「架空のミュージアム」が開く公共性──Museum of Imaginary Narrative Artsがつくる新たな関係の場
渋谷三丁目に、「架空のミュージアム」をコンセプトに掲げる施設「Museum of Imaginary Narrative Arts(MINA)」がオープンした。手がけたのは、東急株式会社とアーティストデュオのL PACK.。観光客やオフィスワーカー、学生が行き交う渋谷で、人が滞在し関係を育むための新たな試みが始まった。

渋谷駅にほど近い、頭上に首都高の走る六本木通り沿いに、2026年4月、「Museum of Imaginary Narrative Arts(ミュージアム・オブ・イマジナリー・ナラティブ・アーツ、以下MINA)」と名付けられた「喫茶店」(ここではあえてそう呼ばせていただく)がオープンした。手がけたのは、東急株式会社とアーティスト・デュオのL PACK.だ。
「余白の多い渋谷」に現れた“ミュージアム”

この渋谷3丁目エリアは渋谷の中心に位置しながら、スクランブル交差点以北に広がる、いわゆる「世界に消費される渋谷」とは明らかに異なる空気をもつ。六本木通りと明治通り、さらには国道246号が交差する立地ゆえ、人の流れは多いものの、歩いてアクセスするにはやや煩雑で、通り過ぎる場所になりがちなエリアでもある。近隣には渋谷警察署や金王八幡宮、実践女子大学などが立地する一方で、めぼしい文化施設や商業施設は少なく、飲食店や住宅が混在する、渋谷ではむしろ稀な「余白の多い」エリアだ。
MINA店内に足を踏み入れると、あらゆる意味でニュートラルな空間が広がる。特筆したくなる装飾性や意匠性を意図的に排したと思われる、あくまで耳障りのよい場所だ。渋谷3丁目に矛盾しない、というと皮肉すぎだろうか。店内には、「ミュージアム」という名前を冠しているだけあり、確かにアート作品がそこかしこに展示されており、購入も可能だが、恭しく防護ケースに守られているわけでもない。ここでは、アートは提示されるものというより「気づかれるもの」として存在する。テーブルに置かれた『コーヒーテーブルブック』と呼ばれる展覧会図録は、喫茶メニューと一体化したZINEのような軽やかさだ(L PACK.らしい皮肉が効いている)。

冒頭であえて「喫茶店」と表現したのは、そのメニューに、ナポリタンやハヤシライス、プリンやショートケーキといった「日本の洋食屋」の王道メニューが並んでいるから。コーヒーにはL PACK.が焙煎しているコーヒー豆が用いられ、一杯ずつ丁寧にサイフォンで淹れられる(アーティスト自身が淹れることも)。渋谷にできた新施設であるにも関わらず、スピード感や新しさ、洗練、若々しさ、けたたましさ、といった渋谷を形容する言葉のどれ一つとしてMINAに当てはまるものはない。かといって、そうした渋谷の即時性・即物性に抗う反骨精神もとくに感じられない。
しかしそれゆえに、この店を敷居高く感じる人はいないだろう。誰にでも開かれた場、と聞くと民主的で解放感があるが、ここはむしろ「誰が入ってきても気にしない場」と表現した方がしっくりくる。その「ニュートラルさ」はどこか、日本の公共施設を彷彿させる(ただし、そうした施設よりはちょっとだけ異質だが)。店内からは、ガラス窓の向こうに足早に通り過ぎていく学生や会社員たちの姿が見える。
L PACK.の小田桐は、「渋谷という土地において、お金を払わずに滞在できるような場所はほとんどありません。今やカフェが、有料ではありますが、公共的な機能を引き受ける場所になっているのではないでしょうか」と話す。MINAが模索しているのは、美術館のような制度的空間とも、一般的な商業施設とも少し異なる、そのあわいに立ち上がる「柔らかな公共性」だ。その意味で、MINAは「知的公共圏としての喫茶店」と呼べるかもしれない。

ミュージアムとは何か──語源から読み解くMINA
なぜ、あえてこのエリアに「Museum」を名乗る施設が開業したのか。それを紐解くには、まず、この言葉の語源に立ち返るのが良さそうだ。
古代ギリシャ語の「Mouseion(ムセイオン)」に由来する「Museum」は、かつて、芸術と知を司る女神ムーサに捧げられた「思索と創造の場」を意味していた。つまり、それは、現代を生きるわたしたちが想起する「アート作品を収蔵・展示する制度的な施設」ではなく、知と表現が交差し、「新たな思考や物語が生まれる場」だった。これを踏まえてMINAを解釈し直すと、「架空の物語を軸とした芸術(Imaginative Narrative Arts)を扱う、思索と創造の場(Museum)」となる。
ただしMINAにおいて重要なのは、それが単なる思索の場にとどまらない点にある。ここで掲げられている「イマジナリー・ナラティブ(架空の物語)」とは、あらかじめ与えられた物語ではなく、この場所で起こる出来事や関係のなかから立ち上がってくる語りのことを指している。飲食、会話、アート鑑賞、滞在の時間、あるいは何気ない行為までもが断片的な物語となり、それらがゆるやかに積層していく──MINAとは、そうした語りの生成と蓄積のプロセスそのものを内包したミュージアムなのだ。
「関係人口」を呼び戻すための装置

渋谷再開発の中核的プレイヤーである東急株式会社の文化・エンターテインメント事業部でMINAを担当する荻野章太は、この施設誕生の裏側にある課題を、「渋谷の『関係人口』の減少」と説明する。
関係人口とは、総務省の説明をそのまま借りれば、「移住した『定住人口』でもなく、観光に来た『交流人口』でもない、地域と多様に関わる人々」のことだ。荻野はこう続ける。
「多くの来訪者が渋谷を訪れますが、その多くはスクランブル交差点や大型商業施設を巡り、イメージを消費して帰っていきます。再開発とともに賃料が上昇し、IT企業を中心としたオフィス街へと変化しようとするなかで、渋谷にとどまれる人たちが限られてきています。MINAが、この渋谷3丁目という場所に根付き、人が立ち止まり、滞在し、関係を持ち、やがて何かが生まれてしまうような『滞留の場』になれば嬉しい。土地に根差すと、その土地の特性が吸い上がってきて、ここでしか起こり得ないことが起こると思うんです」
アートだけではなく、アートも人も居心地がいい場所へ

そうした思いに基づきこのプロジェクトを設計するにあたり、L PACK.がディレクターに抜擢されたのは納得がいく。彼らはこれまでも一貫して、公共的な性質を持つ場そのものを立ち上げる実践を続けてきたからだ。あいちトリエンナーレではカフェ(2013年)やエデュケーションプログラムのための空間(2016年)を設計し、東京ビエンナーレ(2025年)では芸術祭でお馴染みのトートバッグを集めた「Totes my GOATs」プロジェクトを展開した。さらには架空の民藝館を設定した「現在民藝館」や、落語「茶の湯」をもとに行われた茶会「定吉と金兵衛」などを通じて、制度や日常の枠組みをずらしながら、場や関係そのものを醸成することを作品として手がけてきた。
そんな彼らが「MINA」というプロジェクトを通じて行おうとしているのは、ミュージアムを、いま一度「思索と創造の場」として自分達の手で耕しなおそうという実験であり、渋谷というハードに、ソフトの作り手としての関係人口を呼び戻そうという東急の理想にも重なる。

L PACK.の中嶋は、「普段は交わらない大御所たちを集めて対談してもらうとか、トイレの荷物掛けをマーク・マンダースに頼んでみるとか、架空の空間だからこそ成立することをやってみたい」と話す。
こけら落としとなる展覧会「PUBLICAD」では、「ミュージアムポスター」をテーマに、ポスターがもつ「広告性」と「公共性」の両面に光を当てる。参加作家は、個人性を削ぎ落とし、記号化された人体彫刻によって“誰でもない身体“を立ち上げてきた彫刻家の菅原玄奨と、文字や記号を視覚表現として再解釈した作品を展開するBIEN。両者の作品は、広告性と公共性の関係に介入し、ポスターというメディアの機能や前提を浮かび上がらせる。今後はアーカイブやミュージアムグッズなど、「ミュージアムをかたちづくる要素」を手がかりに展覧会を組み立てていく予定だ。展覧会に連動したコレクションの形成も進められており、MINAを経由していくものを緩やかに集めていく「コレクタブル(収集品)」的な発想で運用していく。
また、MINAでは固定的な「展示」企画だけではない様々なプログラムが計画されている。例えば、アーティストがディレクションするラーニングプログラムや、仕事帰り、学校帰りの人たちが参加できるデッサンや陶芸などの体験教室も展開される予定だ。荻野は、「アートの専門家や愛好家だけが楽しむ場所ではなく、地域の人々を含め、誰にとっても無関係ではない場にしたい」と語る。
100平米に満たない平屋が、渋谷三丁目から何をすくい上げ、どんな関係を育てていくのか。そこで起こる出来事の一つひとつが、やがてこの場所の輪郭をかたちづくっていくはずだ。
Photos: Koki Takezawa







