トランプ時代の芸術──ナチス映画と福音派映画の比較が示すMAGAの価値観
「アメリカを再び偉大に(MAGA: Make America Great Again)」を掲げるトランプ大統領は、キリスト教福音派を重要な支持基盤としている。この保守的プロテスタントの意識を反映しているのが福音派映画だ。福音派以外にはなじみのない独自の文化領域とその特徴を、ナチス映画との比較で考察したニューヨーカー誌のベッカ・ロスフェルドによる寄稿をお届けする。

半世紀以上にわたって世間を震撼させる力を失わなかったがゆえに、世の最も良識ある人々にも寓話のように根強く語り継がれてきたことがある。筋金入りのリベラル派であっても、十分に打ち解けた気分にさせれば小声でこう打ち明けるだろう。ナチスには、異常な形を取りつつ恐ろしいほど強力な領域があった──それは美学の領域だと。
ナチスの批判者たちでさえ、ナチス映画を一大センセーションとして称賛した。最も有名なのはスーザン・ソンタグだろう。彼女は画期的なエッセイ「ファシズムの美学」の中で、ナチスの制服はセックスアピールに溢れ、レニ・リーフェンシュタールの映画には不思議な魅力があると指摘している。同様に、ヴァルター・ベンヤミンやそれに続く理論家たちも、ファシズムの本質は、政治を美学化する試みがあまりに成功しすぎたところにあると論じた。
この解釈によれば、問題は第三帝国が通俗的だったり、感傷的すぎたりしたことではない。むしろ、自らが引き起こした暴力を軽やかなスペクタクルとして演出してしまうほど、冷徹で洗練されていたことにある。集会を計画し、行進を指揮するヒトラーは、おもちゃの兵隊を隊列のように並べては、それを倒す遊びに喜びを見出す子どものようだった。

そして今、トランプ政権は支離滅裂な暴走を繰り広げている。ワシントンD.C.のジョン・F・ケネディ・センターをトランプ・ケネディ・センターに名称変更するかと思えば、大統領執務室を安っぽい金箔張りにし、稚拙なAI生成動画や画像を使う。さらには美容整形でフィラーを注入しすぎの女性たち、肉料理の食べすぎを自慢するステロイド漬けの男性たち、大文字小文字がめちゃくちゃなツイートなど、全てにカーニバルのようなグロテスクな雰囲気が漂っている。このありさまを見れば、カール・マルクスが著書で述べたように、「一度目は悲劇として、二度目は茶番劇として」歴史は繰り返されると言いたくもなる。
文化領域におけるナチスとMAGAの類似点・相違点
アメリカにおけるMAGAと、ライン川流域で勃興したその先例との間には明らかな連続性がある。「ファシズムは劇場である」は、フランスの小説家・劇作家ジャン・ジュネの言葉とされるが、アンドリュー・ロイド・ウェバーを愛し、かつてはブロードウェイのプロデューサーを夢見ていたトランプほど演劇的な才能のある政治家はほかに思いつかない。映画研究家のエリック・レンシュラーが主張するように、ヒトラーが「近現代における初の本格的メディアカルチャー」を育んだとすれば、トランプは間違いなく、ポストモダン時代における本格的なソーシャルメディアブームの立役者だ。トランプには、ヒトラーがそうであったように、華やかさを演出する本能、きらびやかで壮大なものを生み出す才能がある。
トランプの抱く屈折もまた、その先人たちを彷彿とさせる。歴史家のジョナサン・ペトロプロスはナチス党の芸術政策に関する研究の中で、美術品の収集が党の上層部にとって重要だったのは、それが「伝統的なエリート層への同化の手段」になるからだと記している。ナチスは政治的に力を持っても、渇望していた文化資本を手に入れることは叶わず、深く失望した彼らは他の手段で威信を高めねばならなかった。一方、MAGA派はより諦観的だ。トランプとその取り巻きたちは、自らが俗物であるという認識を多かれ少なかれ受け入れ、意識の高いエリートたちに復讐することに満足を見出している。しかし、彼らが醸し出す傷ついた成り上がり者の雰囲気は、歴史上の先例とよく似ている。
ただ、ナチスとMAGAの類似点はここまでかもしれない。何しろ、綿密に組織化されたナチスには、略奪した美術品を鑑定するための専門家がいた。そして、ナチス特有の感性を醸成することを念頭に、ナチス博物館に特化した巨大かつ絶えず拡大し続ける官僚機構に莫大な資金を注ぎ込み、整然たる軍事パレードを演出した。それに対し、トランプの集会は寄せ集めでしかなく、軍事パレードも試みたものの、参加者の身体を純粋な幾何学的形状へと効果的に編成する規律ある演出は実現できていない。
ファシズムにはまた、そのスキャンダラスな洗練の証拠として引き合いに出されるような美意識の持ち主が何人もいた。しかし、かつてのヒューゴ・ボス、レニ・リーフェンシュタール、クヌート・ハムスン、ガブリエーレ・ダンヌンツィオ、エズラ・パウンド(*1)に匹敵するようなMAGA派の人物はいるだろうか? フロリダ州にあるトランプ大統領の私邸、マール・ア・ラーゴにナチス時代の建築家アルベルト・シュペーアの厳格さはなく、むしろチーズケーキ・ファクトリーの郊外店舗のようだ。
*1 いずれも、20世紀前半のファシズム/ナチズムに何らかの形で関与した人物で、同時に、文化・芸術分野で高い評価を得た存在として知られる。

しかし、マルクスの言葉は改訂されるべき時期にきているという思いは日に日に強くなる。マルクスは「まず茶番劇として、そして再び茶番劇として」と言うべきだったのだ。ナチス芸術の中には辛辣なものもあったが、大部分は安っぽく感傷的なものだった。ナチス党の初期には、後に宣伝相となるヨーゼフ・ゲッベルスの率いる一派が前衛芸術を支持していたものの、1934年までにヒトラーはゲッベルスのライバルだった下級官僚アルフレート・ローゼンベルクの側につき、反モダニズムの立場を取るようになっている。
それ以降、ナチスの公式政策はドイツ表現主義を「退廃芸術」として犯罪扱いした。代わりに優遇されたのは、民族主義的イデオロギーである「血と土(Blut und Boden)」(血は人種・血縁を、土は土地・祖国を象徴する)の伝統に則った写実主義で、ドイツの農民を理想化し、実験主義を排する作品だった。求められたのは鳩時計やレースのテーブルクロスが醸し出す昔ながらの家庭の雰囲気で、ヴェルナー・パイナーやアルトゥール・カンプらの牧歌的な風景画や血色の良い農民の肖像画が好まれ、ナチスの指導者たちは当然のように自宅をゴテゴテと田舎風に飾り立てた。それは、トランプがホワイトハウスでマクドナルドを食べるのと似た状況だと言える。
そして、著名なナチス高官の多くは、政治を美学化するどころか、芸術を露骨に政治化しようとする意図を明確に示していた。中でもその傾向が顕著に見られたのが、当時最も広く普及したマスメディアである映画だ。レンシュラーによれば、ゲッベルスは「全ての映画は政治的で、そうではないと主張する映画はなおさらそうだ」と主張したという。まるで、メディア研究のセミナーに参加した学生のように。
実際、政治的だと標榜する映画はほとんどなかった。恐怖政治の時代、ナチス政権の庇護下で製作された長編映画1094本のうち941本は娯楽作品で、いわゆるジャンル映画(容易にジャンル分けできる映画)だった。しかしゲッベルス自身が認める通り、こうした名ばかりの娯楽作品にも政治的意図がこっそり込められていた。その役割は、観客に何らかのスローガンを詰め込むことではなく、人々の気を逸らせ、宥め、大衆の欲望を形成するための比喩やイメージの数々を提供することにあった。
トランプ政権下のアメリカには、ほとんど認識されていないものの、これと似た状況がある。それはキリスト教福音派の映画産業で、2000年代初頭からハリウッドとは別のところで静かに成績を伸ばし、心地よく、控えめではあるが反動的な要素のある作品を20年近く量産してきた。ハロルド・クロンク監督作『神は死んだのか(原題:God’s Not Dead)』(2014)のような大ヒット作でも、クリスチャン・ナショナリズムのコミュニティ以外ではほとんど知られていないが、これまで6000万ドル(約95億円)以上の興行収入を上げ、5作のシリーズが製作され、今後も続編が予定されている。MAGAにはこれといった前衛的要素はなく、高尚な文化とは距離があるだろう。ただ、映画の世界をよくよく観察すると、アメリカ合衆国は第三帝国と同じところに向かっているように見える。

ナチス映画や福音派映画は誰に語りかけているのか
ワイマール時代の映画に関する研究書の古典、『カリガリからヒトラーへ ドイツ映画1918-1933における集団心理の構造分析』(1947)において、フランクフルト学派と親交のあった社会学者のジークフリート・クラカウアーは、「映画は無名の群衆に語りかけ、訴えかける」ものであるため、「他の芸術メディアよりも直接的にその国の精神を反映する」と主張した。では、20世紀ドイツにおける「無名の群衆」とは誰だったのか?
ワイマール共和国の時代も、ナチスの時代も、映画産業のターゲットは、社会の窮乏化は自分とは関係ないと考える上昇志向の中産階級だった。ただ、ホワイトカラーの専門職層は1924年から28年にかけて急増したものの、その労働環境は悪化の一途をたどっていた。「職業的・経済的な苦境という点において、勤め人の多くはブルーカラーの労働者と何ら変わらなかった」とクラカウアーは記している。しかしこの階級の人々は、プロレタリアートと共感することを学ぶ代わりに、脆弱で時代遅れな自己認識に固執し続けた。不満を抱えた会社員たちは連帯とは無縁で、むしろ「旧来の中産階級の地位を維持することにこだわった」のだ。
ワイマール時代とその後の全体主義時代で成功した映画は、クラカウアーの言葉を借りれば、「ドイツの勤め人の大半が抱く『ホワイトカラー』としての顕著な自負心」をくすぐるもので、困窮した人々が昇進一つで救われ、富を手に入れる設定が多かった。たとえば、『ベルリンのスラム街(原題Die Verrufenen)』(1925)では、「ある労働者に……思いがけず幸運な転機が訪れるのを描くことで社会問題を覆い隠し」、当時の経済不安を一時的なものとして描いている。その頃の映画には、社長の娘と結婚する労働者や、あり得ないほど気前の良い大富豪から人生を変えるほどのチップをもらうトイレの清掃員などが頻繁に登場する。
俗っぽい福音派映画を好む大衆も、そうした映画が描くファンタジーを見る限り、似たような意識を持つ人々であるように思われる。アメリカもまた、「一時的に困っているだけの金持ち」の国なのだ。企業統合が急速に進む中でも、福音派映画はアマゾンやウォルマートなど存在しないかのように、都市化が遅れた地方のコミュニティで中小企業が繁盛する様子を描き続けている。
政府の厳しい統制下で中央集権的な映画産業が製作したナチス映画とは異なり、トランプ主義の先駆けとも言える福音派映画は、エンジェル・スタジオ、アファーム・フィルムスなどの独立系スタジオやプロダクションによって製作されている。とはいえ、近頃は一定の公的支援を受けるようになり、昨年、クリスチャン・ブロードキャスト・ネットワークによるドキュメンタリーがワシントンD.C.のケネディ・センターでプレミア上映された。そして同センターの暫定会長だったリチャード・グレネルは、この由緒ある施設が近いうちに「信仰」と「家族」に焦点を当てたプログラムをさらに充実させると不吉な約束をしている。

国家的プロパガンダ機関のように閉鎖的で結束が固い福音派映画業界では、製作するスタジオが違っても、出演する俳優は大体同じだ。たとえば、1990年代後半にテレビドラマ『ヘラクレス』でヘラクレス役を演じたケヴィン・ソルボは、転向するかしないかの瀬戸際で揺れ動く無神論者役を十八番にしている。また、アレック・ボールドウィンの弟で敬虔な福音派信者であるスティーブン・ボールドウィンは庶民的なヒーローの敵役として企業の重役などを演じ、出演作は福音派映画だけというアシュリー・ブラッチャーは数え切れないほどのラブストーリーで微笑みを浮かべたヒロインを演じている。
定型化されたストーリーに描かれる「敵」は誰か
福音派の映画界の独自性は俳優陣だけにあるのではない。アカデミー賞に相当するクラウン・アワード、Netflixに相当するストリーミングサービスのグレート・アメリカン・ピュア・フリックス、そしてdove.orgのような独自のレビューサイトがあり、「信仰」や「誠実」などの観点で映画にスコアを付けたり、信心深い観客に「薬物」や「ヌード」で1点を超える映画は避けるよう警告したりしている。また、作品には独特なスタイルがある。技術は確かで、平板ながらも心地いい作風だが、あまりにも慣習的であるために映画というより広告かスクリーンセーバーのようで、登場人物はいつでも2006年に流行したダメージ加工のスキニージーンズをはいている。何より重要なのは、いくつかの典型的なストーリーが存在することだ。
レンシュラーは、ナチスの映画では「生命あるものが抽象的なパターンに置き換わっていく」ことが多く、物語が型にはまったものであるために登場する人物が象徴へと圧縮されると指摘している。ナチスが分かりやすいジャンル映画を好んだのは、観客の気晴しになりやすいだけでなく、主体性を服従へと押し込める定型表現との親和性のゆえでもあったろう。こうした映画には、いくつかの決まったパターンがある。たとえば、ドイツ国外へ移住した者はそれを後悔し、高潔なナチスの若者は共産主義のギャングに苦しめられるといった具合だ。
福音派映画も同様に、業界が作り上げたお決まりのパターンに忠実だ。大抵はハッピーエンドだが、がんで誰かが死ぬ場合は悲しくもあり、ハッピーでもある結末になる。がん患者には特に天国への道が開かれているからだ。敵役は常に無神論者やジャーナリスト、大学教授、中絶を行う医師、大企業の経営者、そして何よりアメリカ自由人権協会(ACLU)で、まったくの悪者として描かれるか、実は密かにイエス・キリストへの渇望を抱いているかのどちらかだ。物語のプロットは単純でいつも変わらず、パターンは次のようにごく限られている。
まず、討論をテーマとする映画がある。そこでは、福音派が激しい思想論争で動揺したリベラル派の相手を打ち負かす。たとえば、『神は死んだのか』(2014)では、キリスト教信者の大学生が進化論をめぐる討論を無神論者の哲学教授に挑む(教授を演じるのはケヴィン・ソルボで、いつものように最初は学生に対して軽蔑的な態度を取るが最後には悔い改める)。教授は議論に負けそうになると「私は神を憎む!」と叫ぶ。すると大学生はここがチャンスとばかりに、「存在しない者を、どうして憎むことができるのですか?」とゆっくり言葉を返す。
シリーズを重ねた作品では、これほどの修辞的な冴えは見られないものの、それぞれ独自の討論シーンが盛り込まれている。『神は死んだのか』シリーズの第4作『God’s Not Dead: We the People(神は死んだのか−我われ人民は)』(2021)では、わが子を学校に通わせずホームスクーリングを行う親たちが、公聴会での感動的な証言によって勝利を収める。また、前述のシリーズ第5弾、『God’s Not Dead: In God We Trust』(2024)では、福音派ナショナリズムを掲げて選挙に立候補した牧師が、無神論者の候補者との討論に勝利する。さらに『信仰と冒涜の狭間』(2014)でも、『神は死んだのか』第1作の核心的な設定が踏襲されている。ただし前者は、無神論的でリベラルな大学で孤立する学生が女性であるため、悪意ある教授との対決では父親が娘の代わりに立ち上がる。
このほか、夫婦間のトラブルを描いた一連の作品がある。暴走する夫に対し、慎み深い妻は夫のために祈り、その責任を問おうとはしない。女性が自らの権利のために立ち上がるストーリーも一部あるが、そうした場合、映画の後半はその償いに費やされる。そして、これまで最も高い興行収入を上げた福音派映画の1つで、主人公に黒人を据えた数少ない事例でもある『祈りのちから』(2015)では、自分を顧みず浮気ばかりする夫に、妻は当然のことながら不満を抱き、「あんな男には従いきれない」と友人たちにこぼす。
しかし、妻が小言を言うのをやめ、祈ることを始めると夫は改心する。彼女は「彼を愛し、尊敬し、祈ってあげるのがあなたの役目だ」と、精神的指導者から叱責されたのだ。また、『Redeemed(罪の贖い)』(2014)では、夫が浮気しようとしているのを黙って見守り、夫が誘惑に負けないよう祈り続ける妻が登場する。もちろん、間一髪のところで神が介入し、映画は喜びに満ちた新たなる誓いで幕を閉じる(このように夫婦愛を取り戻すパターンは2008年の『ファイアー・ストーム』などでも見られる)。
福音派映画で描かれるのは苦境に立たされた人々で、そこには現代の文化の中で自らが周縁に追いやられているという苦々しい感覚が漂っている。中でも偏執症的な傾向が顕著な一部の作品には、不平が主要な題材で、事実上唯一のテーマになっているものもある。この手の映画はナチス時代にも見られ、たとえば『ヒトラー青年クヴェックス(原題:Hitlerjunge Quex)』(1933)、『突撃隊員ブラント(原題:S.A.-Mann Brand)』(1933)、『ハンス・ヴェストマー(原題:Hans Westmar)』(1933)などは、暴力的な共産主義者に殺害されるナチス信奉者を描いてヒットした。
福音派映画の『Last Ounce of Courage(最後の一絞りの勇気)』(2012)や『神は死んだのか2』(2016)も、まさに迫害の幻想そのものだ。前者では、アメリカ自由人権協会の弁護士(ユダヤ系の名字を持つ黒人男性という究極の敵)が、白人ばかりの町に現れ、公有財産である場所にクリスマスツリーを立てたとして市長を激しく非難する。また後者では、公立学校の教師が授業中にイエス・キリストの名を口にしたことで法廷に引きずり出される。
これらの映画はプロットによっても分類できるが、それと同じくらいはっきり分類できる基準が対立する敵として描かれる相手だ。それは、リベラルな大学であったり(『神は死んだのか』)、フェミニストであったり(『Redeemed』、『祈りのちから』)、庶民を苛めることを生業とするエリート層であったりする(『Last Ounce of Courage』、『神は死んだのか2』)。これらすべての背景にあるのは、そして福音主義を強く押し出した映画で目につくのは、おそらく根源的な敵としてのコスモポリタニズム(*2)であり、ひいては近代そのものだ。
*2 世界は民族や国家を超えた1つの共同体で、全ての人間が平等な立場でこれに所属する「世界市民」であるとする考え方。
都会に出た「コスモポリタン」の辿る典型的な運命
心温まるロマンティック・コメディが中心のホールマーク・チャンネルのテレビ映画に代表されるような、そして無数の福音派映画で強調されるような根無し草のコスモポリタンを描いた映画は、アメリカ独自の民衆芸術であり、アメリカの「血と土」の最も純粋な具現化とも言える。その筋書きはワンパターンの単純なもので、若者(ほとんどの場合、自立とキャリア志向へと「堕落」する危険性が高い女性)が、無機質な企業で働くために都会へ出て行く。彼女にはプロポーズを先延ばしにしている多忙なボーイフレンドがいたり、彼女自身が忙しすぎて恋愛に時間を費やす余裕がなかったりで、ミーティングへと急ぐ姿は気丈に見えるが、その実、心は虚しさに蝕まれている。夜に人でごった返す街に出かけても、誰も彼女を知らず、言葉を交わすこともない。彼女が暮らすのは人間味に欠ける大都会なのだ。
そして、何かが彼女を小さな町へと引き寄せる。行き先は大抵(必ずではないが)生まれ故郷の町で、時期は大抵(必ずではないが)クリスマスシーズンだ。彼女は状況に抵抗しているふりをし、いら立ちを装う。だが、我われには分かるし、彼女自身も分かっている。本心では密かに喜びを感じていることを。
田舎町では光の色合いが変わる。都会は冷たく灰色だったが、小さな町の目抜き通りは温かみのある黄色い光に包まれ、美しいその場所に彼女は違和感なく溶け込んでいる。初めは携帯電話の電波が弱く、便利な物が何もないことに愕然とするが、次第に地域コミュニティの親密さに惹かれていく。やがて彼女は──大抵は地元のダイナーでパンケーキを食べているときに──オフィスにいた頃よりずっと充実していることに気付かざるを得なくなる。そして、映画の終盤にはチェックのシャツを着た実直な男性と恋に落ちる。頼りになるその男性は、彼女を貞淑な結婚生活へと導くことで、キャリア主義の虚飾から彼女を救い出す。この手の映画のうち少なくとも2本では、都会からやってきた彼女にスシを勧められても食べ方が分からない男性が描かれる。それは、「たくましく、素朴な、本物のアメリカ人男性」の証拠なのだ。
もちろん、多少のバリエーションはある。『Finding Normal(ファインディング・ノーマル)』(2013)では、大都市に暮らす女性医師が、交通違反切符を切られたために小さな町で社会奉仕活動をすることになる。『Christian Mingle(クリスチャン・ミングル)』(2014)が描くのは、キャリア面では成功しつつも心身ともに疲れ果てた女性がメキシコの町に身を寄せ、宣教師として働く姿だ。一方、『What If(もしも)』(2010)と『A Walk with Grace(恵みとともに歩む)』(2019)では、田舎暮らしを必要とする都会人が、めずらしく男性の設定になっている。しかし、どの作品も根本的な部分はほぼ同じで、迷える魂が故郷に戻ることで何らかの意味を見出す「ルカによる福音書 第15章」をそのまま引用したようなストーリーが繰り広げられる。

「根無し草のコスモポリタンを描く映画」の萌芽は、1900年代初頭の陰鬱なドイツ映画に見られる。その多くは、都会の夜の無秩序さを嘆くものだ。『蠱惑の街(原題:Die Straße)』(1923)では、家庭生活に倦み、夜の街へと飛び出したある男が事件に巻き込まれ、すんでのところで命拾いして妻の元へ戻る。妻は手料理のスープの大鍋と、許しに満ちた歓待で彼を迎える。また、『朝から夜中まで(原題:Von morgens bis mitternachts)』(1920)では、銀行の出納係が貴婦人の美貌に迷い、大金を着服したものの娼婦を買うなどしてそれを使い果たし、身を滅ぼすさまが描かれる。これらの映画において都市は危険なものであり、それを避ける方法はブルジョワ的な家庭へ逃げ込むことにある。
ナチスはこの基本的な前提をさらに発展させた。敵は大都市だけではなくなり、応接間にいる品行方正な妻も、もはや十分な防御にはならない。病巣は極端な普遍主義と都市性にあり、唯一解毒剤になるのは個々の事物、地域、祖国への熱烈な献身だった。さらに、ドイツ人の国外移住が記録的な数に上るにつれ、それを埋め合わせるようなストーリーが現れた。どこにでもあるような国際的大都市に安直なスリルを求めて故国を離れたドイツ人が、そこには故郷のような魅力がないことが分かり、最後には自分の過ちに気づいて涙ながらに帰郷するというものだ。
『銀嶺に帰れ(原題:Der verlorene Sohn)』(1934)では、風光明媚なチロルの山村の若者が、ニューヨークのコスモポリタン的な暮らしという誘惑に屈して移住するが、そこで無一文となり誰からも価値を認められない境遇に陥る。結局、彼は生まれ故郷の町に戻り、隣人たちから温かい歓迎を受ける。『南の誘惑(原題:La Habanera)』(1937)は、主人公を女性に置き換えてはいるが、ストーリーはほぼ同じだ。スウェーデン出身の女性がプエルトリコ旅行中に現地男性と衝動的に結婚し、その後何年も強烈なホームシックに苦しむ。しかしついに夫が亡くなり、彼女は愛する祖国へ帰る自由を手にする。
これらの映画が祖国の美を描くのは必然だと言えるが、それ以上に重点が置かれたのは移民生活の恐ろしさだ。その主張は示唆に富んでいる。ナチスは、裏切り者の亡命者を呼び戻すよりも、今いる国民に祖国に留まるよう促すことに力を注いだ。そのため、ドイツ国民が出国許可を得ることをより困難にすると同時に、観る者の心を揺さぶる戒めの物語を広めたのだ。「海外への旅で得られる刺激を望んでいるかもしれないが、世界を冒険したところで空虚で疎外された気分になるだけだ。あなたを満たせるのは生まれ故郷だけだ」と。
福音派映画が描く夢想的な世界とその限界
現代の根無し草的なコスモポリタンを描く映画は、同じメッセージと構造を持ちつつ、その強調するところは逆で、都市の恐怖よりも故郷の与える慰めに焦点を当てている。おそらくは、2010年から2020年の間に都市部に流出した記録的な数の地方在住者を、少なくとも空想の世界において、再び取り戻そうという試みなのだろう。あるいは、アメリカの地方が依然として侵されることのない場所だという虚構を維持するための試みなのかもしれない。
ナチスが「本国送還」という概念に執着し、民族国家の構成員としてのドイツ人や、(疑わしいことも多いが)「ゲルマン的」と見なした芸術をドイツの国土に戻す措置を講じたのに対し、根無し草的コスモポリタンを描く福音派映画は、国内における「本国送還」、すなわち偽物のアメリカから本物のアメリカへの回帰を夢見ている。人々がスシを食べる都市は、あまりにも国際的で、どこも似通っているため、もはや「アメリカ」と呼ぶに値しない。
ワイマールやナチス時代の映画が、新たな現実である経済的苦境を直視しなかったホワイトカラー層に迎合したように、福音派映画は時代遅れの「小さな町の豊かさ」という概念、ひいては過去の社会経済秩序に固執する農業地帯の人々を満足させようとしている。そうした映画は、農業地帯を近代からの避難所として、経済史が幸いにも素通りした領域として提示する。脱工業化や都市圏の拡大から逃れるには、都市化された地域の外へ向かい、看板が林立する道路沿いの商業エリアを通り過ぎ、神話的な過去へとまっすぐ戻ればいいのだ。
レンシュラーは、ナチス映画が「現代文明への不満に支えられたロマンチックな反資本主義」を体現していたことを指摘し、「人々は、素朴な農民、広々とした田園、牧歌的な共同体といった感情を揺さぶる過去へと目を向けた……」と書いている。こうした場所は、空間的に隔絶されていることで、時間的な隔絶が約束される。都市から遠く離れた場所は、現在や未来からも距離が遠くなるのだ。
実際、レニ・リーフェンシュタールの初監督映画『青の光(原題:Das blaue Licht)』(1932)のインタータイトル(*3)には、「我われドロミテの人間は、外界の争いや騒乱から遠く離れ、主にイタリア・チロルの険しい山々と壮大な自然の中で暮らしている」とある。そして、この映画には時代背景を感じさせる要素がほとんどない。カメラで撮影されたという事実を除けば、そこに映し出される多くの場面はどの時代にも起こり得るものだからだ。
*3 シーンとシーンの間に挿入される字幕。状況説明や無声映画の台詞などを伝える。
福音派映画に登場する町も「外界の争いや騒乱から遠く離れた」場所にあるが、その非時間性はそれほど明示的には描かれない(時代遅れのスキニージーンズはさておき)。そこでは、汚れなき状態にある奇跡の理由は説明されることなく、単に当然のこととして受け入れられている。脱工業化の影響を受けず、オピオイド危機(*4)とも無縁で、ファストフード店やウォルマートが見当たらないのはなぜだろうか。まるで、魔法によってそうした純粋さを手に入れたようだ。
*4 オピオイド系鎮痛剤の過剰処方や乱用により、依存症や死亡者数が急増した深刻な健康・社会問題。
無数の他人と多国籍な住民が織りなす都市の風景は、これらの映画が拒絶する歴史観、すなわち時代の変化の根底には非人格的でグローバルな力が横たわるという考え方の象徴となる。代わりに示されるのが、個人の選択によって時間を止め得るという個人主義的な解釈だ。そこには、技術的、文化的、あるいは社会経済的な変化の影響をまだ受けていない場所が依然として存在する。登場人物は携帯電話が通じなくなったり(『Finding Normal』)、車が故障したり(『What If』)することで、現代生活から解放されるのだ。
福音派映画はこのような地域的・個人的な領域を重視する。そこでは、家族経営の事業は企業統合によって倒産することはない。息子や娘が故郷を離れるのは、都会でしか仕事が見つからないからでも、育った町がさびれたからでもなく、霊的に誤った方向に導かれてしまったからなのだ。道を踏み外した子が故郷に帰り、家族のサクランボ農園や家族経営の工場で本来あるべき姿を取り戻せば──それぞれ『A Cherry Pie Christmas(チェリーパイのクリスマス)』(2025)と『A Walk with Grace(恵みとともに歩む)』(2019)──全てはうまくいく。つまり福音派映画の世界では、中小企業の倒産は経済的な問題ではない。家族の一員が規範を破ったとき、あるいはさらに悲劇的なことに、母となって安らぎのある家庭生活を送るのがふさわしいはずの女性が、自らの生殖能力を浪費して出世の階段を昇ることを選んだときに降りかかる天罰のようなものなのだ。
こうした映画のわざとらしい単純さはいかにも陳腐だが、同時に非常に滑稽でもある。しかし、この「茶番中の茶番」にも、かすかな悲劇の香りが漂う。小さな町を理想化するつまらない映画の数々、大都市を犯罪と不道徳の温床として罵倒するトランプの言動、「女性は心の奥底では企業勤務より子育てを望んでいる」と主張するヴァンス副大統領の発言、過去の繁栄への執着、そしてノスタルジーと希望──それらが束になってかかっても現実は変わらない。
クリスマスに実家へ帰る途中の女性が、寄り道してかつての行きつけの場所を目指す。しかし、そこに並んでいたのは全国チェーンのディスカウントストアや大型スーパーマーケットだった。それを見た彼女は踵を返し、一目散に都会に戻って行く。(翻訳:清水玲奈)
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