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#エゴン・シーレ/Egon Schiele

19世紀末から20世紀前半に活躍したオーストリアの画家。ドナウ河畔トゥルンに生まれ、ウィーン・美術アカデミーで学んだ。1907年、年長のウィーン分離派の画家、グスタフ・クリムトと出会い、生涯親交を結んだ。クリムトの影響のもとに創作活動を開始し、のちにフェルディナント・ホドラーと浮世絵からも刺激をうけた。


シーレは素描力にすぐれ、輪郭線を表現主義的な激しい感情表出の方向に発展させ、愛情の哀歓をフロイト的分析を加えて表現した。作品としては、油絵画や版画のほか、鋭い鉛筆の描線にガッシュで着色した痩身の人物像作品などを描いた。


第一次大戦中兵士として従軍したのち、その後ウィーンに戻るが、終戦直前に28歳で病死。代表作に、《ほおずきの実のある自画像》(1912年、レオポルド美術館)、《死と乙女》(1915年、オーストリアギャラリー)など。作品は故郷であるオーストリアのレオポルド美術館、チェコのシーレ記念美術館、ニューヨーク市立博物館など世界中の美術館に収蔵されている。


ナチス時代にヒトラー政権によって退廃芸術展が開かれた際、シーレの作品も略奪の対象となっていたことを踏まえ、現在では、当時の作品返還についての議論が、ドイツに対して進められている。


2017年には、シーレの生涯についての映画『エゴン・シーレ 死と乙女』(監督:ディーター・ベルナー) がBunkamura ル・シネマなどで上映された。



エゴン・シーレとグスタフ・クリムト


シーレとクリムトが出会ったのは1907年で、1890年生まれのシーレが18歳、クリムトが45歳のときだった。クリムトはすでにウィーン分離派から脱退し、自らが主宰するオーストリア美術家連盟を結成しはじめていた。


シーレは美術アカデミーで学んでいたが、アカデミックで反動的な教育に反発しており、また、教師側もシーレの才能をうまく開花させられずにいた。シーレの才能を見抜いたクリムトは、2009年に開催された「国際クンストシャウ・ウィーン」展にシーレの作品4点を出品。シーレの実質的な画壇デビューとなった。


クリムトは積極的にシーレを擁護し、自らのクライアントやパトロンを彼に紹介した。2人はお互いに親交を深めつつも、のちに芸術上の境地の違いを認識しはじめ、このジレンマや苦悩をシーレは《隠者たち》(1912年、レオポルド美術館)という作品に描いている。


クリムトの世代は、主観主義と客観主義とのあいだに精妙な均衡が保たれていたが、シーレの世代となると、主観は強く解放を求め、表現主義的な画風になっていく傾向にある。

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