メットガラの成功と“浅い”キュレーション──コスチューム・インスティテュート特別展をレビュー

ニューヨークメトロポリタン美術館で、コスチューム・インスティテュートの特別展「Costume Art(コスチューム・アート)」が開催されている(2027年1月10日まで)。その開幕を飾るメットガラの華やかさとともに毎年注目され、人気を集める特別展だが、今年はこれまでにない企画が試みられた。その内容をUS版ARTnewsのシニアエディターがレビューする。

メトロポリタン美術館コスチューム・インスティテュートの展覧会に出展されたイヴ・サンローランとロエベの服飾。中央はフィンセント・ファン・ゴッホの《アイリス》(1889)。Photo: ©Anna-Marie Kellen/Metropolitan Museum of Art

美術史の授業を受けたことのある人なら、2つの作品を並べて、その共通点と相違点を洗い出す演習を経験したことがあるだろう。どのアーティストによるどの作品かを特定し、制作の意図を述べ、異なる時代や文化においてどんな形式的革新が行われたかを説明する。要するに、美術史という学問分野の基本は、ちょっと気取った比較対照のゲームなのだ。

5月10日に開幕したメトロポリタン美術館(MET)コスチューム・インスティテュートの大規模特別展「Costume Art(コスチューム・アート)」は、この伝統を引き継いでいる。例年通り、洗練された展示室に並ぶ希少なファッションの数々を目にしようと、多数の来場者が詰めかけるだろう。

しかし今回は、ファッション作品の横に、METのコレクションから選ばれた美術品が並んでいるのが目新しい。それらは古代ギリシャの彫像からアンディ・ウォーホルのシルクスクリーンまで多岐にわたり、オートクチュールを手がけたチャールズ・ジェームズやホイットニー・ビエンナーレにも参加している気鋭のファッションレーベルCFGNYなど、さまざまなデザイナーのドレスと並置されている。

成功したとは言えない「ファッションとアートの対話」

「コスチューム・アート」展は、METの服飾部門であるコスチューム・インスティテュートの歴史の中でも異例の企画だ。同部門の特別展は過去10年間で爆発的な人気を博すようになったが、その大きな要因は1995年からメットガラの議長を務めるアナ・ウィンター(US版『VOGUE』前編集長)の関与にある。この途方もなく費用のかかる展覧会は、豪華なドレスを贅沢な演出で見せる展示で知られる一方、これまでファッションの文脈で絵画や彫刻といったアート作品を紹介することはなかった。

ちなみに、アマゾン創業者のジェフ・ベゾスと妻のローレン・サンチェス・ベゾスは、「コスチューム・アート」展の主要支援者に名を連ねており、今年のメットガラでは1000万ドル(約15億8000万円)もの巨額寄付をしたと報じられている。しかし昨今、富の過剰な誇示や、移民関税執行局(ICE)による捜査にアマゾンが協力したことをめぐって、ベゾスに対する批判の声が高まっている。

「コスチューム・アート」展に飾られている古代ギリシャ・ローマの彫像。Photo: ©Anna-Marie Kellen/Metropolitan Museum of Art

これまでにない試みである今回の特別展は、METの中央、かつてギフトショップがあったアトリウムに隣接する新しいギャラリースペースで開催されている。ゆるやかなテーマとして「衣服をまとう身体」を中心に据えた展覧会が目指すのは、「ファッションがアートの意味に関する理解を広げられる」のを示唆することだとキュレーターのアンドリュー・ボルトンは5月4日のプレス内覧会で述べた。しかし問題は、まさにその点にある。この展覧会は、アート作品から意味を十分引き出せていないのだ。

ボルトンとキュレーションチームは、ありとあらゆる種類の衣服を、数多くのアート作品と並べて展示することで地理的・時間的な境界を超えた美術的対話を試みている。たとえば、1997年のジャンポール・ゴルチエのシャツと1971年のジョー・ブレイナードのドローイングの組み合わせのように、対話が具体的ならそこに共鳴が生まれるのは確かだ。

ゴルチエのシャツにも、ブレイナードのドローイングにも、男性の胸元に大きなハート型のタトゥーがあり、両者はエイズ危機という共通項で結びついている(ゴルチエの作品には「SAFE SEX FOR EVER」という文字が添えられている)。ブレイナードはこの病気の合併症で亡くなり、ゴルチエのデザインはエイズへの意識を高めることを意図していた。それを踏まえたこの展示は、ブレイナードとゴルチエをクィア・アーティストの系譜に力強く位置づけている。

「コスチューム・アート」展の「アブストラクトボディ」と題されたセクション。Photo: ©Anna-Marie Kellen/Metropolitan Museum of Art

しかし、ほとんどの組み合わせは曖昧で雑だと言わざるを得ない。ゴルチエのシャツに近いところには、両脇が引き裂かれたようなデザインのオットリンガーのドレスがあり、今年のヴェネチア・ビエンナーレブラジル代表を務めるアドリアナ・ヴァレジャオの作品と組み合わされている。ヴァレジャオの絵は、ポルトガルの装飾タイル、アズレージョが引き裂かれて血まみれの肉が露わになっているように見え、作家自身はこれを母国の植民地主義的暴力のメタファーだと説明している。

展示の解説文にはその点が記されているものの、キュレーターたちは絵画とドレスを並べることで、彼らの言う「トラウマの服飾的表現」に重点を置いたようだ。しかし、オットリンガーがドイツを拠点としていることを考えると、その見方は説得力に欠ける。ドイツは、また別の種類のトラウマを抱える国なのだから。

安易な組み合わせに欠けている文脈への真摯な向き合い方

「コスチューム・アート」展におけるアート作品は、分析の対象というより視覚を楽しませる小道具として扱われている。ウィレム・デ・クーニングのリトグラフと並ぶのはナディア・ピンクニーのコートだが、白と黒の飛沫が共通する以外、特に理由はないように思える。ナフム・B・ゼニルの、血を流す心臓の中に自分の顔を描いたセルフポートレートは、解説文によればプリーツが「脈動のよう」と形容されるヨージ・ヤマモトの深紅のドレスと隣り合って展示されている。

障がいをテーマにしたセクションでは、リーバイスとルー・デロのデニムを身にまとった車椅子のマネキンが置かれ(展覧会の全てのマネキンには顔がなく、ピエール・ユイグの最近のビデオ作品に登場する不気味な主人公を思わせる)、その上には車椅子のアーティスト、ノーラン・トロウが撮影したエレベーターの写真がある。ルー・デロのジーンズは車椅子ユーザー向けにデザインされたものではあるが、トロウの写真との間に明確な関連性はない。

障がいに関するセクションに展示されたパブロ・ピカソの《盲人の食事》(1903)。Photo: ©Anna-Marie Kellen/Metropolitan Museum of Art

ファッションとアートのつながりが明確な場合もあるが、その比較が実りあると思えるものはほとんどない。たとえば、2001年の映画『ムーラン・ルージュ』のプレミアでニコール・キッドマンが着用した黒いゴルチエのドレスは、アダム・マキュアンが(今年のメットガラの共同司会者でもある)キッドマンの架空の死亡記事を題材に制作した2004年の絵画と並べて展示されている。その中でキッドマンは同じゴルチエのドレスを着ているが、マキュアンの絵はあってもなくても同じだと思えた。なぜなら、ドレス自体を鑑賞する体験をより豊かなものにする要素がほとんどないからだ。

「コスチューム・アート」展について、こんなにヒートアップして論じるのは無意味だと思われるかもしれない。METの他の部門は、定期的に質の高い展覧会を開催し続けている。現在開催中のラファエロ展を見れば、それは明らかだ。また、大勢の見学者を集めるコスチューム・インスティテュートの展覧会は、METの来館者数がコロナ禍前のレベルまで回復していない現状を考えると貴重な資産でもある。

しかし、コスチューム・インスティテュートの過去の展覧会のほとんどが美術史を扱ってこなかったのに対し、今回の展覧会はファッションを通してアートの物語を伝えようとしている。そうである以上、より高い水準が求められる。

イッセイ・ミヤケ、ジバンシィ、イヴ・サンローランの衣装と、古代イタリア・エトルリアの胸当て(左下)。Photo: ©Anna-Marie Kellen/Metropolitan Museum of Art

この展覧会は少なくとも、特定の文脈の中にアート作品を適切に位置づける役割を果たさなければいけない。しかし、チュニジア出身のデザイナーによるブランド、アライアが昨年発表したドレスと、ガーナのアシャンティ族に伝わるよるアクアバ(円形の顔を持つ木像)の安易な組み合わせを見ると、それをキュレーターたちに求めるのは無理があるのかもしれないと思える。

円形の顔を持つこの木彫を展示したのは、これに似た豊穣を象徴する像から着想を得たとキュレーターたちが考えるドレスの曲線美を際立たせるためだという。実は、このドレスの別のバージョンが発表されたショーでは、マーク・マンダースの彫刻作品がランウェイに置かれていたが、今回の展覧会にその彫刻は見当たらない。

しかも、アクアバ像が子宝・安産の祈願や、亡くなった子どもを偲ぶよすがとして使われたことが、展示の解説文に記載されていない(METのウェブサイトには説明がある)。そうした文脈と真摯に向き合っていないのは、非西洋の美術品を単なる「眺める対象」へと矮小化した過去の展覧会の過ちを繰り返す危険につながるのではないか。

展覧会の冒頭に掲示された解説で、キュレーターたちはファッションを「時代や場所を超えて作品を結びつける糸」と表現している。それなのに、展示されている絵画や彫刻、写真、素描に対して、必要な文脈が十分に与えられていないのは不可解だ。もし私が美術史の教授なら、この展覧会に及第点は付けられない。(翻訳:清水玲奈)

from ARTnews

あわせて読みたい