訃報:2026年ヴェネチア・ビエンナーレの芸術監督コヨ・クオが急逝。同芸術祭初の黒人女性ディレクター

2026年に開催される第61回ヴェネチア・ビエンナーレの芸術監督に昨年12月に就任したばかりのコヨ・クオが5月10日に死去した。57歳だった。

コヨ・クオ。Photo: Dave Southwood for ARTnews

2024年12月に第61回ヴェネチア・ビエンナーレの芸術監督に就任したコヨ・クオが5月10日にスイス・バーゼルの病院で死去したと同ビエンナーレが発表した。

ニューヨーク・タイムズが10日に報じたところによると、夫のフィリップ・モールは、最近クオが癌の診断を受け、治療中だったことを明かしている。

同ビエンナーレにおいてアフリカ出身としては2人目、初の黒人女性ディレクターとして期待が集まっていたクオの死は、第61回ビエンナーレのタイトルとテーマの発表数日前に明らかになった。この突然の訃報に同ビエンナーレは、「情熱、知性と厳しさ、そしてビジョンを持った人物でした。現代アートの世界に計り知れない空白を残すでしょう」と惜しんだ。

クオは1967年にカメルーンのドゥアラに生まれ、13歳でスイス・チューリッヒに移り住んだ。その後10年以上スイスで銀行業と経営学を、またフランスで文化管理を学んだが、彼女がカメルーンのルーツを忘れることはなかった。裁縫師だった祖母からは「創造性へのアクセス」を与えられ、10代の時に一夫多妻制の結婚を強いられた曾祖母は、自分の手と知性で4人の子どもを育てた。彼女は2019年、US版ARTnewsに対し、「これが私の家系です。 これが私のフェミニズムの本質です」と語っている。

20代半ばで息子の出産と離婚を経験したことがクオの転機となった。1995年、彼女は「新しいフロンティアとスペースを探求するため」セネガルのダカールに移り住み、数年間インディペンデント・キュレーターとして働いた後、2008年にアートスペース「RAW Material Company」を立ち上げた。

RAW Material Companyはほぼ女性スタッフで運営されており、セネガルの国営アートスペースに欠けている要素を補う形で、アーティスト・レジデンス、展示スペース、アカデミーなどの様々な取り組みを展開していた。現在セネガル国内では極めて重要なスペースとなっており、ほかの地域のアートスペースの手本にもされている。RAW Material Companyはクオが死去した当日、「彼女は真の力であり、温かさ、寛大さ、知性の源でした。 そして今日、私たちは彼女の不在を深く感じています」と声明を発表した。

「アフリカの人々のためのアフリカ美術の展覧会をつくること」を使命に、アフリカ美術に対する一般的なナラティブがどのように定義されてきたか、そして誰がそれを定義してきたかに鋭く注目していたクオのキャリアを語る上でもうひとつ重要なのは、アフリカ大陸で最大規模を誇る現代美術館、ツァイツ・アフリカ現代美術館でのエグゼクティブ・ディレクター兼主任キュレーターとしての仕事だ。2019年、不祥事により前ディレクターが辞任し、揺れる同館の改革を一手に引き受けたクオは、現在における芸術トレンドを定義づける展覧会の1つ、「When We See Us: A Century of Black Figuration in Painting」などのキュレーションを担当。また、トレイシー・ローズやオトボン・ンカンガ、アブドゥラティ・コテナなどのアーティストの個展も企画し、「美術館を生き返らせた」とまで言わしめた。

クオの第61回ヴェネチア・ビエンナーレの芸術監督就任はアート界からも歓迎された。 ニューヨークのホイットニー美術館のシニア・キュレーター兼キュラトリアル・プログラムのアソシエイト・ディレクターであるアドリアン・エドワーズは、就任について報じたニューヨーク・タイムズの記事の中で、「クオが持つ場所、自分自身、アーティストに根ざしたユニークな能力は、彼女の展覧会作りを深く具体的なものにしていました。彼女は驚くほどふさわしい人物でした」と語った。

コヨ・クオを失った第61回ヴェネチア・ビエンナーレの今後の予定は、現時点では明らかになっていない。(翻訳:編集部)

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