに瞑想している。

「The Aural Sea」と題されたこのパビリオンは、ウズベキスタン文化の存在感の高まりを示す場でもある。本展は、ブハラ・ビエンナーレ・キュラトリアル・スクール初年度メンバー──ソフィー・マユコ・アルニ(Sophie Mayuko Arni)、カミラ・ムヒトディノヴァ(Kamila Mukhitdinova)、ニコ・サン(Nico Sun)、タイ・ハー(Thái Hà)、アジザ・イザモヴァ(Aziza Izamova)によってキュレーションされた。

イギリス

イギリス館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN
イギリス館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN
イギリス館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN
イギリス館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN
イギリス館の展示風景。Photo: Masaki Yatao/ ARTnews JAPAN

2017年のターナー賞受賞作家であるルバイナ・ヒミッド(Lubaina Himid)は、2022年のソニア・ボイス(Sonia Boyce)に続き、ヴェネチア・ビエンナーレでイギリス代表を務める2人目の黒人女性となった。1954年にザンジバルで生まれたヒミッドは、乳児期にイギリスへ渡り、人種差別や外国人嫌悪──そして一部の人々を「他者」としてラベル貼りしようとする熱狂のなかで翻弄される力学──を暴き出す作品で知られるようになった。

ヴェネチアのために彼女が制作したのは、家族、移住、文化的同化を前景化する思索的な絵画と彫刻群だ。そこには、人生と創作双方のパートナーであるマグダ・スタヴァルスカ(Magda Stawarska)によるサウンドスケープも添えられている。展覧会タイトル「Predicting History: Testing Translation」は、その言葉が示す立場の本質的な不可能性を逆説的に示している。大型作品《Architects》の一部には、偏ったシステムのなかでいかに主体性を取り戻すかをめぐって対立する男女2人の姿が描かれている。

ヒミッドは『The Art Newspaper』の取材に対し、このプロジェクトについてこう語っている。

「"ホーム"とは何か、"ホーム"は何になりうるのか。そして、生涯を過ごすと思っていた場所を離れ、一見歓迎してくれているようで、実際にはそうではない場所へ行かなければならないとしたら、それはどんな感覚なのかを探ろうとしているのです」

作品群は、大きく明快な構成。没入型インスタレーションが溢れる今回のビエンナーレにおいて、静かに「共犯性」について考える時間を与えられたことを、私はありがたく感じた。(翻訳:編集部)

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