ヨーゼフ・ボイスの二面性──社会変革を志向した芸術家をめぐる「誤解の系譜」

フェルト帽とフィッシングベストがトレードマークのヨーゼフ・ボイスは、戦後ドイツで最も注目されたアーティストの1人だ。社会問題への積極的な関与で知られるボイスの人物像とその作品が持つ意味を、3月に出版されたばかりの研究書をもとに解説する。

ドイツ・デュッセルドルフのアトリエで1984年に撮影されたヨーゼフ・ボイス。Photo: Getty Images.
ドイツ・デュッセルドルフのアトリエで1984年に撮影されたヨーゼフ・ボイス。Photo: Getty Images.

ヨーゼフ・ボイスは、その作品においても、その人生においても、矛盾に満ちていた。1921年にドイツのクレーフェルトで生まれた彼は、ナチスの青少年組織であるヒトラー・ユーゲントに自らの意思で加わっている。それはドイツの青少年全員がこの組織への加入を義務づけられる数カ月前のことだった。18歳の時にはサーカス団で働き、その2年後にはナチス空軍に志願。後の歴史的評価では「間違った側」とされる軍の兵士として最前線で戦った後、彼は自らを「シャーマン」として打ち出し、傷ついたドイツを癒すヒーラー(癒し手)としてのイメージを作り上げた。

まだ64歳という年齢でこの世を去った彼は、急進的な左派として、あるいは素朴なユートピア主義を掲げるアーティストとして、または緑の党の結党に関わった人物として知られている。ドイツで「記憶の文化」が広がるのを後押しした彼について、美術史家のベンジャミン・ブクローは「ファシズムの歴史と向き合った初めての芸術家」だと評した。ボイスはナチスの一員だったにも関わらず、後に自らを癒し手として位置づけている。そんな彼は「I contain multitudes(私は多様なものを含んでいる)」という言い回し(*1)を極限まで拡張させたと言えるだろう。

*1 「I contain multitudes」は、19世紀アメリカの詩人、ウォルト・ホイットマンの詩集『草の葉』に収録されている「Song of Myself(私自身の歌)」という詩の一節。

ナチスによる大量虐殺に関与していたボイスは、それについて謝罪したこともなければ責任を取ったこともなく、説明したことさえなかった。このテーマをめぐって彼が制作したいくつかの作品の不明瞭さは、見る者を当惑させるほどだ。たとえば、彼が手がけた唯一の公的な戦争記念碑《Memorial for the Dead of the World Wars(世界戦争の犠牲者たちのための記念碑)》(1958-59)は、磔刑像を思わせる形をしている。そのこと自体も問題をはらんでいるが、タイトルもひどく曖昧だ。

このように、ホロコーストに関して明確に語るのを避けていたボイスだが、もう少し明るい話題に関しては実に率直で、ヒッピー風のスローガンを好んだ。中でも最も有名なのが「誰もがアーティストだ」という言葉だろう。天真爛漫とも言えるこのフレーズは、どんなものも芸術作品になり得ること、ひいては社会を再構築できることを意味していた。

後から振り返ってみれば、ボイスのユートピア主義は明らかに失敗に終わっている──少なくとも彼の言葉を字義通り受け取るならば。しかし、美術史家のダニエル・スポールディングは、説得力のある新著『Joseph Beuys and History(ヨーゼフ・ボイスと歴史)』(同テーマに関する英語で書かれた初の研究書)の中で、彼の言動の裏を読んでみることを読者に提案している。

ダニエル・スポールディング著『Joseph Beuys and History』 Photo: Courtesy Princeton University Press
ダニエル・スポールディング著『Joseph Beuys and History』 Photo: Courtesy Princeton University Press

矛盾する要素を内包し、比喩を駆使するボイスの作品

「ボイスが真に耐え難いものとする『問題』」には、正面から向き合う価値があるとスポールディングは考える。ボイスの人生と芸術は、モダニズムの失敗とそこから生まれた葛藤をそのまま映し出しているからだ。「時に愚か者と見なされることもあったが、ボイスは決してそうではなかった」とスポールディングは記している。

ボイスの作品はそのペルソナと同様、相矛盾するいくつもの意味を含んでいる。たとえば、ニューヨーク州のディア・ビーコンが所蔵する《Fond III/3》(1979)は、積み重ねられたフェルトの上に銅板を載せたものだ。この作品を含む「バッテリー」と名付けられた一連の彫刻には、流動と静止が共存している。なぜなら、銅は熱を伝導し、フェルトは断熱効果によって暖かさを生み出すが、同時に電流を遮断するからだ。非常に強い物質性を持つ一方で比喩的な意味に満ちたこの作品は、いかにもボイスらしい特徴を備えていると言える。

彼はまた、脂肪を素材に用いた作品で、傷と癒しのテーマを繰り返し取り上げたが、それはボイスが自己神話化のために語った有名なエピソードに由来する。その逸話によれば、戦時中に乗っていた飛行機がクリミア半島で墜落して負傷したとき、遊牧民のタタール人に助け出され、脂肪とフェルトで体を包まれたおかげで生き延びることができたという。この物語の中でケアの行為は破壊、もっと言えば戦争による破壊から生まれている。彼の命は、おそらくは死んで解体された動物の体から切り取った脂肪によって維持されたのだ。

ヨーゼフ・ボイス《Fond III/3》(1979) Photo: Bill Jacobson Studio/Courtesy Dia Art Foundation/©Joseph Beuys/Artists Rights Society (ARS), New York, and VG Bild-Kunst, Bonn
ヨーゼフ・ボイス《Fond III/3》(1979) Photo: Bill Jacobson Studio/Courtesy Dia Art Foundation/©Joseph Beuys/Artists Rights Society (ARS), New York, and VG Bild-Kunst, Bonn

ボイスが提示する弁証法の中には、さらに不穏なものもある。そこではユートピアとディストピアが交錯し、ドイツの過去(ホロコースト)が、ボイスの構想する「自由民主社会主義」という理想化された未来とぶつかり合う。近代性が生み出した残虐さの最たるものであるホロコーストを、ボイスはアーティストが表現するのは不可能だと考えていたが、同時にそれを試みることが不可欠だとも考えていた。アウシュヴィッツを「イメージ(画像)として表現することは決してできない」と口にしていた彼は、その代わりにイメージに抗う前向きな表現を提示している。

その好例が、1979年にグッゲンハイム美術館で開かれた彼の大規模回顧展だろう。ボイスはこの展覧会について、現代の資本主義のイメージであり、来るべき世界のビジョンであると説明した。しかし、ユートピアだと彼は言うが、少なくとも展覧会の終盤に関してはホロコーストの影を見ずにはいられない。フェルトのスーツの山の後には錆びたレールを並べた《Tram Stop(トラムの停留所)》(1961-76)という作品があり、さらに進むと巨大な脂肪の塊が置かれていて、鉄道の終着点に積まれた死体の山を想起させる。

ここでスポールディングは、自身が「嫌悪感を抱かせるはず」と述べる解釈を提示している。すなわち、ボイスの二重性はホロコーストが資本主義的近代の論理的な延長線上にあることを浮き彫りにしているというのだ。世界を階層的なシステムに組織化しようとする西洋の考え方では、あらゆるものが集積として捉えられ、人間の死体さえもが山と積み上げられる。それが強引な言い逃れのように聞こえる人がいても当然で、このことはおそらくボイスによる最も過激な主張だとスポールディングは述べている。それはまた、単なる比喩ではなく、物理的な事実でもある。1950年代の「経済の奇跡」(第2次世界大戦後に西ドイツが果たした急速な経済成長)は、文字通りジェノサイドの上に築かれたものだった。

1979年から80年にかけてニューヨークのグッゲンハイム美術館で開かれたヨーゼフ・ボイス回顧展の様子。Photo: Mary Donlon/Courtesy Solomon R. Guggenheim Museum, New York
1979年から80年にかけてニューヨークのグッゲンハイム美術館で開かれたヨーゼフ・ボイス回顧展の様子。Photo: Mary Donlon/Courtesy Solomon R. Guggenheim Museum, New York

資本を批判するために資本を模倣する作品を制作

このような二面性がボイスの人物像を掴みにくくしている。さらに、彼がどれほど意図的にこうした二面性を打ち出していたのかも定かではない。ヒーラーとしてのペルソナは、巧妙に練られたコンセプトだったのか、それとも抑圧と自己欺瞞の証だったのか? おそらくその両方だろう。この問いへの答えは見つからないと考えたのか、スポールディングはそこを深追いしていない。その代わりに彼は、その二面性が生み出すものに焦点を当てている。善意に解釈すれば、ボイスの曖昧で逃げ腰な姿勢は、ドイツ、そして自身の過去と真摯に向き合うのを妨げる危険性をはらみながらも、別の効果を発揮していた。

ボイスはジャック・デリダが唱えた「エコノミメーシス」という概念を引用して、資本を批判するために資本を模倣する作品を制作した。スポールディングの著書が軸としているのはこの点だ。資本とはつまるところ、あらゆる社会的関係を媒介する抽象概念だが、ボイスはアートもこれと同じ役割を果たし、より効果的にそれができると考えた。そして、それを作品で証明しようとしたのだ。

アンディ・ウォーホルなど同時代のアーティストたちが資本主義の換喩としての商品やレディメイドに目を向けたのに対し、ボイスはシステムとしての資本主義と、媒介物としての貨幣に焦点を当てた。彼は紙幣に署名をし、「芸術=資本(Kunst = Kapital)」と書きつけてそれを作品にしている。ウォーホルのファクトリーから生まれたポストモダニズムは虚無的だったが、ボイスのポストモダニズムには希望と恐怖が同居し、「相容れず、矛盾する複数の意味」と「完全な無意味」とを明確に区別していた。

《Kunst = CAPITAL》(1979) Photo: Joshua White/Courtesy Broad Art Foundation; ©Joseph Beuys/Artists Rights Society (ARS), New York, and VG Bild-Kunst, Bonn
《Kunst = CAPITAL》(1979) Photo: Joshua White/Courtesy Broad Art Foundation; ©Joseph Beuys/Artists Rights Society (ARS), New York, and VG Bild-Kunst, Bonn

では、なぜ貨幣なのか? ボイスが生きた時代、社会は経済的な介入によって何度も再構築された。ナチスは経済危機を利用してファシズムを推し進め、戦後のドイツは資本主義と共産主義に分断された。その後、新通貨ドイツマルクの導入によって生活が一変し、預金価値が大幅に下落した一方で店には新しい商品が溢れかえった。さらに1970年代初頭、ニクソン大統領が金・ドル本位制に終止符を打ち、貨幣の意味と物質性が再定義された。こうした事象は彫刻制作を思わせないだろうか? ボイスはそう考えた。そして紙幣をアート作品に変えることでその価値を高め、自らの主張を端的に証明してみせたのだ。

資本もアートも物質的なものに意味を与えるが、カール・マルクスによれば資本主義における意味の生成は常に二重化を起こし、あるいは分裂している。物には使用価値だけでなく非物質的な価値もあり、物質的なリアリティが感情的な愛着や象徴的な意味と混ざり合っているというのだ。一方、ボイスが提示する意味も同様に分裂していると、スポールディングは論じる。「バッテリー」や「脂肪」を素材とした作品、そしてグッゲンハイム美術館でのインスタレーションを見れば分かるように。

《作業場の蜂蜜ポンプ》に見るユートピア主義

ボイスは、アートや資本だけでなく、自然をも含む「総体的なシステム」に魅了されていた。「環境問題への関心を自らの実践に欠かせない要素とした最初の芸術家」とボイスを位置づけるスポールディングは、《私はアメリカが好き、アメリカも私が好き》(1974)を小さな生態系だと説明している。この作品では、人間(ボイス)と、アメリカ先住民が神聖な動物とするコヨーテという2つの種がギャラリーに閉じこもって数日間生活を共にした。そして、その閉鎖回路には藁、フェルト、食料、水といった「入力」と、排泄物や象徴性などの「出力」が要素として加えられていた。

スポールディングは新著の大部分を、ボイスの生物学的インスタレーション《作業場の蜂蜜ポンプ》(1977)に割いている。ミツバチに着想を得た理想の社会を提案するこの作品は、ドクメンタ6で発表されたが、それ以来、完全な状態で展示されたことはない。グッゲンハイム美術館の回顧展ではバラバラに解体された構成要素が床の上に並べられていたが、ドクメンタ6ではフリデリツィアヌム美術館の館内をプラスチック管が蛇行し、ポンプの力によってその中を蜂蜜が流れていた。ボイスが管の中を流れる蜂蜜で象徴していたのは、循環することで身体や経済を生き続けさせる物質、つまり血液や貨幣だ。

Photo: Abisag Tüllmann/Courtesy bpk Bildagentur and Art Resource, New York; ©Joseph Beuys/Artists Rights Society (ARS), New York, and VG Bild-Kunst, Bonn
Joseph Beuys in his installation "Grease pump and honey machine" at the documenta "d6" in Kassel, Germany, 1977. Photo: Abisag Tüllmann. Inv. Tü F77.06.02-02A. © MUST BE CLEARED PRIOR TO RELEASE OF THE IMAGE!

この作品を発表する2年前に心臓発作を乗り越えていたボイスは、このポンプを「心臓」であり「中央銀行」だと表現した。かつて普遍的な交換手段として機能していた貨幣は、今では信用や債務など無形のものとして、それを発行する中央銀行を通じて流通している。集団によって集団のために生み出される甘い食料である蜂蜜は、それより優れているのではないかとボイスは示唆しているのだ。

スポールディングは、《作業場の蜂蜜ポンプ》のユートピア主義をピエル・パオロ・パゾリーニのサドマゾ的な反ファシズム映画『ソドムの市』(1975)と対比させながら批判している。生物学的システムを社会システムの比喩として描いたこの映画では、糞尿を口から摂取する行為がシステムの正常な流れを断ち切る。つまり、排泄物を食べる行為によって自動性が自律性に変換され、システムの外へと踏み出す道ができる。一方、《作業場の蜂蜜ポンプ》は閉じた回路の中を循環しているだけだと彼は指摘する。

だが、粘り気のある蜂蜜はシステムを詰まらせる可能性が高いのではないだろうか? 実際に管が詰まったかどうかは、ドクメンタ6の記録写真を見た限りでは不明で、その当時はこのインスタレーションについて言及した批評家もほとんどいなかった。だが、ストローで蜂蜜を吸ってみれば、それが容易ではないことが分かる。ボイスは「蜂蜜が流れている」と主張していたが、冒頭で書いたように、彼の言葉を鵜呑みにはできないかもしれない。何しろ彼は、フェルトと銅を素材にした作品が霊的なエネルギーを伝導する電池だと主張していたのだから。 

アブジェクション(*2)は、それについて論じた思想家の筆頭であるジュリア・クリステヴァによれば、境界やシステム、あるいは規則を乱すあらゆる事象によって発動する。だからこそスポールディングは、デリダを踏まえつつ、それを自由の一形態だと考えている。そしてボイスの世界に、この自由は不可欠なものだ。ホロコーストが人間を体系化しようとするモダニズムの無残な失敗を象徴していたのに対し、芸術は私たちが世界を形作り、自由に行動できることの証だった。

*2 自分と密接な関係にあるものをおぞましいと感じて棄却しながら、同時に惹きつけられる心理を指す精神分析の用語で、クリステヴァをはじめとするポスト構造主義の思想家らが提唱した概念。

誰もが知る通り、粘着性のある物質は整然とまとめたり体系化したりするのが難しい。ちなみに、スポールディングは蜂蜜がミツバチの反芻物であると指摘しているが、彼は蜂蜜がより不気味な性質を持つことを見落としている──それが天然の抗菌力を持つ物質で、死と癒しの両方を含んでいるということを。

無力感と正義感を抱えていたボイスへの共感

さらに、女王蜂についてはどう捉えるべきなのだろうか。スポールディングは女王蜂については触れていないが、ボイスは少なくとも表面的には考慮に入れており、1952年にはすでにその姿を模した蜜蝋のレリーフを作っていた。蜂の巣は働き蜂のユートピアなのか、それとも独裁主義社会なのかと女王蜂の存在は問いかけるが、この二重性は重要だ。ボイスに批判的な人々は、彼の作品ではなく言葉に焦点を当て、そこにナチズムに通じる響きを聞き取る。具体的にはボイスが用いた「社会彫刻」という言葉と、ヒトラーの宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスの「政治家もまた芸術家だ。彼にとって民衆とは、彫刻家にとっての石に過ぎない」という主張との間に不吉な類似性があると指摘する。

しかし、この2つが似ているという主張には少し無理がある。一方(総統が民衆を彫刻する)はファシスト的で、もう一方(民衆が自らを彫刻する)は共同体的だからだ。ミツバチはどちらに当てはまるのだろうか? おそらくどちらでもないだろう。「女王」も「集合意識」も人間を軸とした比喩にすぎない。

そして、蜂をモチーフにしたボイス作品を論じる際にスポールディングが依拠しているのが、まさに比喩なのだ。彼はマルクスやウォーホルらの言葉を多数引用しながら議論を展開している。物よりも言語を優先させるこうした手法は研究者が採用しがちなものだが、スポールディングは、なぜそうしたのだろうか。彼が本書において資本主義社会では比喩と物質の不協和音が生じることについて見事に論じていることや、ボイスの作品とその言葉の比較を試みていることを考えると、意外な選択に思える。

もちろん、実物を見ることができない作品について、彼がそれ以外の方法で論じるのは難しかったに違いない。それでも、《作業場の蜂蜜ポンプ》において、ボイスは一見した以上に巧妙だという彼の論点は検討に値する。スポールディングは、私たちが彼をそのように読み解くべきだと、つまり「彼の比喩を文字通りに受け取るべき」だと説得力を持って論じている。

苦悩に満ちた実存的・政治的問題を解決するための第一歩として、ボイスはそれらを白日の元に晒したというスポールディングの結論は正しい。また、ボイスの死後、この厄介な領域が「掘り下げられるどころか、ほとんど放置されてきた」と嘆いているが、それも正しい。社会実践やリレーショナルアートは、ボイスの遺産をきれいにまとめて無害化したものに過ぎず、彼の犯した失敗や彼が抱えていた複雑さを回避するため、ただひたすら解決策を見つけることに焦点を当てていると彼は記している。

道徳的に問題のある故人の白人男性、ましてや元ナチ支持者を擁護するような美術史本は、今どき流行らないかもしれない。しかし、悲しいことだが『Joseph Beuys and History』は時宜を得たタイミングで出版されたとも感じられる。なぜならこの本は、ボイスを嘲笑していた読者たちに自らを省みるよう迫るからだ。ファシズムが再燃し、気候変動が加速する今、あなたは一体何をしているのかと。

ボイスはもがき苦しんでいた。彼の中にある無力感と正義感のせめぎ合いには、それがどれほど極端で居心地悪く感じられるとしても、共感できるものがある。ただ、ボイスの時代と私たちの時代の対比がより鮮明であれば──本書に1つ注文を出すとしたらその点だ。(翻訳:野澤朋代)

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