KYOTOGRAPHIE 2026「EDGE」が示した分断と接続、不器用で美しいイメージの力
第14回KYOTOGRAPHIEが、5月17日まで開催されている。今年は「EDGE」をテーマに掲げ、南アフリカ出身作家たちによる展示などを通じて、境界とは何か、写真はいかに他者の現実へ触れうるのかという問いを、静かに、しかし鋭く浮かび上がらせていた。

今年で14回目の開催となる国際写真祭「KYOTOGRAPHIE」が京都市内各所を舞台に開催されている。年ごとに掲げられるテーマのもと、国内外の写真表現を横断的に提示してきた写真祭が今年掲げるテーマは「EDGE」。境界、周縁、断絶といった含意を持つ言葉だ。
トリッキーなのは、AIなどのテクノロジーが現実と虚構の境界を溶かす一方で、ここ10年ほどで徐々に薄れつつあると感じていた(あるいは、そう信じようとしていた)さまざまな「EDGE」が、現在進行している戦争が示す通り、むしろ先鋭化していることだ。「こちら側」と「あちら側」を区分する線はいっそう色濃くなり、消し去ることが難しくなっている。そのとき、自分自身や自分にとって大切な人々はどちら側に属しているのか。
この複雑なテーマのもと計画された今年のKYOTOGRAPHIEは、昨年に比べてその規模がやや絞られた印象。その結果として、フェスティバル全体の編集的な緊張感は、むしろ良い意味で高まっていた印象も受ける。それは、もうひとつの明確なキュラトリアルな意図──「SOUTH AFRICA IN FOCUS(南アフリカに光を当てる)」という試みが奏功した結果とも言える。複数の南アフリカ出身作家による展示は、歴史、社会構造、そして個人の生のあり方をめぐる切実な視線を通じて、「EDGE」という言葉を抽象概念ではなく、具体的な現実の輪郭として引き寄せていた。
その核心を最も強く体現していたのが、京都市京セラ美術館で開催されていた2つの展示だ。
アパルトヘイトの記録と、ポスト・アパルトヘイトの視線
一つは、アーネスト・コール(Ernest Cole)の「House of Bondage|囚われの地」だ。1940年生まれのコールは、アパルトヘイト体制下の南アフリカで黒人として生きる日常を内部から記録し、1967年に亡命先のニューヨークでそれらをまとめた同題の写真集『House of Bondage』(ランダム・ハウス)を出版して世界に衝撃を与えた。同書は母国・南アフリカで発禁処分となった。その後、彼は不安定な生活の中で制作を続けながら、祖国に戻ることなく49歳でその生涯を終えた。
本邦初公開となる今回の展示では、その代表作を含む作品群が体系的に提示された。そこに写し出されるのは制度的暴力の現実であると同時に、その中でなお立ち現れる笑いや連帯。コールの写真には、移動を制限される身体や監視される日常の凄惨さと同じ密度で、生の喜びや尊厳が刻み込まれている。これらのイメージが、過去の記録でありながら現在においても強い倫理的強度を持ち続けている点についても、鑑賞者は深く考えさせられることだろう。
この「歴史の内側からの視線」に対し、コールと隣り合わせの展示室で開催されているのが、同じく南ア出身の写真家、ピーター・ヒューゴ(Pieter Hugo)の展示「What the Light Falls On|光が降りそそぐところ」だ。1976年生まれのヒューゴは、南アのみならずグローバルな周縁に置かれた人々の現実を、鋭利なポートレートで捉えてきた作家だ。しかし重要なのは、それらが単なる「問題」として提示されているのではないという点だ。ヒューゴの写真に写る人物たちは、しばしば強い誇りや静かな美しさをまとっている。こうして彼は、ポスト・アパルトヘイト世代の作家が現在どのように自らの立場を再定義しつつあるのかを、実践を通じて示し続けてきた。
しかし、今回発表されたシリーズ「What the Light Falls On」は、これまでの実践に微妙な転調をもたらしている。2024年にケープタウンのSTEVENSON Galleryでの展示に際し、ヒューゴはこう述べている。
自身の多くの仕事はポスト・ドキュメンタリーの伝統にあり、写真の真実性や可能性を問い直すものだった。しかし今回は、そもそも自分が写真に惹かれた原点に立ち返りたかった。すなわち、好奇心、世界の中に身を置くこと、移ろい、そして死との関係である。イメージが「それ自体で十分である」とは何か──誰かがそこに立ち会い、何かを感じ、ある立場を取ったという証として存在すること、それだけで成立するイメージの可能性を探りたかった。
この言葉が示す通り、今回の作品群では、対象の社会的意味を強く提示するのではなく、イメージが成立する条件そのものへと関心が移行している。視線はより内省的になり、写真は記録や告発という役割からわずかに離れ、存在の痕跡としての側面を強めている。ヒューゴはここで、「南アフリカを写す写真家」という役割そのものを問い返しているようにも見える。
レボハン・ハンイェの寓話的空間
東本願寺 大玄関を舞台にしたレボハン・ハンイェ(Lebohang Kganye)による「Rehearsal of Memory|記憶のリハーサル」は、さらに異なるアプローチによって、個人史と国家の歴史の関係を浮かび上がらせていた。1990年生まれのハンイェは、家族写真やアーカイブ資料に宿るストーリーに、自身の存在を挿入しながら過去を再構成する手法で知られる作家。祖父母の世代にまで遡る記憶を手繰り寄せることで、アパルトヘイトの歴史とその余波を、極めて個人的な視点から語り直してきた。
切り抜かれた人物像や平面的な構造物がアナログで素朴な手触りを持ちながら、現実を「再現されるもの」ではなく「演じられるもの」として提示するこの展示は、どこか人形劇を思わせる。だが、その軽やかでコミカルですらある形式とは対照的に、語られる内容はきわめてシリアスだ。移動、労働、分断といった経験は、個人の記憶であると同時に、ポストコロニアルな政治的現実そのもの。ハンイェはそれを寓話として再構成することで、鑑賞体験に独特の緊張をもたらしていた。
廃墟化する現実
南アフリカという文脈とは異なるが、イヴ・マルシャン(Yves Marchand)とロマ・メェッフェル(Romain Meffre)による「The Shape of What Remains|残されるもののかたち」もまた、「EDGE」を別の位相で体現していた。二人はパリを拠点に活動し、2000年代以降、ポスト工業都市の廃墟を撮影することで、近代以降の産業文明の帰結を視覚化してきた写真家だ。
ハンイェの展示の舞台であった東本願寺が所有する重信会館で開催された同展は、パリのムーラン・ルージュをはじめとする象徴的な現実の建築を、生成AIを駆使して意図的に「廃墟化」する視覚的操作が導入された作品が特に印象的だった。
重信会館は1930年築の、東本願寺の学寮を起源とする大谷大学の学生寮としての役割を2001年に終えて以降、ほぼ使用されてこなかった場所。廃墟性を帯びた会場空間が作品と共鳴し、イメージと現実が反響し合う──そこで立ち上がってくるのは、単なるディストピア的想像力ではない。むしろ現在進行形の戦争、気候危機、そして人間活動そのものが地質学的痕跡を残す人新世の時代において、私たちの文明がどんな残骸を未来へ残すのかという問いだ。彼らが提示する廃墟は、遠い未来の空想というよりも、すでに始まりつつある現実の延長であることを強く意識させられる。写真の中の崩壊と、鑑賞者が立つ歴史の重みとともに朽ちゆく空間が重なり合うことで、「現実/非現実」という境界は経験として揺らいでいく。
覆面靴磨き職人たちの誇り
また、誉田屋源兵衛 黒蔵を舞台に展開されるフェデリコ・エストル(Federico Estol)による「Shine Heroes|シャイン・ヒーローズ」も印象的だった。エストルは、ボリビアの首都ラパスで働く靴磨き職人たちを長年撮影してきた写真家。彼らは社会的偏見から身元を隠すため、覆面姿で働くことでも知られている。
今回の展示では、そうした社会的背景を持つ被写体たちが、ヒーロー漫画を思わせるポップで躍動感あふれる演出によって提示されていた。その背後には、階級格差や労働の不可視化という現実が横たわっているわけだが、エストルは彼らを「弱者」として描かない。むしろ、誇りや主体性を備えた存在として立ち上げることで、より鮮烈に、彼らが生きる現実を鑑賞者に突きつけている。
ほかにも、1970年代以降、フォトモンタージュを通じて女性の身体表象をめぐる欲望と消費の構造を、ときに嘲笑的に問い続けてきたリンダー・スターリングの「Linder: Goddess of the Mind」、膨大な作品の集積を通じて森山大道のイメージをめぐる執念と身体を賭した戦いの軌跡を辿る「A Retrospective」は必見だ。
「ガザの眼」ファトマ・ハッスーナを悼む
そして最後に、2025年4月、イスラエル軍の空爆によって命を落とした若きフォトジャーナリストで、ときに「ガザの眼」とも呼ばれたファトマ・ハッスーナへオマージュを捧げる展示「The Eye of Gaza」にも触れておきたい。会場の1階には、2023年10月7日にイスラム組織ハマスがイスラエルに奇襲したことから始まったパレスチナ・イスラエル戦争下のガザで彼女が撮影した作品がスクリーンに投影され、2階には、暗い部屋に設置された携帯電話に、極限状況のガザにいる彼女とパリ在住の映像作家セピデ・ファルシとのビデオ通話が生々しく映し出される。鑑賞者は彼女の使命感に圧倒されながら、目を背けたくなるような彼女が捉えたイメージを浴び、暗闇に浮かび上がる彼女が発する声を聞き、身動きが取れなくなった自らの身体の重みを実感する。
「何が真実であるのか」が共有されにくくなったポスト・トゥルースの状況において、写真は不安定な位置に置かれている。イメージはいくらでも生成され、流通し、消費される。しかしその一方で、現実に立ち会い、時間を引き受け、何かに対して位置を取ることを避けられないという写真の不自由さは、単なる制約ではなく、むしろ写真が「問い」でありうるための条件なのかもしれない。
そもそも「EDGE」という言葉は、「刃」や「切っ先」を意味する古英語「ecg」に由来するとされる。境界とは本質的に、何かを切り分ける暴力を内包していると同時に、異なるもの同士が接触し、関係を取り結ぶための条件でもある。今回のKYOTOGRAPHIEが示していたのは、まさにその両義性だ。写真は世界を切り分けるが、こちら側とあちら側を接続し、他者の現実へと誘うためのメディアでもある。

























































