「人生を見つめ直す」ための美術鑑賞とは? 小説『モナのまなざし』の著者に聞く
少女と祖父の対話を通じて美術鑑賞の楽しさと生きるヒントを学ぶフランス発の小説『モナのまなざし──52の名作から学ぶ人生を豊かに生きるための西洋美術講座』。美術史家である著者が作品を通じて伝えたかったアート鑑賞のあり方とは? 日本語版の翻訳を手掛けた清水玲奈が聞いた。

歴史上の名画の数々は人生にどんなヒントを与えてくれるだろう? それを10歳の少女の目線を通じて学べるフランス発の小説『モナのまなざし──52の名作から学ぶ人生を豊かに生きるための西洋美術講座』の邦訳版が発売された。
フランスでベストセラーとなり、世界37カ国で翻訳されている同書を執筆したのはトマ・シュレセール。美術史家でありながら、2025年には仏『リーヴル・エブド』誌により「今年の作家」にも選ばれている。
失明危機に瀕した少女と祖父の美術館巡り
物語の主人公は、パリに暮らす10歳の少女モナ。ある日突然、原因不明の視力喪失に見舞われる。治療にもなかなか希望が見いだせないなか、祖父であるアンリは失明するかもしれない孫の記憶に名画の輝きを刻もうと決意するのだ。
偏屈ながら教養深い祖父は、モナを精神科医に連れて行く代わりに、毎週水曜日の午後にルーヴル美術館やオルセー美術館、ポンピドゥー・センターを訪れ、毎回1点ずつ、1年間で52点のアート作品に触れさせることにした。はじめは戸惑いがちだったモナだが、やがてアンリから作品と向き合うことを学び、心の痛みや葛藤、そして希望を重ね合わせることで、自分の内面と向き合い、心から癒されていく。

「アートは人生に奉仕する」という信念
作者のシュレセールは、「偉大なアート作品とはそれ自体のためにある閉ざされた何かではなく、人生に奉仕するものであるということを伝えたかった」と語る。その根底にあるのは「アートは人生に奉仕するものである」という明確な信念だ。
作中では、登場人物であるアンリの語りを通じて、芸術作品がいかに人生の教訓として働き得るかが示される。例えば無名の人々が参列する小さな村の葬儀を描いたクールベの大型絵画《オルナンの埋葬》の前で、アンリはモナにこう語る。
「この絵は、サロンの息詰まるような空気の中での叫びだった。批評やアカデミーの因習に押しつぶされないように、胸を張って『まっすぐ歩く』こと。真摯な叫びによってクールベが訴えたのは、写実主義(リアリズム)、つまり、不快や矛盾も含む現実を表現することを目指す芸術運動だった」

こうした美術史上の知識をもとに、アンリはクールベの写実主義の精神と、現実と折り合いながら生きる人間の強さを重ね合わせ、力強く結論づける。「完璧な人生などないし、不完全だからこそ人生は味わい深くなる」
また、親友が外国に引っ越すと聞いて心を押しつぶされそうになるモナに、アンリはフリーダ・カーロの自画像を見せながら、ニーチェの言葉「私を殺さないものは、私を強くする」を教える。そしてモナは悟る。「どんなに辛い体験も、生きている限り、強くなるために必要な試練なんだ」と。
アーティストの背景や創作の動機を知ることは、人生に力を与えてくれる。だからこそ、すべての人がアートと対峙するべきだと物語は訴える。
老人のような知恵と、子どものような自由な心
ただし、これは祖父が孫に一方的に美術を教える物語ではない。
例えばポロックの抽象画を見たモナは、ポンピドゥー・センターの展示室に迷い込んだ小さなハエになった視点を想像しながら、「ああ、おじいちゃん。ポロックの絵から学べるのは、トランス状態になってみようっていうことだね?」と問いかけ、祖父を唸らせる。二人の関係はあくまでも対等だ。
モナの言うことをアンリが受け止めることで、アンリも新たな視点を得る──。シュレセールはモナの無邪気な感想を通して、「感性を解き放つこと」の意義を訴える。「祖父のような知恵と、子どものような自由な心をもってアートを見ること。それが、この作品を通して提案したかったことです」
シュレセールがそう思ったきっかけは、フランスの理工系高等教育機関、エコール・ポリテクニークの教授としての経験にあるという。教鞭をとるなかで、知識偏重型にならない美術鑑賞の大切さを訴えたいという気持ちを高めていたのだ。これが、対話を中心とする小説という形態を書く動機のひとつになったと振り返る。
「学生に向けた講義は、上から下へと垂直方向に行われますが、アンリとモナの対話はそれとは違い、相互をリスペクトする気持ちに基づく水平方向の伝達です」
加えてシュレセールは、目の不自由な人にも読んでもらえるインクルーシブなアート小説という役割を同書にもたせた。小説に登場する52作品は精密に言葉で描写され、絵や彫刻が目の前にあるかのように思い浮かぶ。文字情報だけで鑑賞を可能にする試みのおかげで、本国フランスではオーディオブックに加え、弱視者のための大きな活字のバージョンや、13巻からなる点字版も出版されたほどだ。
芸術は連続体──西洋美術から日本文化まで
『モナのまなざし』のもうひとつの特徴は話題の多様性だ。祖父アンリの語りは美術にとどまらず、クラシックやロック、文学、演劇、映画など、ハイカルチャーからサブカルチャーまで、さまざまなジャンルに展開する。
「ファインアートもそのほかの形態のアートやカルチャーも、すべて連続体として有機的につながっており、さらには私たちの生活にもつながっているということを伝えたかったのです」と、シュレセールは語る。
同書は西洋美術史の作品を中心に構成されているが、作中ではアンリが葛飾北斎の《富嶽三十六景》と宮崎駿の『となりのトトロ』に触れるくだりもある。海外の読者にも、アンリが語る西洋美術の内容に普遍性を感じてもらうための工夫だ。「ありとあらゆる文化や芸術に心を開く機会の大切さ。それが、アンリの信念であり、著者である私の願いです」

AI時代におけるアートの価値
ファインアートをサブカルチャーを含む幅広い芸術の一形態として位置付けるシュレセールだが、小説の舞台でもある美術館は彼にとっても特別な意味をもつ。「美術館は誰もが歓迎される場所です。同時に、アートと向き合うという特別な体験ができる場としての神聖さもあります」
シュレセールは美術館に「人間がつくり出すものを人間が受け取る場」としての価値を感じている。それは、例えば近年顕著な進化を見せる人工知能──シュレセールは10年ほど前から、アートとAIを研究してきた──をもってしてもゆるがない。
「正直なところ、生きている間にAI革命を経験するとは思っていませんでした。AIがどれほど印象的な作品を生み出そうとも、人間の心を真に動かすのは、その背後に人間がいる、という感覚です。日本の具体美術協会の作家たちにも明らかなように、人間の身体性や思考、葛藤が介在しているからこそ、作品は本当の意味で人の心に響くのです」
なぜその作品を観るのか
『モナのまなざし』では、レオナルド・ダ・ヴィンチやピカソ、バスキアといった巨匠の作品のみならず、18世紀の女性画家の先駆者マルグリット・ジェラールや、20世紀に活動したアンナ=エヴァ・ベルイマンなど、あまり知られていない作家の作品も数多く紹介されている。モナとアンリは、無名の作家の作品も、有名作品と同じようにじっくりと鑑賞する。その向き合い方には、アートを見る姿勢についてのシュレセールの信念が込められている。
「未知のアートに触れる喜びをぜひ味わってもらいたいと思います。全編を通して言いたかったのは、『すばらしい作品は世界中に、きっとあなたの身近な美術館にもありますよ』ということです」
シュレセールが描きたかったもうひとつのテーマが、美術史におけるフェミニズムの視点である。ルーヴル美術館にマルグリット・ジェラールの作品《尊敬すべき生徒》(ca. 1787)を見に行った日、モナはこんな感慨を漏らす。
「ルーヴル美術館に飾ってもらえる絵を描いたのは、男の人だけなのかと思ってた。1787年になってようやく、女の人もまともな絵が描けるようになったってわけ?」
これに対してアンリは、「マルグリット・ジェラールは男性中心の美術界に、風穴を開けた女性だ。しかも、画家として才能を発揮するだけでは飽き足らず、女性の価値を高めるような作品を描いたんだ」と説明する。
この本にはジェラールをはじめ社会の圧力や既成の概念に逆らって創作に取り組んだ12人の女性アーティストが次々と登場するが、そこにはシュレセールのこんな意図がある。
「美術史と社会における女性の位置付けに関しても、起きるべきだった革命が実現しつつあります。モナというひとりの少女が自立していく物語は、女性が本当の意味で解放されるという未来の隠喩でもあるのです」

20世紀女性画家・ベルイマンの再発見へ
シュレセールは、アルトゥング・ベルイマン財団(フランス・アンティーブ)の館長も務めている。加えて「日本の80年代のビデオゲームも大好き」という日本文化贔屓だ。そんな彼の次の目標は、スウェーデン生まれでフランスで活動した女性抽象画家、アンナ=エヴァ・ベルイマン(1909-87)の本格的な個展を日本で開くことにある。
物語の終盤、モナは祖父とともに、ポンピドゥーセンターでベルイマンの抽象画を、じっくりと鑑賞する。自由奔放に生きたベルイマンがこの抽象画に込めた無限の広がりを理解し、モナはこう宣言する。
「常にゼロから始める。それがベルイマンの教訓だね」。そしてモナは心の闇を捨て、自分の足で未来に向けて歩き出すのだ。
シュレセールは、「モナは10歳のころの私自身をモデルにしている」と語る。内省的で感受性の強い子ども時代を経て、美術史家となった人生を、この物語に色濃く反映させた。「アートは私たちが世界と自分自身を本当に理解し、向上し、進化することを可能にしてくれます」と力を込める。
モナとアンリの対話をヒントに、私たちも自分を捉え直し、よりよく生きるためのヒントとしてアートと向き合ってみよう。やがて好きなアートについて大切な人と語り合えたら、人生がもっと豊かなものになるだろう。