認知症にアートは「効く」のか──イギリスの「Arts for Dementia」が示す創作の力【医療とアートの最前線 Vol.7】
薬だけでは支えきれない認知症ケアに、アートが新たな選択肢として注目されている。ロンドンのチャリティー団体「Arts for Dementia(認知症のためのアート)」のワークショップを訪ね、創作活動が患者や介護者にもたらす変化を取材した。

世界的に、生涯のうちに認知症になる人は3人に1人と言われている。日本では、65歳以上の高齢者の5人に1人が認知症とも言われ、社会の高齢化にともないその数は増えると見込まれている。
認知症の診断は、本人にとっても、そして身近な人たちにとっても、重い事実として受け止められる。一方で、社会的孤立や運動不足は、さらに症状を悪化させかねない。
しかし、例えば筆者が居住するイギリスでは、アルツハイマー病の治療薬として2024年に認可された抗アミロイドβ抗体(レカネマブ・ドナネマブ)は高額ゆえに保健適用が認められていない(日本では一定の条件を満たす患者を対象に公的医療保険が適用されている)。
こうした状況もあり、ウェルビーイングを重視するイギリスでは、「クリエイティブ・ヘルス」という概念の定着とともに、アートを用いた認知症患者への社会的処方は副作用がなく、症状の悪化を遅らせ、経口薬よりも大きな費用対効果が得られるという認識が高まっているのだ。
ロンドンでは、2011年に設立されたチャリティー団体「Arts for Dementia(認知症のためのアート)」がNHS(国家保健サービス)と提携して、認知症の人とその介護者を対象に、アートやクラフトの制作、演劇やダンスなどの無料ワークショップを開いている。同団体が目指すのは、アートとクリエイションのもつ力を活用し、初期段階の認知症の人々とその介助者が、新しいスキルを身につけ、自信を築き、コミュニティへ参加することを促すことだ。
「認知症」という言葉を使わない
6月中旬の木曜日、「Arts for Dementia」が南ロンドンで開いた陶芸のワークショップ(この日は、全10回、週1回開催されるプログラムの6回目だった)には、3つの大テーブルに、参加者である初期の認知症の人々と介護を担う親近者が、いずれもファーストネームだけの名札とエプロンをつけて着席していた。目の前には、粘土の塊が置かれている。ここではスマホ使用は認められていないため、録音も撮影もできない。また、認知症という言葉の使用も禁じられている。
参加者だけでなく、スタッフ(そして取材者である私)も皆、テーブルについて自分の作品を作る。指導者であるアーティストはテーブルを巡りながら素材の粘土と用具を配り、それぞれの参加者が思い思いに作っていく器や彫刻などについて、表面をなだらかにしたい場合、高さを出したい場合など、目指す形を作るための具体的なアドバイスをしていく。ボランティアはその間にも参加者にさりげなく目を配り、必要なら手伝いを申し出る。
私と同じテーブルについたアランは、小さな抹茶茶碗のようなボウルを作りながら、完璧な形にならないことに少し苛立ちを見せていた。彼の隣に座ったボランティアの若い女性(本業はムーブメント・セラピストだという)が、「今日は奥様はいらっしゃらないのですか」などと前回の続きのおしゃべりをしつつ、「ちょっと作品に触ってもいいですか」と確認してから細かい仕上げを手伝っていた。アランはボランティアとの会話を通じて落ち着きを取り戻し、再び制作に取り組むことができた。
アランを含め、この日の参加者たちは、1時間半の間に、小さなイグアナやシンプルな丸い茶碗、装飾的なフルーツボウルまで、バラエティに富んだ作品を完成させた。最後は、参加者が一人ずつ出来上がった作品について発表し、互いに拍手を送り合った。お茶を飲みながらの歓談が終わり、参加者たちが帰ると、指導者のアーティストと、ファシリテーター、そしてボランティアたちは、それぞれの参加者について気づいたことを話し合った。「アランは少し苛立っていたけれど、関係ないおしゃべりをしたらリラックスして楽しんでくれたみたいだった」「先週休んだステファニーは、駐車スペースが見つからなかったことが問題だったと教えてくれた」「椅子の背が、隣のテーブルに当たるのが気になっていた参加者が複数いた」など、今後に活かすべく細かい情報を交換し合った。
アーティストにとっての意義
「Arts for Dementia」でアウトリーチ・オフィサーとして、ワークショップの企画とファシリテーターを担当しているジャスミン=カリス・フォンティベリオ=ヒルトンは、自らの役割を「参加者との信頼関係を築き、ゆるやかなコミュニティを作り、最終的には純粋に楽しかったという感覚と達成感をもたらすこと」と説明する。
「認知症の人たちは日常が単調になりがちで、ワークショップに来るのが1週間のハイライトだという声をよく聞きます。仲間と出会い、一緒にクリエイティブな活動をして、笑顔になれる時間は、安全な環境で新たな挑戦ができるかけがえのないチャンスになっています」
また、陶芸コースの指導を行うアリス・カサハラは、自らアーティストとして制作しつつ、非営利プロジェクト「Communal Clay」の一員として活動している。彼女は、公的予算の大幅削減や、資材や賃料の高騰による参加費の上昇などにより、アートに触れる機会に格差が広がっていると指摘。そんな中、認知症の人たちが気軽に無料で参加できる「Arts for Dementia」のワークショップでは、「完成する作品よりも、作るというプロセスそのもの」を重視しているといい、指導体験からアーティストとしての自身も多くを学んでいると語る。
「多様な人たちが考え、想像し、アイデアや問題解決に取り組むさまざまな方法から、インスピレーションを得ています」
「Arts for Dementia」では、カサハラのようなワークショップ指導役のアーティストたちに対して、1日かけて研修プログラムを提供している。午前中は認知症全般について、また、記憶喪失以外にも言語や視覚、遂行機能など、認知症の種類ごとに脳にどのような影響が及ぶかを勉強する。午後は、それを踏まえた上で、参加者の負担を軽減するための具体的な方法を学びながら、全10回のセッション計画を練っていく。
持続的な活動の重要性
今年で15周年を迎える「Arts for Dementia」設立のきっかけは、創設者であるヴェロニカ・フランクリン・グールドの母親のエピソードにある。生涯を通じてクラシック音楽界で活躍し、音楽学校の理事も務めていたグールドの母は、認知症の進行とともにコミュニケーションを取ることが困難になっていった。しかしある日、家庭訪問してチェロを演奏してくれた学生に対し、突然「その曲、どこで習ったの?」と尋ね、以来、再び会話ができるようになったという。当時、イギリスでは、介護施設の入居者向けプログラムは実施されていたものの、自宅で暮らす認知症の人が参加できる活動はほとんどなかった。
「Arts for Dementia」設立後の約10年間は、科学博物館、ロイヤル・オペラ・ハウス、ロイヤルアカデミー、大英博物館やウォレス・コレクションなど、ロンドンを中心とする文化施設と連携してワークショップを行ってきた。しかし、6~8週間で完結するプログラムに対して、参加者から、終了後も集まりたいという声が上がったという。
そこで、コロナ禍の頃からは大きな文化施設に頼らず、コミュニティ密着型の活動に切り替えた。今では年間を通じ、一つのテーマで10週間連続のワークショップを行い、参加者が望めば、終了後も別のテーマで行われるワークショップに参加する機会を提供している。10週間の各プログラムの終了時には、Arts for Dementiaのファシリテーターが参加者と一緒に振り返りを行う。
活動内容は、陶芸、彫金、モザイクなどの制作から、ダンスや演劇といった身体を使うアクティビティまでさまざまだが、参加希望者一人ずつにコンサルティングを行い、プログラムを割り当て、さらに個人の状況に応じたサポートを行っている。一つのテーマで自信を持つと、その後は未経験のジャンルにも積極的になる人が多いという。
Arts for Dementiaが評価ツールに用いているのは、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の開発した高齢者向けウェルビーイング評価尺度だ。2025年度のデータの分析によれば、参加開始時のスコアの平均は5段階で3.5くらいだが、10週間後の終了時には、4.5を超えるレベルに上昇するという。
創作がもたらす効果
2022年にArts for DementiaのCEOに就任したペニー・フォステンは、ワークショップは「セラピーではない」と強調する。その目的はあくまで「アイデンティティや好奇心、喜びを探求する楽しみ」であり、患者も介護を担う家族も、「病気に支配されがちな日常から離れ、認知症患者というレッテルから自由になること」。
「認知症の診断が下りると、身の回りを整理し、遺言書を作成するようアドバイスされ、資料を渡されます。つまり、人生の終わりを迎える準備をしなさい、と言われるわけです。私たちの役割は、こうした困難な時期を過ごしている人々に、アートを通してポジティブな変化をもたらすことです」
ワークショップ参加者たちは、「今その場で、自分が手や体を動かして体験していること」にフォーカスするよう促される。そこでは、自意識も、後付けの理屈も求められない。フォステンは、「だから解放感とともに新しいことに挑戦する喜びを感じられるのです。介護者にとっても、大切な人がアートを通じて自身の本質を表現している様子を見ることができるのは、かけがえのない経験です」と語る。
またフォステンは、「ワークショップの効果はその時間だけに限定されるものではない」と話す。持ち帰った作品を家に飾れば、それを見るたびに誇らしい気持ちや達成感を得ることができる。また、実際に制作を経験することでプロによる作品により興味が持てるようになるなど、「これまでとは違う視点で周りの世界を捉えられるようになり、病気にとらわれがちだった日常が変わり、世界が広がっていく」のだという。
クリエイティブ・ヘルスのインパクト
「Arts for Dementia」が「症状の治療や改善」を目的としていないとはいえ、アート・ワークショップが認知症患者の認知機能やコミュニケーション、集中力へ及ぼす効果には、すでに多くのエビデンスがある。また、症状に応じてより効果的にアートを処方するための研究も進んでいる。こうした背景から、現在、医師や医学の研究者だけではなく、アーティストや主要な文化機関が、「Arts for Dementia」の活動に高い関心を寄せている。
また「Arts for Dementia」も、現場で培った知見の共有を惜しまない。ロンドンを中心に、さまざまな芸術機関にワークショップ指導者のための研修も行ってきた。ロンドン芸術大学セントラル・セント・マーティンでの取り組みでは、認知症患者と介護者、そして学生と指導教員が、サウンドアート、マルチメディア、彫刻の共同制作を行っている。ここでは、参加者の誰もが成功体験を味わえるよう、学生たちは意図的に手順を細かく分解して指導することが求められる。こうした体験を通じて、学生たちはワークショップをリードするスキルを磨いていくのだという。
「Arts for Dementia」の今後の目標は、ロンドン全域のコミュニティでワークショップを行うモデルを拡大し、さらにはイギリス全国で、より多くのアーティストや芸術団体が、それぞれの地域コミュニティにおいて活動を自ら行えるよう支援していくことだ。
さらにフォステンは、認知症に対する恐怖心や偏見を取り除くことも「Arts for Dementia」の役割の一つだと語る。
「映画やテレビで描かれるのは、多くの場合、とても苦しんでいる認知症患者の姿。でも、特に初期の段階では、地域社会で楽しい時間を過ごし、美しいものを作り出すことができるんです。そうした人々の姿も知ってもらい、認識を変えていけると信じています」
Photos: Harry Plowden, Courtesy of Arts for Dementia Text: Reina Shimizu Edit: Maya Nago









