「偉大な女性芸術家」たち──ネッリ、ジェンティレスキら、再評価が進む12人の作品を一挙紹介
近年、アート界ではこれまで見過ごされてきた女性作家を再評価する動きが活発化している。しかし、現代アーティストと比べ、まだ十分に掘り起こされていないのが、18世紀以前に活動した女性のオールドマスター作家たちだ。そこから12人を厳選し、そのキャリアと代表的な作品を紹介する。

1971年に美術史家のリンダ・ノックリンは、US版ARTnewsの記事で「なぜ偉大な女性芸術家はいなかったのか」と問いかけた。それから数年後、彼女と同僚の美術史家、アン・サザーランド・ハリスは、画期的な展覧会で1つの答えを導き出した。2人の共同キュレーションによる「Women Artists, 1550–1950(女性作家たち、1550-1950)」は、1976年のロサンゼルス・カウンティ美術館を皮切りに、オースティン、ピッツバーグ、ブルックリンを巡回。38人のアーティストによる150作品で大成功を収めたこの企画展のインパクトは、今日に至るまで続いている。
ノックリンとハリスは、女性作家の誰が偉大であったのかを評するためではなく、歴史の中で常に芸術家として活動する女性がいたという事実を示し、彼女らが創造したアートの一部を展示した。この企画展が意味ある議論の出発点になることを願った2人は、展覧会の開催に合わせて出版された学術的図録にこう記している。
「私たちは、今回の展覧会がこのテーマに関する最終的な結論だとは思っていません。むしろ、展覧会をきっかけに生まれるであろう多くの論文や各アーティストに関する書籍、そして展覧会自体への批判的な意見を読めることを期待しています。将来の展開が楽しみです」
彼女たちが期待した「将来の展開」は、断続的ではあるが確実に進展してきた。この10年間だけでも、美術館の収蔵庫、公文書館、個人コレクション、本の脚注などに追いやられ、埃をかぶって埋もれていたオールドマスターの女性作家たちが掘り起こされている。そして、これらの発見は展覧会や作品集という形で共有され、幅広い人々が、アーティストをより詳しく知り、作品をもっと見たいと考えるようになった。
近年のこうした流れの中、脚光を浴びるようになった女性作家12人を紹介しよう。
プラウティッラ・ネッリ(1524-1588)

16世紀の画家で美術史家でもあったジョルジョ・ヴァザーリが、1550年に刊行した芸術家・建築家の伝記『芸術家列伝』に女性はほとんど登場しない。その数少ない女性の中で、第2版に収録されているのがルネサンス期の画家プラウティッラ・ネッリだ。ヴァザーリは、「もし彼女が男性と同じように学びの機会を得て、生き物や自然を描いたり表現したりすることに専念していたら、偉大な仕事を成し遂げただろう。彼女には、芸術家たちを驚嘆させるほどの熱心さで制作した作品がある」と書いている。
ネッリは、歴史を題材とする絵画を描いた最初期の女性作家の1人で、当時の女性がかろうじてキャリアの選択肢にできた修道女になることで、その道を歩み始めた。10代でフィレンツェのサンタ・カテリーナ修道院に入ったのは、ここが修道女たちの芸術的な才能を伸ばすことを奨励していたからかもしれない(のちに彼女は同修道院の院長になっている)。宗教画や写本を制作したネッリの絵画は、現在約20点が残されており、その一部はサン・マルコ美術館、ウフィツィ美術館素描版画室、ヴェッキオ宮殿などフィレンツェの主要な美術館に収蔵されている。
ネッリの最高傑作は、高さ約5メートル、幅約7メートルの《最後の晩餐》(1568年頃)で、難しいテーマであるこの場面を女性が描いた最初の作品として知られている。アドバンシング・ウィメン・アーティスト財団の支援によって大幅な修復が行われたのち、2019年にフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ教会に設置されたこの絵の左上隅にはネッリのサインがある。そこに書かれているのは「Suor Plautilla, orate pro pictora (シスター・プラウティラ、画家に祈りを)」という文章だ。このほか、2017年にはウフィツィ美術館でネッリ展が開かれている。
ラヴィニア・フォンターナ(1552-1614)

1577年、ボローニャ出身のラヴィニア・フォンターナが貧しい貴族の男性と結婚したときに交わした契約は一風変わったものだった。それは、フォンターナは持参金を用意しない代わりに夫を経済的に支え、そのために実家に住み、家業の工房で絵を描き続けるというものだった。この賢明な取引で得た暮らしのおかげで、フォンターナは(修道院や宮廷以外で)画家を職業としたヨーロッパ初の女性となった。
フォンターナは権威ある祭壇画23点の依頼を受け、多額の報酬を手にしたが、現在では主にボローニャの貴族の子どもや貴婦人の肖像画で知られている。ボローニャの女性たちは、数多くの肖像画家のなかで、フォンターナに絵を描いてもらうことを望んだ。美術史家のカルロ・チェーザレ・マルヴァジアはフォンターナの伝記にこう書いている。
「社交界の婦人たちは皆、彼女と親しい仲になりたいと熱望した。多大な親しみと敬意を持って接し、街中で出会ったり、あるいは才能ある彼女との会合を持てたりすることをこの上ない幸運と感じた。その最大の望みは、自分の肖像画を描いてもらうことだった」
2019年から20年にかけ、マドリードのプラド美術館で、フォンターナとやはり女性オールドマスターのソフォニスバ・アングイッソラによる2人展が開催された。また2025年初めには、フランス北部ドゥエのシャルトルーズ美術館で長年倉庫に眠っていた絵画《紳士と娘と召使いの肖像》が、フォンターナのものと認められている。この絵はそれまで、フランドルの画家ピーテル・プルビュスの作品だと考えられていた。
クララ・ペーテルス(1587-1636頃)

クララ・ペーテルスの作品は、意図的に探さなければ見落としてしまいがちだ。その絵は一見、中国磁器や菓子、コインなどのエキゾチックな贅沢品がテーブルに溢れる、典型的な北欧の静物画のように見える。しかし、ゴブレットやキャンドルホルダー、(この記事の冒頭の絵に描かれた)ビールジョッキの蓋などの磨かれた表面をよく見ると、小さな自画像がいくつも描き込まれているのが分かる。その中には、筆を数回動かしただけで自分の存在を示唆するものもあれば、(上の絵の右端のゴブレットに繰り返し描かれているように)パレットを手にした姿のものもある。彼女は人目につかないよう振る舞いながらも、画家として見出されたいと望んでいたのだろう。
ペーテルスが残した痕跡は非常に少なく、資料もほとんど残されていないため、詳しい人物像は不明だが、アントワープで活躍した芸術家一家の一員であったことは知られている。夫、父、祖父、兄、甥がみな画家だったことで、彼女にも職業画家として働く道が開かれたと思われる。
署名が入った絵画作品は39点あり、その他の作品は失われたと推測されている。マドリードのプラド美術館は、最も多い4点を所蔵しており、2016年から17年にかけてペーテルスの回顧展を開催。これはプラド美術館初の女性画家の個展だった。なお、この展覧会は、アントワープ王立美術館で最初に開催されたのち、マドリードに巡回している。
アルテミジア・ジェンティレスキ(1593-1653)

バロック期のイタリア人画家、アルテミジア・ジェンティレスキは、長きにわたるキャリアの初期から、男性が描くのとは異なる視点で女性の物語を描き続けた作家だ。たとえば、旧約聖書の物語を取り上げた初期の作品《スザンナと長老たち》(1610)では、男性画家が描きがちな長老たちの好色さではなく、スザンナの弱さと恐怖心に焦点を当てている。一方でジェンティレスキは、聖書や神話をテーマとした作品で力強いヒロインを描いた。彼女は、(たとえ絵画の中心人物であっても)平板に描かれることの多かった女性像に、主体性と複雑さをもたらしたのだ。
ジェンティレスキに関する初期の研究の多くも、悲しいことに、その輝かしいキャリアを平板化するものであり、もっぱらジェンティレスキが師事した画家アゴスティーノ・タッシに受けた性的暴行に焦点を当てたものだった。なお、この事件での裁判ではジェンティレスキに有利な判決が下され、タッシは懲役5年を言い渡されたものの、服役することはなかった。
近年、そうした見方は改められ、17世紀のスーパースターだったジェンティレスキについて、より多くのことが知られるようになっている。メディチ家やイングランド国王チャールズ1世などのパトロンたちから作品制作を依頼されただけではなく、フィレンツェの芸術アカデミー、アカデミア・デッレ・アルティ・デル・ディゼーニョに女性として初めて入会し、男性の許可なく画材を購入したり、単独で旅行をしたり、契約を結んだりすることを許された。また、暴行事件後に結婚した夫と別れ、ナポリとロンドンで自立した生活を送りながら、やはり画家となった娘を養っていたことも分かっている。
ジェンティレスキの作品は、これまで数多くのグループ展で取り上げられてきた。また、2002年にはニューヨークのメトロポリタン美術館で、父親の画家オラツィオ・ジェンティレスキとの2人展が開催され、その後、個展も数回開かれている。2025年春には、パリのジャックマール=アンドレ美術館で彼女の絵画40点を集めた展覧会が開催されたほか、6月からロサンゼルスのJ・ポール・ゲティ美術館で、これまで知られていなかった《ヘラクレスとオンファレ》が展示されている。この作品は2020年にベイルートで起きた大爆発で被害を受けたのち、同美術館で修復が行われていた。
ジョヴァンナ・ガルゾーニ(1600-1670)

1620年頃、職を求めてフィレンツェのマリア・マグダレーナ大公妃の宮廷を訪れたジョヴァンナ・ガルゾーニは、芸術家として多彩な才能に恵まれていた。歌唱や楽器の演奏、カリグラフィー、細密画の技能を持っていた彼女は、やがて細密画家の道に進むことになった。
初期は肖像画を中心に、顕微鏡で見ないと分からないような細密画を描いていたが、経済的に余裕が出てくると、自分が本当に好きだった植物の静物画に集中し、40代以降はほぼ静物画に専念している。当時、静物画はさほど高く評価されていなかったが(そのため女性向きのジャンルとされていた)、ガルゾーニはそれで名声を得ようとは思っていなかったようだ。メディチ家の庭園から特別に贈られた新鮮な果物や、メキシコ、インド、日本原産のエキゾチックな花々が描かれた絵の数々を見れば、彼女が植物を描くのを心から愛していたことが分かる。
ガルゾーニはイタリアのほかにも、イングランドやフランス各地のパトロンから制作の依頼を受けていたが、作品の大半は今もメディチ家のコレクションに所蔵されている。2020年にはその所蔵品を含めた展覧会がフィレンツェのピッティ宮殿で開催され、静物画や肖像画のみならず、テキスタイルやカリグラフィーを含む幅広い作品が展示された。
ミカエリナ・ワウティエ(1604-1689)

ブリュッセルを活動の拠点としていたミカエリナ・ワウティエが歴史画に取り組んだのは、その時代の多くの女性画家が静物画や肖像画を描いていたことを考えると異例だと言える。ワウティエは肖像画や風俗画、宗教画も描いているが、やはり特筆すべきは、オーストリア貴族のレオポルト・ヴィルヘルム大公が所蔵していた270×354センチの神話画《バッカスの勝利》(1656年頃)だろう。17世紀にこれほどの大型作品を手がけた女性作家はほとんどいなかったが、彼女にはこの大作を制作するのに必要な自信と技巧があった。それを物語るように、絵の右端に描かれたバッカスの信者姿の自画像は、誇らしげな表情で鑑賞者を見据えている。なお、ヴィルヘルム大公のコレクションには、この絵のほかにもワウティエの作品が3点ある。
ワウティエの作品は少なくとも32点が知られている。生前は画家として名声を誇ったが、死後は忘れられ、多くの作品が男性画家のものだと見られてきた。しかし、この数十年でワウティエの研究が進み、今年9月にはウィーン美術史美術館で大規模な個展が開かれることになった。この展覧会は、2026年にロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツに巡回する。
ユディト・レイステル(1609-1660)

19世紀後半、フランス・ハルスの作品とされる絵に記されたモノグラム(組み合わせ文字)に関する研究で、「J」と「L」の文字に流れ星を描き加えたサインがハルスのものとしては意味をなさないとの結論が出た。これが、オランダ黄金時代の画家ユディト・レイステル(姓は「主要な星」の意)の再発見につながり、30点余りの賑やかな風俗画、肖像画、静物画がレイステルの作品として認められた。
レイステルのおおらかな筆遣いは、ハルスのような同時代の画家たちと共通している。一方で、「虫の目線」と呼ばれる下から見上げたような構図や、ランプによるドラマチックな照明などの特徴があり、特に後者はオランダ美術への重要な貢献だとされている。彼女の描く人物には、たばこを吸い、ゲームに興じ、酒を飲んだり、音楽を奏でたり、ただ陽気に過ごす者もいれば、美徳と悪徳についての寓意を表す場合もある。
2022年、ニューハンプシャー州マンチェスターにあるカリアー美術館は、レイステルの《ブドウと帽子を持つ少年》を取得。現在は同館のヨーロッパ絵画展示室の1つに展示されている。帽子を入れ物代わりにしてブドウを持ち、いたずらっぽく微笑む少年が描かれたこの絵は、ロサンゼルス・カウンティ美術館(LACMA)や、アメリカで1940年代から60年代に活躍した俳優のレッド・スケルトンが所有していたこともある。
ルイーズ・モワヨン(1610-1696)

ルイーズ・モワヨンは、パリのサン・ジェルマン・デ・プレで知り合った南オランダ出身の画家たちを通じてオランダ絵画に触れていたが、彼女の描く静物画はオランダのそれとは対照的に地味なものだった。モワヨンが丹念に描いた農作物は、珍しさや富の大げさな表現とは異なり、大地の恵みに畏敬の念を抱く彼女の謙虚さを表している。
モワヨンは芸術家の家庭に生まれ育った。画家だった父ニコラはモワヨンが幼い頃に亡くなったが、母マリーが静物画家として成功を収めていたフランソワ・ガルニエと再婚。このガルニエがモワヨンに美術教育をしたと考えられている。ガルニエとマリーが結婚した際に交わされた契約書では、モワヨンとガルニエが絵の売上金を分け合うことが定められていたことから、10歳という若さですでに画家としての才能を発揮していたことがうかがえる。
また、1630年のマリーの遺品目録には、モワヨンが20歳になるまでに自分の作品として発表した静物画が14点ほど記載されている。署名入りの絵のほとんどは1629年から1637年(結婚する以前)のもので、イングランド国王チャールズ1世は、1639年までに果物を主題としたモワヨンの静物画5点を所有していた。
2024年、モワヨンに関する初の英語による学術書が、ゲティ・パブリケーションズとランド・ハンフリーズとの共同で出版された。
ラッヘル・ライス(1664-1750)

ラッヘル・ライスの静物画は写実的に見えるが、実はそうではない。異なる季節に咲く花々(生花や植物学者の父親が保存した標本)を組み合わせ、現実にはあり得ない花束として描いている。それが可能だったのは、父親が教鞭を取っていたアムステルダムの植物園ホルトゥス・ボタニクスで遠方から持ち込まれた珍しい植物を見る機会に恵まれ、珍しい植物標本に囲まれて育ったからだ。ライスが残した約250点の緻密な作品には、こうした花々が咲き乱れる様子が、現実には同じ環境に生息することのないトカゲや昆虫とともに描かれている。
ライスは17世紀初頭のオランダで最も有名な画家の1人で、デュッセルドルフのヨハン・ヴィルヘルム2世やフィレンツェのメディチ家など、ヨーロッパ中のパトロンがその作品をこぞって求めるほどだった。その生前には、レンブラントが存命中に稼いだ額より高い価格で売れた作品もあったが、死後、ライスの名声は薄れていった。
ライス初の大規模展「Rachel Ruysch: Nature into Art(ラッヘル・ライス:アートの中の自然)」は、ミュンヘンのアルテ・ピナコテークからアメリカ・オハイオ州のトレド美術館へと巡回。8月末からはボストン美術館で開催される。
ロザルバ・カッリエーラ(1673-1757)

パステルの女王と呼ばれ、ベネチアを訪れる上流階級の人々に人気だったのがロザルバ・カッリエーラだ。現在はペギー・グッゲンハイム・コレクションが展示されているヴェニエ・デイ・レオーニ宮殿に隣接する大運河沿いの家で、顧客たちは本国に持ち帰りやすいカッリエーラの優美なミニアチュール画やパステルの肖像画を手に入れていた。
こうした訪問者が絶えることはなく、彼女の名声はイタリア、フランス、イギリスからドイツへと広まっていった。中でも最大のコレクターだったザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世は150点を超えるカッリエーラのパステル画を収集し、ドレスデンの宮殿に「ロザルバの部屋」という名のギャラリーを設けている。
カッリエーラの宝石のように美しいミニアチュール画には、象牙に描かれたものや、嗅ぎたばこ入れの蓋にはめ込んだ作品もある。後年に手がけたパステル画では自らが調合したパステルスティックを用いていた。また、当時としては珍しく取引を男性に任せずに自身で工房を運営し、2人の妹、ジョヴァンナとアンジェラを含む女性の弟子たちがカッリエーラを助けていた。
彼女の作品は近年、複数の美術館のグループ展で展示されている。2023年には生誕350周年を記念して、ドレスデンのアルテ・マイスター絵画館(カッリエーラ作品の最大のコレクションを所蔵)で、パステル画73点を集めた個展が開催された。
アデライド・ラビーユ=ギアール(1749-1803)

アデライド・ラビーユ=ギアールの姿が最もよく分かるのは、1785年のパリ・サロンに出品された《2人の弟子と一緒の自画像》だ。この絵で、シミひとつない絹のドレスを着たラビーユ=ギアールは、イーゼルの前に座り、弟子のマリー・ガブリエル・カペとマルグリット・カロ・ド・ローズモンに指導を行っている。王立アカデミーに入った1783年までに、ラビーユ=ギアールには9人の女性の弟子がいたが、この絵もさらに多くの女性が美術を学ぶ機会を得るべきだと訴えるために描かれている(王立アカデミーはその少し前から、女性の入学を4人に制限するようになっていた)。
フランス革命へと向かう時期に活躍したラビーユ=ギアールは、社会の混乱で全盛期に思うような活動ができず、破壊されてしまった作品もある。主に制作していたのはパステルや油彩の肖像画で、王家の親族を描いたものも多い。そうしたパステル画の1つ、《シャルル・ミトワール夫人と子どもたちの肖像》(1783)は、2021年にクリスティーズのオークションでロサンゼルスのJ・ポール・ゲティ美術館が記録的な高額で落札している。
2024年にブリジット・クインによる伝記『Portrait of a Woman: Art, Rivalry, and Revolution in the Life of Adélaïde Labille-Guiard(ある女性のポートレート:アデライド・ラビーユ=ギアールの人生におけるアート、ライバル関係、革命)』が出版され、そのおかげで彼女の存在がより身近なものになった。
ヘシーナ・テル・ボルフ(1631-1690)

オランダ黄金時代の画家ヘシーナ・テル・ボルフは、精根を傾けて制作に取り組んでいたにもかかわらず、長い間アマチュア画家だと見なされてきた。芸術家一家に生まれた彼女だが、正式に画家に師事したことも、ギルドに加入したことも、作品を公に発表したり売ったりすることもなかった。画家の父ヘラルト・テル・ボルフは、息子たちを徹底的に訓練したものの、娘のヘシーナが美術を学び始めたのは比較的遅く、その後も父はさほど熱心に指導していない。
それでもヘシーナは、自画像、水彩画、ペルシャの細密画の模写、挿画入りの大型書籍3冊の制作プロジェクト(1886年からアムステルダム国立美術館が所蔵)など、さまざまな作品を手がけている。ヘシーナは文字と絵の組み合わせに強い関心を抱いていたようで、絵に詩や歌詞などの手書きテキストを組み込んだ作品も多い。
2024年、ヘシーナ唯一の油彩画を、アムステルダム国立美術館が300万ユーロ(約4億8000万円)で取得した(同美術館の女性基金が助成)。この作品《モーゼス・テル・ボルフを追悼する肖像》(1667-69)は、オランダ海軍の軍人で、第2次英蘭戦争で戦死した弟モーゼスの死後に描かれたものだ。同年、ヘシーナ・テル・ボルフの作品と解説を収録した英語版書籍が、ランド・ハンフリーズとゲッティ・パブリケーションズから共同出版されている。(翻訳:清水玲奈)
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