ファシズム、環境問題、少子化に揺れる世界【ヴェネチア・ビエンナーレ日記/ジャルディーニ編】

不安定化する世界を反映するように、抗議行動やボイコットによる政治的論争が渦巻く中で第61回ヴェネチア・ビエンナーレが始まった。暴力が暗い影を落とす昨今の社会情勢において、アーティストたちはどのような問題意識や主張を提示したのか。US版ARTnewsの姉妹メディア『Art in America』のレポート第一弾をお届けする。

2026年ヴェネチア・ビエンナーレのデンマーク館に展示されたマヤ・マルー・リースの作品。
2026年ヴェネチア・ビエンナーレのデンマーク館に展示されたマヤ・マルー・リースの作品。

ヴェネチア・ビエンナーレドイツ館で成し得る最悪の行為は、そこを「居心地良くする」こと──同国の代表作家ヘンリケ・ナウマンは壁面の解説文でそう表明した。

ナチスによって1938年に改装され、ファシストたちの趣味が前面に出た建築様式を今も保つこの展示スペースの窓に、彼女はデニムやギンガムチェックなどの布地でできた家庭的な雰囲気のカーテンをかけた。だが、そこに居心地の良さは微塵も感じられない。いくつもの穴を開けたカーテンには乱暴に引き裂いたかのような破れがあちこちに見られ、継ぎ目が目立たないよう丁寧に繕った箇所は私が見た限り1つもなかった。

ファシズムの残滓と対峙したドイツ館

今年のヴェネチア・ビエンナーレは、(ネオファシストの政治家とつながりのある)新会長ピエトランジェロ・ブッタフォーコ体制での初開催となるが、ここに至るまで彼の主張する「中立性」が議論の的になってきた。それは、人道に反する行為を行っている国を排除せず、あらゆる国の参加を認めるというものだ。

世界中で起きている暴力──そしてソフトパワーや悪評を浄化する道具としてアートがそれに加担している事実──が国別パビリオンに暗い影を落としている。そして、その影をさらに濃くする出来事が、開幕を目の前にした4月下旬に起きた。ビエンナーレの審査員会が、国際刑事裁判所(ICC)から人道に対する罪で告発された指導者のいる国を金獅子賞候補から除外すると発表し、その直後に当の委員全員が辞任を明らかにしたのだ。

最初の声明と、それより簡潔かつ曖昧な2つ目の声明の間に内部で一体何が起きたのか、疑問を感じずにはいられなかった。

アートと政治、そしてその両者の関係性を解き明かす上で、ヘンリケ・ナウマンは素晴らしい手腕を見せた。ドイツ館のインスタレーションが彼女の最高傑作だと感じられるだけに、完成を待たず、今年2月にわずか42歳で彼女が死去したことがなおさら残念に思われる。緑色の壁面には、ガスマスクやデコレーションが施された熊手、ポストモダンなデザインのキャンドルホルダー、眼球型の鏡など、さまざまなオブジェがグリッド状に並び、家がくつろぎを与えてくれる場所だという概念を覆している。

もう1人のドイツ代表作家であるソン・ティエウは、パビリオンの外壁に手を入れた。ナウマン同様、ティエウのインスタレーションでも、家庭的な住居と政治的な建築の間にある境界がぼかされている。ベトナム出身でベルリンを拠点とする彼女は、かつて自分が住んでいた建物のモザイク張りの壁を再現した。その家は、旧東ドイツが外国人労働者のために建てた社会主義時代のプレハブ集合住宅だった。

解説文によると、ナウマンは「政治的意見の対立によって起きる摩擦と、個人の好みや日常的な審美眼がいかに関連しているか」を作品で探求したという。この日、私は主にヨーロッパ各国のパビリオンが並ぶジャルディーニで過ごしたが、そうした摩擦が身をもって感じられた。

アメリカ館とロシア館は拍子抜けするほど凡庸

2026年ヴェネチア・ビエンナーレのアメリカ館に展示されたアルマ・アレンの作品。
2026年ヴェネチア・ビエンナーレのアメリカ館に展示されたアルマ・アレンの作品。

多くの来場者がアメリカ館とロシア館をボイコットする中、私はこの2館の展示を評価するための気力を奮い立たせようとしていた(パビリオン改装中のイスラエルは今年、アルセナーレに出展)。実際に展示を見てその内容を報じることはジャーナリストとしての務めだと感じつつ、両館の中にいるのがどんな人々かを思うと気が重かった。そんな私の背中を押してくれたのが、政治と趣味嗜好の関係性を探求したナウマンの視点だった。

アメリカとロシアのパビリオンを見た私の感想は次のようなものだが、ひょっとしたら、これを読んで喜ばしいと感じる人もいるかもしれない。20世紀のファシスト芸術家たちは悲劇的なほど才能豊かだったが、現代のファシストが推す作家は滑稽なほど凡庸だ。

まず、アメリカ館は私が訪れた中で一番空いていた。果たしてそれはMAGAのせいなのか、それとも展示内容のせいなのか悩むところだが、この2つは密接に関係している。そこには、イタリアの未来派やムッソリーニが行ったローマの都市改造のようなものは一切なかった。印象の薄い塊のようないくつもの作品の脇を通り過ぎた私は、膝を抱えてうなだれるガンビー(クレイアニメの主人公)のような金色の彫刻の前で立ち止まり、何かを感じようとしたが徒労に終わった。

そして、アメリカ代表のアルマ・アレンが手がけた味気ない塊と同じくらい退屈なのがロシア館で、そこではトロカ・アンサンブルというコレクティブが切り花を展示し、無料のウォッカを配っていた。

ファシズムに言及しつつ意図が曖昧だったギリシャ館

2026年ヴェネチア・ビエンナーレのギリシャ館に展示されたアンドレアス・アンゲリダキスの作品。
2026年ヴェネチア・ビエンナーレのギリシャ館に展示されたアンドレアス・アンゲリダキスの作品。

ヴェネチアでヒトラーとムッソリーニが歴史的会談を行い、ナチスが同性愛者の迫害を始めた1934年のビエンナーレに初参加したのがギリシャ館だ。ギリシャ代表作家のアンドレアス・アンゲリダキスはナウマンと同じく、自国パビリオンにファシズムに根ざす美学的背景があること、そしてギリシャの政治家が古代の遺産を国家主義的な目的のために利用してきたことを作品で取り上げた。

そのインスタレーションには、鎖の模様がプリントされた漫画風な柱のぬいぐるみやディスコのように光る床、筋肉質の裸の男性に手錠をかける警官などSM的な画像をプリントした巨大なTシャツ型の作品が並んでいる。しかし、ナウマンが美的な領域に潜む複雑な政治性を巧みに浮き彫りにしたのに対し、アンゲリダキスは紋切り型の表現を並べているだけだ。しかも、レニ・リーフェンシュタールの美学とそれが呼び覚ます性的興奮については、スーザン・ソンタグによって1975年にすでに論じられている

アンゲリダキスがファシズムを擁護しているとは思わないが、彼の作品に批判の意図が込められているとしても、それが何なのかが明確に伝わってこない。解説文によると、脱出ゲームとプラトンの「洞窟の比喩」を融合させたものだというが、その両方であろうとしたがゆえに、結局はどっちつかずになっている。

複雑に絡み合った問題を見事に捉えたオーストリア館

2026年ヴェネチア・ビエンナーレのオーストリア館に展示されたフロレンティナ・ホルツィンガーの作品。
2026年ヴェネチア・ビエンナーレのオーストリア館に展示されたフロレンティナ・ホルツィンガーの作品。

改めて強調しておきたいのは、複雑さと矛盾を抱えずに今の時代について考えるのは不可能ということだ。これは、あらゆる事柄を「双方の立場」から捉えるべきだとか、主体的であろうとする権利を放棄するべきだということではない。ただ、ボイコットをするにしても、そこにはあまりにも多くの事柄が複雑に絡み合っていて線引きが難しい。それに、ビエンナーレを訪れる私たちのような人間は皆、多かれ少なかれ何らかの形で問題に加担してしまっている。

どうしようもなく複雑に絡み合ったこの状況を完璧に捉えているのが、フロレンティナ・ホルツィンガーが手がけた《Sea World Venice(ヴェネチアのシーワールド)》だ。オーストリア館に展示されたこのインスタレーションは、閉じた世界の中での循環を示している。

パビリオンの庭にはシュノーケルを付けた裸の女性が漂う水槽があり、その周りには来場者が用を足せるポータブルトイレが置かれている。トイレがなかなか見つからない都市としてニューヨークと1、2を争うヴェネチアで、これはありがたい設備かもしれない。そこで排泄された来場者の尿は濾過され、女性がいる水槽に注がれる。また、パビリオン内に設置されたプールでは、時折、別の裸のパフォーマーがジェットスキーで水上をぐるぐる駆け回るパフォーマンスが行われるが、このプールの水も水槽から流れ込むものだという。

しかし、これだけではこの作品のほんの一部しか説明できていない。大反響を呼んでいるオーストリア館は、混沌としていながらも簡素で、マキシマリスト的でありながら緻密なコンセプトを持ち、バカバカしくありつつ環境問題をダイレクトに表現している。そして、壮観であると同時に醜悪かつ不快でもある。尿が混じった水に嫌悪感を覚える人がいるかもしれない。だったら海の水はどうなのか、汚染と清浄の境はどこにあるのかとホルツィンガーは問いかけている。

少子化問題を取り上げたデンマーク館と日本館

ホルツィンガーは水槽内の人物を「未来の生物学的生存者」と呼んでいるが、人類の生物学的未来に言及したパビリオンはオーストリア館以外にもある。特筆すべきなのは、向かい合う2つのパビリオンで出生率低下の問題が取り上げられていることだ。

デンマーク館では、VRポルノの視聴が精子の運動性を高める可能性があるとする研究に着想を得たマヤ・マルー・リュセの作品を展示した。彼女はDISというコレクティブと協力して妊娠出産を奨励する架空の公共広告を作り、それを没入型スクリーンに映し出している。

この広告では、ポルノ俳優たちが視聴者の注意を引きつけようと服を脱ぎながら情報を発信した後、赤ちゃんの映像と豊満な女性の映像が交互に映し出される。ヴィレンドルフのヴィーナス(多産・豊穣を象徴する先史時代の石像)を思わせる女性たちはマイクロビキニ姿で、生殖能力の象徴というよりセックスシンボルのように見える。女性はその両方を兼ね備え得ることが、もっと一般的な母親像の中で表現されるようになるといいのだが。

別の展示室では、遺物のような容器に入った画面に、男性たちの間で争われる「精子レース」の映像が流れていた。実際に存在するというこのレースでは、参加者の男性が射精した後に顕微鏡を覗き、自身の精子の移動距離や速さを観察する。

デンマーク館の解説文では、少子化は「親密な関係性の消失」によって引き起こされる危機だと書かれているが、背景にある政治的要因や、そもそもこの問題が重要なのかという議論は回避されていた。一方、その向かいにある日本館では、荒川ナッシュ医がより具体的にこの問題に切り込んでいる。

2026年ヴェネチア・ビエンナーレの日本館に展示された荒川ナッシュ医の作品。
2026年ヴェネチア・ビエンナーレの日本館に展示された荒川ナッシュ医の作品。

日本館の解説文は次のような一文で始まる。「赤ちゃんは、戦争やテロ、ボイコットなどとは関係なく、どこでも生まれます。赤ちゃんはまた、ドローンやミサイル、そして想像しうるあらゆる形の暴力によって殺されます」。その後には労働力不足や医療体制の逼迫など、少子化によってもたらされる問題が挙げられている。

日本館の来場者は、荒川の彫刻や映像作品を見て回る間、赤ちゃん人形を抱きかかえるよう促される。それは、子どもという存在の重み、そして未来の重みを文字通り肌で感じる体験でもある。(翻訳:野澤朋代)

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