イタい、気まずい、ドン引き──アート、映画、SNSに見る「クリンジ」の正体
「他人の言動に、見ているこちらが恥ずかしくなる」──そんな経験は誰にもあるだろう。こうした感情を表す「クリンジ(cringe)」は、他者への共感だけでなく、嫌悪や侮蔑、嘲笑とも複雑に強く結びついている。昨今、インターネット上で多用されるこの言葉について、アートや映画・ドラマ作品を例に挙げながら、その社会的・倫理的側面を紐解いていく。

創作物であれ、実生活であれ、私は肉体が持つ生々しい物質性に動揺することは一切ない。
ルーカス・ムーディソン監督の『A Hole in My Heart(心に空いた穴)』(2004)のクライマックスで、テスの開いた口の中にゲコが嘔吐するシーンについては以前記事を書いたし、月経を題材にしたジュディ・シカゴの過激な作品やイナ・ポッペの母乳チーズ、精液で描いたマルティン・フォン・オストロフスキーの絵画、自身の体から採取した約4.7リットルの血液で作ったマーク・クインの彫刻などは、どれも私の好みにぴったりだ。今年のヴェネチア・ビエンナーレのオーストリア館では、フロレンティナ・ホルツィンガーが浄化処理装置付きトイレから尿が流れ込むプール《Seaworld Venice(シーワールド・ヴェネチア)》を展示したが、それも最高に気に入った。
しかし、クリストファー・ボルグリ監督の映画『ドラマなふたり』(2026)の上映が始まって20分も経たないうちに、私はいたたまれない気持ちで身をすくませていた。膝を胸に寄せ、肩を丸め、シャツの襟を引き上げて顔を覆おうとし、緊張で顎が強張っていた。身体全体を1点に収斂させようという無駄な努力──その苦痛の直接的な原因は、劇中の友人同士の会話だった。
私が陥った状態について若者たちはある言葉を使う。そして哲学者たちも。
大昔からあるこの感情を表す今どきの言葉、それが「クリンジ(cringe)」(*1)だ。
*1 cringeとは、身がすくむこと、縮み上がることを意味するほか、痛々しい、いたたまれない、気まずい、こっちが恥ずかしい、見ていられない、イタい、ドン引き、サムい、キツい、ゾワゾワする等、恥や哀れみ、呆れ、嫌悪、恐れなどに関するさまざまなニュアンスを持つ。
「クリンジ」を生じさせる2つの感情
クリンジは、「恥」と「共感」という2つの感情を結びつける。恥の歴史は古く、旧約聖書のイブにとっても、ルネサンス期に《楽園追放》を描いたマザッチョ(マサッチオ)にとっても目新しいものではない(マザッチョのフレスコ画《楽園追放》でアダムは顔を、イブは自身の身体を隠している)。「覆う」という語源から派生し、罪悪感や不名誉、面目の失墜が混ざり合ったこの感情は、次のような複数の概念と結びついている。
その概念の一つは「懲罰」で、アンドレア・ビュットナーが2022年から25年にかけて制作した、公の場で恥をかく場面のシルクスクリーン作品を想起させる。また、「裸であることの無防備さ」という概念は、下から見上げる極端なアングルの裸婦でそれを強調したジェニー・サヴィルの絵画《Plan(プラン)》(1993)を、そして「隠し続けるべきだとされていることの暴露」は、トレーシー・エミンの《Everyone I Have Ever Slept With 1963-1995(私が今まで一緒に寝た人たち1963–1995)》(1995)やマルティーヌ・シムズが2020年に発表した日記風の写真集《Shame Space(恥の空間)》)を思わせる。

この感情にさいなまれた人は、他者の目にさらされ(赤面という形でそれは露わになってしまう)、身を隠したいと強く願う。あるいは自分の存在を消してしまいたいとさえ思う。死ぬほど恥ずかしいというのは、必ずしも比喩ではないのだ。
一方、共感に焦点が当たるのはずっと後になってからで、18世紀にアダム・スミスの『道徳感情論』(1759)で深く考察されている。
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイによる福音書7章12節)など、キリストの教えを世俗化・合理化したスミスは、「公平な観察者」であれば想像力を働かせ、もし自分が相手の立場ならどう感じるかと考えることで、他者の感情的な体験を思い浮かべることができるとし、「私たちは自分自身がまったく同じ苦痛に耐えていると想像することで、いわば彼の体に入り込み、ある意味で彼自身になるのだ」と主張した。スミスは、単に私たちが他者に感情移入できると指摘しているわけではなく、そうすべきだと主張している──これは倫理についての本なのだ。
クリンジとはつまり、他者の恥への共鳴、気まずさの追体験、屈辱感の擬似体験だと言える。
インターネット上では中傷の言葉に
クリンジ(cringe)と呼ばれる、他人の言動を見ていたたまれなくなる感覚を表す言葉は、さまざまな言語に存在する。たとえばオランダ語には「代理の恥」を意味する「plaatsvervangende schaamte」、フランス語には「代理羞恥」を意味する「gêne par procuration」、ドイツ語には「他人の恥」を意味する「Fremdschämen」という表現がある。スウェーデン語の「skämskudde」は「恥のクッション」を意味し、たとえば世界中に中継されるブレイクダンス大会で派手に失敗した人を見て、いたたまれず顔を埋めたくなるクッションを指す。日本語には、他人の言動を見ていたたまれなくなる「共感性羞恥」という言葉があるほか、そうした言動や人物を揶揄する「イタい」という表現もある。しかし、この感覚を最も端的に、そして強烈に言い表しているのは、「気まずさのガン」を意味する中国語のスラング「尷尬癌」かもしれない。
近年この言葉は、ネット上で何かを中傷するときに使える万能の言葉として多用されている。クリンジな何か、あるいは誰かを目ざとく見つけ、それを煽ることは、インターネットにおける最も残酷な行為で、集団的なハラスメントや嘲笑の拡散の源となっている。デジタル空間で搾取や攻撃の標的となりやすい人々──性的マイノリティや、自閉スペクトラム症(ASD)や注意欠如・多動症(ADHD)などの神経発達特性を持つ人々、経済的に不安定な状況にある人々、社会的に孤立した人々──は、その熱意や努力、さらには存在そのものが、嫌悪や哀れみの対象とされるリスクにさらされている。
2022年にテイラー・スウィフトがニューヨーク大学から名誉学位を授与された際、彼女は壇上から卒業生たちに「クリンジ(気まずさ)と共に生きていく方法を学んでほしい」と語りかけた。確かに美しい白人女性ならば、イタいほどのひたむきさも「ダサかわいい(adorkable)」(*2)として受け止められるかもしれない。でも彼女の助言は多くの人々にとって、良くて空気が読めない、悪くすると無神経に聞こえることを私たちは知っている。
*2 adorkable とは、「adorable(かわいい)」と「dork(ダサい)」を組み合わせたスラング。社交性に欠けたり、オタクっぽかったり、おしゃれではないけれど、どこか魅力的な人物の形容。
軽く揶揄するだけのつもりであっても、何かをクリンジと断じることは、本質的に批判的な行為だ。「『ハミルトン』(*3)はイタい(クリンジ)」──人種の垣根を取り払った配役が話題を呼んだミュージカルに目頭を熱くする年長者を、アルファ世代(Z世代の次の世代)はそう言ってあざわらう。そんな彼らに対してミレニアル世代は、「スキビディ・トイレ・リズ(*4)とか意味不明な言葉を使うお前たちこそサムい(クリンジ)」と言い返す。こうした世代間対立を煽る言葉の応酬は、人を疲弊させるものだ。どの世代であれ、子の世代のスラングは馬鹿馬鹿しいと思うものだし、子からすれば親の政治観はお花畑と感じられる。
*3 アメリカ合衆国建国の父の1人、アレクサンダー・ハミルトンの生涯をヒップホップやR&B、ジャズなどを融合させて描いた人気ミュージカル。
*4 「スキビディ・トイレ」はウェブアニメ・シリーズのタイトル、「リズ」は「Charisma(カリスマ性)」を略したスラングで、それを合わせた造語は「痛々しい口説き方」「ぎこちない」などを意味するほか、特に意味を持たない流行り文句として使われる。Z世代・アルファ世代のネットスラング。
クリンジの感情はなぜ、どんなときに起きるのか
しかし、ネット上の至る所で便利な悪口として使われているこの言葉の奥には、強烈な身体感覚を引き起こす美的情動が潜んでいる。それは、嫌悪(dis-taste(「dis [否定・反対] 」+「taste [味] 」):吐き出したいほどひどい味)や、恐怖(ラテン語のhorrere:毛が逆立つ)と同じカテゴリーに分類できる感覚だ。思わず身がすくむこと、尻込みすることを表すこの言葉は、もともとは「屈服する、(戦で)倒れるなどを意味する古英語の「cringan」に由来し、のちに恐怖でうずくまる様子を表す言葉として使われるようになった。
このように、胃をむかつかせるのは嫌悪、首筋の毛を逆立たせるのは恐怖だが、クリンジは顔の筋肉に作用する。クリンジな状況は、口を半開きにした引きつった表情で、閉じかけた目を通して覗き見するものだ。
それに、クリンジの感情には複雑な時間性がある。最初はビクッとして顔をしかめるような典型的な動きがある。それは鋭く、突発的で、激しい。次に立ち現れるのは、なかなか消えない屈辱感や、後からゆっくり芽生えてくる自責の念など、持続的な感情だ。
では、何をクリンジと感じるかは完全に個人的なものなのだろうか? イエスであり、ノーでもある。
それは「猥褻」と同じで、見ればすぐにそれとわかるはずのものではある。ただし、絶対ではない。他者にとっては明らかに性的に刺激的なもの、または不快なものに、自分は嫌悪感を覚えたり、逆に興奮してしまったりすることもある。そんな場合、それを目にしたときに気付けなかった自分が恥ずかしくなるのだ。

このような心理から、何かをどう読み解けばいいかを、(現時点では、あるいは永遠に)分からないことへの居心地の悪さとしてクリンジを感じる場合もある。トールビョルン・ロドランドの写真作品《This Is My Body(これが私の身体)》(2013-15)では、大人の男性の手が少女の頭を上に向かせ、その口元に指で触れている。光に満ちたこの写真は私たちの心をざわつかせるが、その最大の理由は、写真の場面を見ただけでは至福の瞬間なの残酷な行為なのか判断できないことにある。
ディエゴ・マルコンの映像作品《The Parents’ Room(両親の部屋)》(2021)では、仮面のような特殊メイクをした男が、妻と子どもたちの殺害、そして自分の自殺について歌い出す。次々にトーンが変わるこの作品には、恐ろしさとバカバカしさ、そして陳腐なほどの真面目さが混在している。嘲笑すべきか、悼むべきか? それが(ひどく悩ましい)問題だ。
ジョーダン・ストレイファーの三部作──《Loophole(抜け穴)》(2023)、《Decadence(退廃)》(2024)、そして今年のホイットニー・ビエンナーレに展示された《Talk Show(トークショー)》(2026)──について考えてみるのもいいだろう。この三部作はトラウマや性的暴行という重いテーマを扱っている。しかし、メロドラマも顔負けなくらい様式化された登場人物たちを見て、私たちは後ろめたく思いながらもこう自問する。裁判で証言する彼らは、果たして同情に値するのだろうか?

さらに複雑なのは、ある人がクリンジだと感じることが、別の人にとっては「愉快」に思えることだ。たとえばXという人物が、Yという人物の身に起きたことが自分には決して起きないと確信していたり、自分とYの間にいかなる共通項もないと考えていたりする場合、XはYが屈辱を受ける場面を面白がるかもしれない。こうした感情は「シャーデンフロイデ(他者の不幸を喜ぶ気持ち)」と呼ばれる。しかし、もし私が何らかの理由でYに共感しているなら、その屈辱は私自身のものにもなる。
古代ギリシャの喜劇作家アリストパネスは、愛とは、魂が他者の中に自分と似たものを認めることだと言った。愛と同じことが恥についても言える。クリンジとは、他者の中に自分を見ることにほかならない。
ゆえにクリンジは、「誰に共通点を見出すか」によって政治的な真実を暴き出す。何かを見た瞬間に湧き起こるこの美的反応は、個々人の中にある自己同一化の倫理を浮き彫りにするのだ。
対人関係の中で生じるクリンジを扱うアートやドラマ
不快感を与えるアート作品は、必ずしも見ていて恥ずかしくなるようなものばかりではない。切断された牛の頭とウジ、そしてハエを殺す殺虫灯がガラスケースに入ったダミアン・ハーストの《A Thousand Years(千年)》(1990)は、鑑賞者に吐き気を催させるかもしれない。しかし、そこに社会的関係性の地雷は埋まっていない。
(10代の頃に書いた詩を見返したときのように)昔の自分を「恥ずかしい」と思うことはあるかもしれないが、クリンジは本質的に対人関係の中でしか生まれない感覚で、社会的拒絶への不安と密接に結びついている。人は、この感覚を頼りにしながら集団における自分の立ち位置を推し量る──ほかの人は私をどう見ているのか? 笑いものとして? 才能ある人物として? 変人、脅威、あるいは欲望の対象として? 気さくで愉快なリーダーとして? 私をセクシーだと思う? クールだと思う?
『ドラマなふたり』は、この立ち位置が崩壊していく過程を描き出している。ゼンデイヤの演じる女性は、婚約者に加え友人カップルも参加した自身の結婚式の試食会で、これまでの人生で「最悪のこと」を話すことになる。参加者それぞれが冗談めかして自分の秘密を明かす中で、彼女は自分の経験を社会的規範から外れていないと思って話し始める。ところが、彼女が露呈してしまったのは「間違った種類の」秘密だった。友人たちの告白がその場の空気を和ませたのとは対照的に、彼女の告白は自らを「異質」な存在として際立たせてしまう。そしてそれをきっかけに、映画に出てくるあらゆる人間関係が完全に崩壊していく。
クリンジの痛みはその場だけではおさまらず、増幅していく。たとえば、私が感じた動揺が映画館にいた他の観客に目撃され、また、この記事の読者に伝わったことによって、私の内心は再びさらけ出される。自分が「いたたまれない」と感じるものを明らかにすること、つまりクリンジとは、他者を通じて生じる恥でありながら、同時に自分自身についての告白にもなってしまうのだ。
映画館で思わず見せた反応によって、私が最も恐れている事態が何であるかがバレてしまった──それが「周りの人との共通認識を自分が見誤っていたことに、弱みを明かしかけている最中に気づくこと」だということが。

自己イメージと他者の認識の間に生じるギャップについて考えさせるという意味で、あらゆるクリンジ・アートは一種のパフォーマンス・アートだと言える。
その観点で言うと、クリンジ・アート第一世代のスターたちを輩出したのは1970年代のボディアート(特にマリーナ・アブラモヴィッチとヴィト・アコンチ)、アンディ・カウフマン(*5)のアンチコメディ、そしてウィーン・アクショニズム(*6)だった。1980年代から90年代に関しては、YBAのサラ・ルーカスや、ポール・マッカーシーとマイク・ケリーの良識とは真逆の美学がここに入るだろう。ケリーが1987年に制作したバナー形の作品《Three Point Program/Four Eyes(3点プログラム/4つの目)》には次のような痛快な文言が踊る。「俺はクソ漏らし野郎だ まいったか p.s. オナニーも大好き(おまけにメガネもかけてる)」。こうしたトラッシュ・カルチャー(*7)を受け継ぐライアン・トレカーティンは、過剰なまでにパフォーマンス化が進んだ今の時代に合わせてそれを刷新している。
*5 1970年代末から80年代半ばにかけてコメディ番組や映画などに出演し、人気を博したアメリカのパフォーマー。予定調和的とはかけ離れたシュールな芸風が持ち味だった。
*6 1960年代のウィーンで活動したパフォーマンス・アートの一派。動物の死体や血を用いたり、自傷などショッキングなパフォーマンスを行ったりして注目を集めた。
*7 伝統的な「高尚な文化(ハイカルチャー)」とは対照的に、下品、低俗、悪趣味などとされるものを敢えて楽しむ文化。
現代におけるクリンジ表現の例として、メディア研究者たちは2000年代に一世を風靡したテレビのクリンジ・コメディを挙げている。この時代、「ラリーのミッドライフ★クライシス」、「ダ・アリ・G・ショー」、「ジ・オフィス」(イギリス版)、「ピープ・ショー ボクたち妄想族」など、エッジの効いたユーモアのある良質なドラマがたくさん作られた。2010年代になるとそれらへのフェミニスト的な切り返しとして、「ザ・カムバック」、「GIRLS ガールズ」、「Veep ヴィープ」、「クレイジー・エックス・ガールフレンド」、「インセキュア」、「Fleabag フリーバッグ」など、女性たちを主人公にしたドラマが登場している。
緊張感に満ちた沈黙の中で屈辱的な姿をさらし、演者と観客の間にあるはずの垣根を暴力的に突き崩してみせたパフォーマンス・アートの逸脱的方法論は、このクリンジ黄金時代に大衆文化へと流れ込んだ。たとえば「『GIRLSガールズ」の主人公が鼓膜を綿棒で破ってしまうシーンは、アブラモヴィッチの《リズム0》(*8)と並べても違和感がない。また、今や美術の正史に刻まれたアコンチの《シードベッド》(*9)ほどの文化的重みはないかもしれないが、「ネイサン・フォー・ユー」や「リハーサル-ネイサンのやりすぎ予行演習-」など、虚構と現実の境目を曖昧にした番組で、アコンチの観客と同じ「意図せず気まずい場面を覗き見る」体験に視聴者を引き込み、異色のコメディ・クリエイターとして名を上げたのが、俳優で映画監督でもあるネイサン・フィールダーだ。
*8 1974年のパフォーマンス作品。テーブルの上に刃物や銃を含む72のアイテムが並べられ、展示時間中は観客がそれを使ってアブラモヴィッチに何をしてもよいとされた。
*9 1972年にニューヨークのソナベンド・ギャラリーで発表された作品。アコンチは底上げしたギャラリーの床下に隠れ、頭上を歩く来場者たちの足音に反応して彼らへの妄想を語りながら自慰行為をし続けた。その声はスピーカーを通して来場者に聞こえるようになっていた。
「マイナー・クリンジ」と「メジャー・クリンジ」
表現におけるクリンジの可能性を追求する現代アーティストは少なくない。だが、それらについて論じる前にまず、クリンジ・アートには重要な区分があることを指摘しておきたい。
1つは、私が「マイナー・クリンジ」と呼ぶものだ。この種の作品はクリンジという感情をテーマにしてはいるものの、落ち着いて鑑賞できる。これは、距離を置いて冷静にその感情を観察できる「メタ・クリンジ」でもある。
一方、「メジャー・クリンジ」は、この美的感覚を批判的かつ形式的に扱いながら、それを誘発する。その可能性を突き詰めて、鑑賞者に自分ごととして体感させるのだ。それは外から眺めることができない「内的クリンジ」で、完全にそれに浸された状態になる。
恥の芸術作品と言ってもいいだろう。
これは作品ごとに異なり、同じアーティストが両方を制作している場合もある。クリスティン・ティエン・ワンは、2022年にベルリンのギャラリー・ナーゲル・ドラクスラーで、「Fake Stupid, queen of cringe(バカなフリ、クリンジの女王)」と題した個展を行った。そこに出品されたネットミーム風のフォトリアリズム絵画はマイナー・クリンジで、恥や皮肉、不安など、ネット文化に充満する心理を俯瞰的に捉えつつも、心理的ダメージを鑑賞者に直接与えるものではない。
だが、《Starving Artist(飢えた芸術家)》(2025)は違う。複数のウィンドウが開いたコンピューター画面を題材にしたこの絵には、表計算ソフトに入力されたビットコイン投資の記録やジェイムズ・ジョイスの小説の背表紙、映画『チャレンジャーズ』のネットミーム、そして飢饉に苦しむ人物が写った古い白黒写真が描かれている。アクリル絵の具でデジタル画像を再現したワンの絵は、アルゴリズムによる平準化がもたらす道徳的リスクと向き合うことを私たちに強いる。ここでは恥がプラットフォーム化されているのだ。この作品は歴史的なトラウマと、皮肉を交えてそれをネタにすることの間の断絶に対する集団的責任の肖像なのだろうか? かなりのメジャー・クリンジだ。
しかし、これらの区分は様式の違いに過ぎず、1人のアーティストが一方から他方へと進化するものではない。アマリア・ウルマンの風刺コメディ映画『Magic Farm(魔法の農場)』(2025)は、アメリカ人の映画制作チームがアルゼンチンの片田舎を舞台に、あることをバズらせようと必死になる様子を描く。アテンション・エコノミーへの風刺が痛快なこの映画は、安心して楽しめるマイナー・クリンジ作品だ。一方で、彼女が2014年にインスタグラム上で展開した長期プロジェクト《Excellences & Perfections(卓越と完璧さ)》は、まさにメジャー・クリンジだった。なぜかというと、「自己改造の過程を見せるコンテンツ」というネットでお馴染みの型で極端な変身を記録したこの作品には、捏造された面(豊胸手術)と捏造されていない面(ウルマンが実際に行った極端な食事制限)が混在していたからだ。自己表現と自己ブランディングが混じり合うこの時代において、他者の体験を介して味わう心理的動揺は共犯関係につながる。そこでは、クリンジの外側にいるのは不可能だ。
承認欲求にあふれたインターネットが「恥」を増幅
あらゆる恥や屈辱(humiliation)は「転落」だ──この言葉は「地面の上」を意味するラテン語「humilis」に由来する。それゆえか、クリンジの感覚を題材とする今日のアーティストの多くは、女性が生きていく中で求められるグロテスクな表現を追求している。高い理想は崩れ去る運命にある、とでも言うように。
そうした作品のいくつかが、今年3月から8月にかけてブリュッセルのボザール(Bozar)で開催された展覧会「Picture Perfect: Beauty through a Contemporary Lens(ピクチャーパーフェクト:現代のレンズを通して見た美しさ)」に展示された。表現の規範を拡張することを目指したこの展覧会は、その真摯さゆえにクリンジを誘発するものだった。参加作家には、オルランや、サラ・クウィナー、ジュノ・カリプソ、ヘイリー・モリス=カフィエロなど、美を追い求める衝動を解体することに執念を燃やすアーティストたちがいた。彼女たちの作品は、女性らしさを──それが失敗した場合であれ成功したときであれ──嫌悪感を覚えるほど可愛らしく暴力的に表現し、他者から軽蔑をもって受け止められるものとして描き出している。そうした意味で理想とは悪夢なのだ。
同展に出品されたマリアンナ・シムネットの映像作品《Blue Moon(ブルームーン)》(2022)では、フルートを吹くギリシャ神話のアテナを思わせる人物が登場し、青緑や黄褐色へと絶えず変化する。この女神アテナに関する寓話には、まさにクリンジの感覚が描かれるものがある。横笛を吹いているときに自分の頬が大きく膨らんでいると気づき、愛用していた楽器を捨てて呪いをかけるというものだ。醜いと思われることへの恐怖の中で形成された自己像が、女性たちに自らの才能を切り捨てさせるのだろうか? ここで紀元前16世紀と2026年が接続される。

2022年からベルリンのボロス・コレクションで展示されているアンナ・ウッデンバーグの作品《Focus #2 (Pussy Padding)(フォーカスno.2 [女性器パッド] )》(2018)は、身体を2つに折り曲げながら通気口付きのプラスチックカバーで覆われた女性器の上に、フェイクファーの付いた自撮り棒を伸ばしている女性像だ。アクリル製のネイルや、樹脂、ファイバーグラス、ビニールフィルム、バー・スツールなどの素材で構成されたこの作品は、俗っぽい記号の寄せ集めに見えるが、それが伝えるメッセージは鋭い。重要なのは、これらの素材の質感だ。ばかげたエロティシズムを表現するために用いられた素材の人工的な安っぽさに、私たちは「求められたい」という歪んだ欲望を感じ取り、ますます恥ずかしさを覚える。
「求められることへの飽くなき渇望」は、キャサリン・マリガンの絵画にも見ることができる。2023年にタラ・ダウンズで開催された個展「Bad Girls Club(バッド・ガールズ・クラブ)」に並んだ絵画では、ミレニアル世代が若い頃に流行した露出の多い「マクブリング」ファッションに身を包んだグロテスクな女性たちが扇情的なポーズをとっている。ガーリーな長いネイルと溶けかけた肉を思わせる手元のコントラストは絶妙で、ペニスをくわえるような形にすぼめた唇は死体のように浮腫み、肌は焼きすぎたせいで紫がかった灰色に見える。半ば死んだような身体から発せられる強烈な承認欲求は、絵画空間を歪ませ、遠近法を狂わせ、コラージュされたテキストを額縁の側面へと押しやっている。

前述したように、クリンジはパフォーマンス・アートと近しいものがあるが、このような具象絵画との相性も良い。クリンジの隣接概念である嫌悪感、動揺、不安を論じる際に、リサ・ユスカヴェージや、サーシャ・ゴードン、マリガンなどの作品が度々引用されるのは決して偶然ではないだろう。「画家の中の画家」とも言うべき描写力を持つ彼女たちが描くのは、認識可能な現実世界のフォルムだ。そして人々の共感や認知に根ざすクリンジは、典型的な場面・状況・人物像、分かりやすい類型の見られる場所でこそ花開く。
衝撃的な、あるいは怒りの感情を引き起こす抽象絵画があることは想像できるし、美術における因習打破の歴史もその存在を証明している。しかし、嫌悪の感情を味気なく表現する以外、クリンジの感情を呼び起こす純粋な抽象絵画は想像できない。その点、クリンジは社会的なものと不可分に結びついている。よってそれは象徴的なイメージが示されるところで最も強く現れる。
つながりの上に成り立つネットワーク・カルチャーは常に人の自己顕示欲を煽り、結果、インターネットは恥の温床となる。公共の場で恥をかき、直接的に屈辱を感じる発信者が増えるということは、それを見ていたたまれない気持ちになる人が指数関数的に増えるということでもある。
この時代の初期に制作されたエリーザ・ジャルディーナ・パーパの《need ideas!?! PLZ!!(アイディア募集中!?! お願いします!!)》(2011)は、自分のチャンネルの視聴者数を増やそうとする10代前半の若者たちのYouTube動画を集めた作品だ。幼さが残るふっくらとした頬と無邪気な瞳をカメラに向け、ある少女はこう懇願する。「こんにちは、えっと、視聴者の皆さん、ピンクサマークラッシュです。ウェブ番組を始めたいんだけど、アイデアが思いつかなくて……」。また別の若者はこうささやきかける。「何をすればいいかわからないから、いいアイデアがあれば教えてください。もっとたくさん発信していきたいと思っていて、企画を募集してます。お願いします」

子ども部屋から発せられるメッセージは、ひたすら無邪気だ。自分の言葉が何か別のことを仄めかしてしまうかもしれないことなど考えず、「みんなを喜ばせたいの」と訴えたり、「鼻に何かを突っ込むこと以外なら何でもする」と宣言したり。アイデアが欲しいと懇願しつつ、フォロワーがゼロだと明かす子もいて、そもそも動画が誰にも見られていない可能性すらある。
皮剥ぎの刑に処された殉教者ですら、この少女たちの痛々しさには敵わない。彼女たちは徹底的にさらされ、その無防備さは極限に達している。
これぞ究極のメジャー・クリンジだ。そう思うのは単に10代前半の少女たちへの同情からでも、消せないこの記録が将来、彼女たちに恥ずかしい思いをさせるだろうという予感からくるものでもない。
それはむしろ、プラットフォーム資本主義の下で生きるということは、「人間の欲求がアルゴリズム的なもつれへと再定義されてしまうことだ」という不穏な現実に気づくことから来ている。以下のフレーズを初耳だと仮定して、それらがどう響くかを考えてみてほしい。「いいね!をお願いします(どうか、これを好きになって)」「何でもする」「フォローをお願いします(私の後をついてきて)」。
こうした言葉に全く重みが感じられなくなったことの倫理的なリスク──それに気づいたときに私たちの心に湧き起こるのがクリンジの感情だ。
クリンジとは他者の苦しみに共感できる能力
最後に、最もデリケートな「テイスト」の問題に触れておこう。その存在自体に身が縮むような恥ずかしさを覚えるようなアート作品とは、ある人にとっては意図的にキッチュな表現を駆使したネオ・ポップ作品かもしれないし、別の人にとってはジェイ・Zとマリーナ・アブラモヴィッチのコラボとそれにまつわるトラブルかもしれない。私が挙げたいのは、ラグジュアリーブランドとのコラボレーションだ。セクシーに見せようという必死さだけが目につくSNSの承認欲求満載のポスト──それと同じものを感じてしまう。
しかし、こうした感情を抱かせるアートから、私たちは何かを学ぶことはできないだろうか? たとえば、時間についての何かを。時代の移り変わりについての何かを。
1997年から2001年にかけてニッキー・S・リーが制作した「Projects(プロジェクト)」という作品群がある。さまざまな社会集団やサブカルチャー集団に彼女が入り込み、その中で自分自身の姿を撮影した写真シリーズだ。私と同世代か少し年長の読者であれば、その作品が大きく注目されていた頃のことを覚えているかもしれない。

「今日の悪趣味は明日のハイアートになる」と言われるが、クリンジの場合は逆だ。昨日までハイアートだったものが、今日は悪趣味に見えてしまう。
韓国系アメリカ人の写真家であるリーが、「ヒップホップ・プロジェクト」で顔を黒く塗り、編み込みのヘアスタイルにした姿を見て、顔をしかめずにいられる人が今の時代にいるだろうか? 作品タイトルも苦笑を誘う。人種的な特徴を真似ることの問題点に関する議論が進んだ今、かつては先鋭的だった表現が、今では痛々しいほど時代遅れに感じられる。
とはいえ、ネット上に飛び交う非難の応酬ではなく、アダム・スミスの道徳感に近づこうとする心構えを持つ限り、私たちはクリンジから学ぶことができる。なぜならクリンジは、テイストに関しては謙虚であれ、と教えてくれるからだ。私たちの美的嗜好は移り変わること、そして私たちが時に美に政治的役割を求めようとすることを、それは教えてくれる。時代遅れの作品を見たときの痛々しさの感覚は、私たちが下すあらゆる判断がどれほど移ろいやすいものであるかを気づかせてくれる。
近頃は、共感を「他者の不幸のアプロプリエーション(流用)」(*10)だとして非難する風潮が見られる。だが私は、真の意味で共感に取って代われるものなどないと確信している。クリンジの共感的な恥ずかしさは、社会を維持するための代償なのだ。他者と共に生きている私たちは、他者の苦しみに共鳴できるという素晴らしい能力を持っている。
*10 自分が属していない社会集団や、別の人種の文化や行動様式などを、文脈を無視して軽々しく取り入れること(白人のドレッドヘアなど)。これを流用とする考え方は2000年代頃に一般に広まった。
他者の感情を完全に遮断してしまう冷酷な世界を誰が望むだろうか? クリンジは耐え難いものだと感じるかもしれないが、「ポスト・クリンジ」の世界は純粋な恐怖以外の何ものでもない。(翻訳:野澤朋代)
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