ピカソはなぜ《ゲルニカ》を描いたのか。論争を呼んだ大作に込められた思想とメッセージ
第2次世界大戦終結から80年目の今年、平和を祈念する式典が行われる一方で、世界各地の武力衝突に収束の目処が立たない状況がある。第2次大戦前夜に制作され、反戦を訴える作品として美術史を代表する存在となったピカソの《ゲルニカ》は、どのような背景で生まれたのか、改めて振り返ってみよう。

パブロ・ピカソが政治活動に関わるようになったのは、50代になってからのことだ。それ以前の彼は、ひたすら自分自身のことに集中し、天才である自分は他の人々と違い、ルールに従わなくても良いと考えていた。それはアートに関するルールでも、人間関係に関するものでも同様で、左派の立場をとるようになってからも傲慢な性差別や身勝手な振る舞いは改まらなかった。
自己宣伝に熱心な彼の性格は、政治への関わり方にも表れている。1944年にフランス共産党に入党するとピカソはそれを大々的に表明し、1945年にアメリカのマルクス主義雑誌「The New Masses(新しい大衆)」に宣言文を発表。「私は共産党員になった」と書き、その理由をこう説明している。「我らの党は……人々を……自由でより幸せにしようと務めているからだ」。しかし彼はなぜか、この考えをスターリンが共有していないことに目を向けていなかった。
同時代人の中には、彼の転向を真に受けない者もいた。たとえばサルバドール・ダリは、「ピカソは共産党員で、私もそうではない」と皮肉っている。しかし、ピカソは世界平和を訴え続け、朝鮮戦争やベトナム戦争にも強硬に反対した。政治における芸術の役割について尋ねられると、「絵画は部屋を飾るためのものではない。敵に対する攻撃と防御に使える武器なのだ」と答えている。
無差別爆撃の悲劇を描いた大作を1937年のパリ万博に出展
ピカソが政治に目覚めるのはかなり遅かったが、そのきっかけを作ったのはスペイン内戦で、中でもとりわけ残虐なゲルニカ爆撃だった。バスク地方の街、ゲルニカへの攻撃にピカソは絵画をもって立ち上がり、《アヴィニョンの娘たち》とともにピカソ作品として最大の知名度を誇る《ゲルニカ》は、美術史上最も有名な反戦作品となった。
1936年から39年まで続いたスペイン内戦は、第2次世界大戦の前哨戦だとされる。この戦いは、1936年1月に左派政党連合の人民戦線がスペイン第2共和政での政権を握ったことに端を発し、その年の7月にスペインの(カトリック教会を含む)超保守派勢力を代表する軍部の将軍たちがクーデターを起こしたものの失敗。以降、人民戦線政府を支持する共和派とそれに反対するナショナリスト派との間で内戦状態となった。後者はナチス・ドイツおよびファシスト政権下のイタリアから武器や兵士、そして《ゲルニカ》制作へとつながる空軍による支援を受けた。
ゲルニカへの攻撃は、1937年4月26日の午後4時30分頃に始まった。ドイツ空軍のコンドル軍団にイタリア軍を加えた大量の爆撃機が飛来し、何時間にもわたる空襲で数十トンもの爆弾を投下。空襲の後、ゲルニカの大部分は焦土と化していた。民間人の死傷者数は特定されておらず、総人口7000人のうち200人以下という説から1000人以上という説まである。
この悲劇が起きる前、ピカソは1937年パリ万博のスペイン館を飾る大規模な壁画をスペイン共和国政府から依頼されており、「画家のアトリエ」をテーマにそれを描くと決めていた。しかし、ゲルニカの破壊が報じられると、ピカソはスペインの詩人フアン・ラレアの勧めで構想を見直し、主題をこの空襲に変更している。
4月下旬から5月上旬頃に制作が開始された《ゲルニカ》は、6月4日に完成。アメリカ人画家のジョン・フェレンがアシスタントを務め、当時ピカソの愛人だったドラ・マールが制作の様子を写真に記録している(マールもこの絵のテーマ変更に重要な役割を果たした)。ピカソは通常、制作中は一切訪問者を受け付けなかったが、この時はその方針を取り払い、共和党支持の機運を醸成するために影響力を持つ人々をスタジオに招き入れていた。
政治性がないと批判された絵が、誰もが知る反戦の象徴へ
ほぼ全てが無彩色で描かれている《ゲルニカ》は、約350 × 780センチメートルの大作だ。馬小屋のような場所で動物や人間が苦しみ悶える中、さまざまな苦しみの表情を浮かべる4人の女性たちが特に目を引く。ちなみに、ピカソはのちに、「女性は苦しむ機械だ」と愛人の1人で彼の伝記を書いたフランソワーズ・ジローに語っている。
絵の右側では燃え上がる炎が女性を飲み込み、左側ではわが子の死を嘆いて泣き叫ぶ母親を亡霊のような雄牛が見下ろす。中央では槍に貫かれて恐怖に駆られた馬が、片手を伸ばし、もう一方の手に折れた剣を握る人物を踏みつけている。それは、おそらく戦いの最中に落馬した騎士なのだろう。まさにモダニズムによる地獄絵図とも言えるこの場面を不気味に照らしているのは、目玉の形をした天井照明だ。
《ゲルニカ》は明らかに寓意的な絵だが、ピカソはその意味について語りたがらなかった。しかし、イエスの誕生(馬小屋)と死(兵士の手のひらの聖痕)への言及は、ゲルニカ爆撃がこの街の人々の集団的な受難であることを示唆している。
この絵は発表直後から論争の的となった。左派の一部からは政治性がないと批判されながらも、1938年から40年にかけてヨーロッパとアメリカを巡回するうちに、《ゲルニカ》の評価は高まっていく。また、この絵がニュースになることも一度ならずあった。
たとえば、1975年にはアーティストのトニー・シャフラジが、この絵にスプレーで大きく「KILL LIES ALL(ウソはやめろ)」と書き込んだ。それはベトナム戦争への反発だとされているが、本当の動機は不明のままだ。スプレーはすぐに除去され、シャフラジは罰せられることなく、その後は著名アートディーラーとして活躍している。また、2003年には、当時の米国務長官コリン・パウエルがアメリカのイラク侵攻を正当化する演説を国連安保理事会で行った際、安保理の議場前に飾られていた《ゲルニカ》の複製タペストリーが覆い隠されたことに抗議の声が上がっている。
第2次世界大戦が勃発すると、ピカソはニューヨーク近代美術館(MoMA)に絵の保管を委ね、スペインに民主主義が戻るまで返還しないようにという条件を付けた。1975年にフランシスコ・フランコが死去したことで返還の条件は整ったが、MoMAはなかなかこの絵を手放そうとしなかった。ようやくその6年後、批評家などの圧力によりMoMAが譲歩。現在《ゲルニカ》は、マドリードのソフィア王妃芸術センターに展示されている。
政治的な作品は《ゲルニカ》以外にも数多いが、ピカソほどモダニズムアートを抑圧的な権力との闘いに役立てたアーティストはいない。権威主義が再び台頭する中、《ゲルニカ》は今も変わらない力強さで私たちに訴えかけてくる。(翻訳:野澤朋代)
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