世界で最も有名な「黒猫」の作者とは? 権力への抵抗と自由への渇望を猫に重ねた画家【2月22日猫の日】

アール・ヌーヴォーの円環を背負った、誇らしげな表情の「黒猫」──このポスターを目にしたことはあっても、作者を知る人は多くないかもしれない。2月22日の猫の日にちなみ、作者がなぜこの絵を描いたのか、時代背景とともに掘り下げてみよう。

スタンラン《Tournée du Chat Noir de Rodolphe Salis》(1896)ラトガース大学ジマーリ美術館蔵。Photo: Wikimedia Commons

労働者の現状をありのままに描いて伝える

ベル・エポック期のパリで活躍した画家・版画家のテオフィル=アレクサンドル・スタンラン(1859-1923)は、スイスのローザンヌで生まれた。彼は1881年に21歳でパリに移り住むのだが、当時フランスでは「報道の自由に関する法律」が成立し、検閲が解除されたことから、政治に焦点を当てた芸術的・文学的なエフェメラ(冊子的な読み物)の制作が盛んになっていた。社会主義者であり、労働者階級の権利を熱心に主張していたスタンランは、亡命者や芸術家、労働者階級が多く住んだモンマルトルに居を構え、すぐにフランスの左翼コミュニティと関わりを持った。そして芸術批評の定期刊行物「ジル・ブラス」、左翼風刺誌「ル・リール」、マルクス主義定期刊行物「ル・シャンバル・ソシアリスティ」、無政府主義紙「ラ・フィーユ」などの出版物に、しばしば無償で挿絵などを寄せた。

テオフィル=アレクサンドル・スタンラン《14 juillet》パリ市美術館蔵 Photo: Wikimedia Commons

自身の作品を「抑圧に対する抵抗の道具」とみなし、挿絵や版画制作を通して、労働者階級の状況をできるだけ直接的に伝えることを目指したスタンランの芸術は、出版物を通して広まり、労働者階級の人々に力を与えるものとなっていった。

その後、1890年代にリトグラフのポスターで知られるようになったスタンランは、しばしばモンマルトルにあった文芸キャバレー「ル・シャ・ノワール(黒猫)」に足を運んでいた。ル・シャ・ノワールは、仕事を終えた労働者が集って歌い、詩を吟じ、社会や政治に関する知識を共有して議論する場「ゴゲット」の役割も果たしていた。スタンランは、ル・シャ・ノワールのコンサートのために、あの有名な「黒猫」をはじめ、多くのポスターを描いたのだ。

ル・シャ・ノワールでスタンランは、資本主義への痛烈な批評を盛り込みながら貧困層や労働階級を題材に歌うシャンソン・レアリストのアリスティド・ブルアンと出会い、意気投合する。以後、彼の作品にはブルアンが頻繁に登場するようになるが、黒い帽子にマント、赤いスカーフがトレードマークのブルアンは、ロートレックのポスターのモデルになったことでもよく知られている。

《L'hiver: Chat sur un coussin》(1909)ニューヨーク、エリシャ・ウィッテルジー・コレクションPhoto: Wikimedia Commons

自由の象徴としての「猫」

さて、スタンランにとって猫は非常に重要な主題だった。大の猫好きだった彼は、モンマルトルの何十匹にもなる地域猫に餌をやっていたし、猫を描いた膨大な数のドローイングや版画を制作している。娘のコレットをモデルにした《Lait pur Sterilisé》(1894)など彼の手掛けた広告ポスターにも、度々猫が登場する。

《Apothéose des chats》(1905) Photo: Wikimedia Commons

当時、猫はとりわけボヘミアン女性の象徴とされていた。そして、多くのパリの猫たちがブルジョワジーの飼い猫という立場から解放されて、モンマルトルで自由に暮らしているという事実は、近代的なボヘミア、つまり当時のブルジョワ的な社会規範の拒否のメタファーとして受け止められていた。スタンランは、1905年に描いた寓意画《Apothéose des chats》を通して、モンマルトルにおける猫の文化的存在を、おそらく最も主張的かつユーモラスに表現した。彼はこのような作品を用いて、パリの資本主義経済と距離を置いたボヘミアン・ライフの可能性を追求した。

《Théophile Alexandre. Matinée Extraordinaire, Casino de Paris》(1915)Photo: Wikimedia Commons

戦争に翻弄された民衆の姿を描く

労働者階級や社会から疎外された人々に対するスタンランの関心は、彼のキャリア全体を通して貫かれていた。しかし、第1次世界大戦の勃発は、ジャン=ルイ・フォランやオーギュスト・ロダンといった同時代の芸術家たちと同様に、スタンランの主題を大きく変化させた。彼は戦争の日常的な光景や人間に与える影響を伝えることに関心を抱くようになった。描く対象は、女性、子ども、貧しい人々など多くの点で変わっていないが、休息中の兵士や避難民、孤児、戦死者などへと広がっていった。彼は戦闘シーンや政治指導者的な語りは避け、戦争が引き起こした多種多様な惨状に目を向けた。

《La gloire》(1915)Photo: Wikimedia Commons

L'exode》(1915)では、ドイツ軍の攻撃後、1914年から1915年にかけて20万人近くの難民がベルギーから脱出した様子を描いた。子どもを連れた母親の目は力強さと落胆をもって遠い未知の世界を見つめ、子どもの表情は曖昧で自信なさげだ。その様子は、現代の避難民の姿と酷似している。

スタンランはまた、作品を通して戦争の悲劇的な矛盾を明らかにすることに力を注いだ。よく知られた戦争版画のひとつ《La gloire》(1915)は、戦死した兵士の棺の前で死を悼む黒服の4人の女性(母親、妻、2人の姉妹)が描かれている。棺に勝利、平和、永遠の生命の象徴である棕櫚の枝が飾られていることで、兵士の死という事実がより際立つ。第1次世界大戦中のカラー版画の珍しい例であるこの作品は、戦争の「栄光」に必然的に伴う損失と荒廃を指し示している。

《Mobilization, or La Marseillaise》(1915)Photo: Wikimedia Commons

ドイツがフランスに宣戦布告する前日の1914年8月2日にフランス陸海軍が動員される様子を描いた、名作のエッチング《Mobilization, or La Marseillaise》(1915)は、勢いのある線で描かれた人々や、沿道にはためく多数のフランス国旗がその高揚感を伝えている。これはスタンランが現場に居合わせ、スケッチしたおかげであろう。フランス共和国のシンボルであるマリアンヌが、上空から指揮を執っている。作品名にある「ラ・マルセイエーズ」は、フランス革命時の自由への民衆蜂起を記念したフランス国歌だ。このことを念頭に置くと、スタンランがこのイメージに取り組んだ意味がより明確になる。おそらく彼は、ナショナリズムというよりむしろ連帯を示唆したのだろう。興味深いことに、スタンランは戦前、飢えた人々と共に自由を象徴する人物を描いた作品を制作し、「(自由は)悲惨な状況下での群衆の連帯の象徴である」と説明している。

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