「大量廃棄物や情報過多」問題にアートはどう斬り込めるか。MoMA PS1チーフキュレーターに聞く
現代アートの美術館の中でも特に革新的な企画展を次々と行うMoMA PS1で、世界各国から集まった14人のアーティストによるグループ展が開催されている。廃棄物や情報の氾濫、グローバル化や新自由主義による弊害などを考察するこの展覧会を企画した同美術館のチーフキュレーターに、作家たちが持つ問題意識とアートが今の世界に対してなし得ることについて聞いた。

ニューヨーク・クイーンズのロングアイランドシティにあるMoMA PS1では、春夏シーズンの目玉となる展覧会「The Gatherers(集める人々)」が4月下旬に開幕した。この大規模なグループ展では、気候変動やグローバル化、新自由主義がもたらす精神的・物質的な「負担」がテーマとなっている。
同展には、彫刻、ビデオ、アッサンブラージュ(*1)、インスタレーションなど多様なメディアを扱う14人のアーティストが参加。コンゴ民主共和国からリトアニアまで、世界各地の作家による多種多様な作品に共通するのは、過剰生産、廃棄物、機能不全に陥ったインフラやシステムなど、世界が直面する喫緊の課題に向けられた問題意識だ。
*1 雑多な物体(日用品、工業製品、廃品など)を寄せ集めて作られた芸術作品やその手法。
とはいえ、「The Gatherers」に説教じみたところはない。2017年からPS1のチーフキュレーター兼キュレーション部門ディレクターを務めるルバ・カトリブは、企画にあたって、作品がフォルムや素材、空気感、または反復を通じて「自ら語れる」ようにすることを重視したといい、こう語る。
「アーティストたちはある課題について何かを伝えるために、引用、抽出、介入といった戦略を用いますが、本質的には創作活動とその成果物を通じて語っています。彼らがやっているのは、単に物語を語る以上のことです」
PS1の3階で10月6日まで開催される「The Gatherers」は、さまざまな音が鳴り響く没入型の展覧会だ。鑑賞者はそれぞれのアーティストの作品に内包される不快感や疎外感、曖昧さ、そして静かな希望と深く向き合うことができる。
カトリブに、今の時代をアーティストたちがどう解釈し、どう対応しているのか、そしてアートが果たせる役割とその限界について話を聞いた。
崖っぷちにある世界を作品に反映させる作家たち
──この展覧会は、世界的な混乱の中で開幕しました。気候変動の悪化や経済不安、トランプの復権など、昨今の社会的・政治的状況は、「The Gatherers」のキュレーションにどのような影響を与えましたか?
展覧会の企画は2、3年かけて進めてきたので、当然ながら直近の状況に即した内容になっているわけではありません。とはいえ、私は「本当にコンテンポラリー」だと言える展覧会を目指していました。参加者は完全に同世代ではないにせよ、近い世代のアーティストたちで、一部例外はありますが、ほとんどの作品はここ数年の間に制作されたものです。
また、企画はコロナ後の状況から生まれたものでもあります。作家たちがこの時期に何をして、何に反応していたのかを把握するまで少し時間がかかりました。特に今のような不安定な時代において、世の中で起きつつあることを全て予測することはできません。それでもアーティストたちは、我われが崖っぷちに立っているこの瞬間に反応しているのだと思います。グループ展で扱われているテーマの多くは、14人の参加アーティストだけでなく、大勢の作家が関心を寄せているものです。でも私は、時代に即した独特の方法で現状に応えているのが今回のメンバーだと感じました。

──新型コロナウイルスによるパンデミック後に、多くのアーティストが一歩引いたところから世の中のシステムについて再考し始めたのはなぜでしょうか。この時期特有の理由があったと思いますか?
パンデミックはこれまでの価値観を揺るがしましたし、プロジェクトなどの延期や中断が重なったことで新たな活動を始めるアーティストが増えました。それは、社会的・文化的失敗を反映する世界的な大転換を象徴するものでもあります。私はこれと類似する歴史的な出来事について思いを巡らせました。たとえば、エミリア・シュカルヌリーテの映像作品《Burial(埋葬)》(2022)は、チェルノブイリの姉妹施設である原子力発電所の廃炉をテーマにしています。この作品にはとても魅了されました。チェルノブイリ原発事故は、ある特定の地域で起きた災害ですが、世界中に影響を及ぼしています。それだけでなく、政府やインフラ、科学技術の進歩の失敗をあらわにし、ソビエト連邦の崩壊を押し進めたのです。
あの事故によって、それまで完全無欠だと信じられていた構造や組織の脆弱性があちこちでが浮き彫りになり、当然ながら、それによってあらゆる物事の方向性が変わりました。今は当時と同じく、良いことであれ悪いことであれ、どんなことも起こり得る時代です。
──チェルノブイリの原発事故に関しては、楽観主義が崩壊した瞬間としても捉えられます。原子力はさまざまな問題を解決し、明るい未来を約束してくれるはずでした。しかしある意味で、あの事故はそんな希望を完全に潰しました。
これと興味深いつながりがあるのが、中国のデータセンターを題材にしたジョウ・タオの映像作品《The Axis of Big Data(ビッグデータの軸)》(2024)です。題材となったデータセンターは、立地場所の特性上、原子力ではなく水力発電で作られた電力で稼働しています。この作品では、過去のものを再利用して新たな技術に活かす過程が描かれ、その結果、良いことも悪いことも含め、さまざまな現象や結果が引き起こされます。そこに見出せるのは、20世紀の技術的変化と21世紀の技術的変化との間の類似点です。
──この2つの映像作品と、「The Gatherers」に出展された何点かの彫刻は、産業の世界と自然界の間に明確な境界線がないことを示しているように思えます。
この展覧会に並ぶ作品の多くからは、曖昧さや平坦化が感じられます。壊れかけ、時代遅れになったものと、それらに取って代わるものとの間の緊張感も見られます。そして、時代遅れになりつつある技術や忘れ去られた技術、現役を引退してゴミとなったものがたくさん展示されています。
たとえば、トリア・アスタキシュヴィリの作品は、こうした要素をすべて捕らえようとする網のような役割を果たしている点が興味深いと思います。この展覧会に参加している多くのアーティストは、素材や物体をカテゴリーごとに分けて捉えていません。彼らはむしろ、あらゆるものがゴミとなるとき、カテゴリーや分類が意味をなさなくなるという平坦化に注目しています。

途方もない物量に対処することの精神的負担
──「The Gatherers」という展覧会タイトルからは、多くの参加アーティストが、完成した作品自体より制作方法や素材の方が重要だと思っているような印象を受けます。
私にとっては、むしろ物量の問題なのです。タイトルはいくつかのことを示唆していますが、特にジャン=フランソワ・ミレーの《落穂拾い(The Gleaners)》(1857)と、アニエス・ヴァルダ監督のドキュメンタリー映画『落穂ひろい』(2000)を参照しています。社会や経済の周縁にいる人々が、ゴミや残りものを集めて生計を立てる「gleaning(拾い集める)」に光を当てようとしたのです。現代ではもはや、落穂ほどささやかではなく、大量の残りものが山をなす状態で、この展覧会はその信じられないほどの物量を取り上げています。アーティストごとに方法はまったく異なりますが、彼らの多くは表現が非常に難しい「途方もない物量」というテーマをアートで表現するため、似通った戦略を取っています。
今回展示した作品は、そのことの情報を伝えるというより、大量の物量に対処することに伴う精神的な負担を表現しています。美術史家のノーマン・ブライソンが静物画について語った言葉に、「静物画とは物語を取り去った世界だ」というものがあります。それは、物事は想像もできない形で新たな生を得たり、別の存在に変化したりして、ずっと続いていくという考え方につながります。これらの物体や素材の多くは、数百年か数千年、あるいはそれ以上、ずっと存在し続けるでしょう。その物語の結末がどうなるか、私たちにはまったく分かりません。
──そこに、ある種の希望がある気がします。私たちは皆、気候変動がもたらす絶望的な未来を悲観しています。しかし、この展覧会に並ぶ作品の多くは、生命はひたすら変化しながら続いていき、何か別のものに変容していくだけだと示唆しているようです。
それを聞いて、別の業界にいる人物が私に言ったことを思い出しました。私たちは気候変動について話していて、今のひどい状況を憂いていました。もちろん、それは実際に起きていることです。しかしその人は、「それでも地球は回り続ける」と言ったのです。人新世(*2)や人間による環境への影響に関するさまざまな議論がありますが、大局的に考えると、私たちは所詮取るに足らない存在です。自分たちの種の存続については心配すべきですが、人類という枠組みの外へとその不安を拡張し、投影するのは、厄災の本質を理解していないということになるのかもしれません。
*2 人間の活動が地球の生態系や気候に大きな影響を及ぼすようになった時期を指す地質年代区分。化学者のパウル・クルッツェンが2000年に提唱した概念。
この展覧会を企画する際にもう1つ参照したのは、科学史家のミシェル・セールの著作「Malfeasance: Appropriation Through Pollution?(違法行為:汚染による収奪?)」です。短いながら非常に示唆に富んだこの本でセールは、事物を壊したり汚したりすることで空間をマーキングした主体がその場を占有するようになると書いています。たとえばある工場が有毒な廃棄物を川に投棄して、そこに生物が住めなくなるとします。これはつまり、環境を変容させることでその川の事実上の所有権を獲得するようなものです。
そうした意味で、所有の概念は本質的に破壊的です。地球上のある領域を支配するには、何らかの破壊行為が伴います。セールはさらに議論を広げており、そこがこの展覧会のテーマとも重なってきます。1キロ以上離れても見える巨大な看板は、周囲の空間に干渉していると考える彼は、グラフィティを興味深い形で論じています。システム化された有害な空間の占有方法とグラフィティを対比させながら、即興性のあるマイナーな空間の占有方法としてそれを位置付けています。

──高速道路の標識を作品に再利用したクララ・リデンや、都市に溢れる雑多な物の複製を作るニック・レルフなど、「The Gatherers」の参加アーティストたちは、さまざまなものを公共財と捉え、その占有権を主張しているようです。
それらは忘れ去られたものでもあります。クララの作品はとても面白くて、自治体の管理下にあった何らかの役割を果たすためのもの——たとえば配電盤やバスの標識——を扱っています。そうした物体は、落書きなどの痕跡を残す人々によって、また、剥げかけた貼り紙などによって侵食され、廃棄されたり、誰の目にも留まらない場所に放置されたりしていました。そこがこの展覧会で重要なポイントです。「反スペクタクル」的というか、私たちが普段気づかないものや、視覚化が難しく、目に見えない流れやシステムに光を当てているのです。
世界各地で共通の課題があることを示したい
──展覧会を鑑賞しながら、私はミニマリズムのことを考えていました。ミニマルアートは工業製品のような素材や製造方法に立脚していて、アーティストたちは厳格な形式的論理に沿って素材を扱っていました。一方、「The Gatherers」のアーティストたちは、ミニマリスト的な衝動を批判するかのように、シンプルさや秩序に抗うような廃棄物や劣化した材料を好んで使っています。
この展覧会のもう1つの参照点は、1961年にニューヨーク近代美術館(MoMA)で開催された「The Art of Assemblage(アッサンブラージュの芸術)」展です。この展覧会では、当時新しかったアッサンブラージュの手法で作品を作る数十人のアーティストが紹介されました。日用品や街で拾ったものなど、アート作品の素材としては非伝統的な材料をいろいろと組み合わせて作品を作るアサンブラージュの手法はそれ以前からありました。しかし、戦後、消費主義文化が加速し、街に溢れるものが変化していた時代背景によって、新しいタイプの作品が生まれるようになっていったのです。
現代の作品と過去の作品がたとえ美学的に似ていたとしても、それぞれが意味することや属するシステム、参照する対象が変わっているので、根本ではかなり異なります。この展覧会で重点を置いたのは、個々のオブジェに焦点を当てることよりも、それぞれがより大きなネットワークの一部であると示すことです。
──展覧会に参加している14人の出身地は幅広く、世界各地から作家が集められています。異なる地域の視点を取り入れることをどの程度重視していたのでしょうか? また、異なる地域の作家に共通する要素はどのようなもので、それぞれのアーティストが持つ固有の文脈を平坦化することなく、どうやって共通項を示したのでしょうか?
1つの地域や場所だけに焦点を当てたくはありませんでした。目標は、世界各地で共通の課題があると示すことです。しかし、それらの課題は住む場所や働く場所、置かれた状況によって、さまざまな形で表出します。展覧会に参加したアーティストの多くは、過剰生産や廃棄物に関する問題に間近で接していたり、作品で扱っている素材と個人的な関係を持っていたりします。たとえば、セルマ・セルマンやジャン・カタムバイ・ムケンディなどです。
そのほかにもこの展覧会は、経済的・循環的な相互関係について言及しています。多くのアーティストは、過去数十年の間にそれぞれ異なる変化を遂げた地域で活動しており、1990年代と2000年代について深く考察しています。ソビエト連邦の崩壊で1つの経済・社会モデルが終焉を迎え、その後、世界中で新自由主義が台頭しましたが、それは当初考えられていた通りには機能しませんでした。そして現在、私たちはまた別の状況に直面しています。
たとえば、中国のアーティストたちは、新たに台頭したグローバル経済とそれがもたらす物質的な影響を目の当たりにしてきました。これは私にとって非常に興味深い点です。なぜなら、1980年代から90年代に育った私たちの世代は、20世紀後半に提示されていたある未来像を見せられてきて、今は実際にその「未来」がどうなっているかを目撃しています。私たちはその現実と向き合い、躊躇なく対応することができる新しい局面に入ったと感じています。
私たちは、これまで教えられてきた安心感のある物語を手放さなければなりません。なぜなら、それらは現実ではないからです。手放すのが早ければ早いほど、真の課題に取り組めるようになります。この展覧会では、政治的な文脈は荷が重すぎるので避けました。アーティスト自身やその作品自体からメッセージが伝わるようにしたいからです。最近の展覧会の多く、それも特にグループ展は、要素を盛り込みすぎる気がします。私はキュレーターとして伝えたいテーマや問いを立てますが、それを自然な形で表出させたいと思っています。自分のディレクションだけでなく、自然と立ち現れてくる流れに従うことも重要です。

言葉では表せない何かを訴えかけるのがアートの力
──先ほどあなたは、世界は新しい局面に入ったと話していました。この展覧会に参加しているアーティストとその作品は、新しい物語を創造し、私たちが今いるこの局面について理解を深めるのを助けてくれるという点において、この新しいパラダイムを象徴していると思いますか?
参加アーティストたちはみな洞察力に富み、どうやったらアートや美学、感性を通して人々に何かを伝えられるかを真剣に考えています。それはリサーチに基づく実践や物語的な実践からダイレクトに生まれてきた姿勢です。今は、ものすごい量の廃棄物だけでなく、大量の情報が溢れていますが、人々は世の中で起きている全ての出来事についての情報を必要としているわけではありません。むしろアーティストに期待されているのは、何層にも重なったレイヤーを剥がしながら、私たちの現在地を理解するための手がかりを創造してくれることです。彼らはまさにそれをやっています。
これは空間的な広がりを持つ体験型の展覧会です。最近の展覧会ではインスタレーションや巨大な彫刻をあまり見かけなくなりましたが、私にとっては空間的な物語を構築することが重要でした。この展覧会は音を使った作品が多く、さまざまな音が空間の中で互いにつながり、混じり合います。そして、そこから何か手触りのあるものが出現します。
会場にいると、トリア・アスタキシュヴィリとディラン・ピアースの2チャンネルの映像作品《so many things I'd like to tell you(あなたに伝えたいことがたくさんある)》(2025)のスキャナーの音、セルマ・セルマンの2024年の立体作品《Flower of Life(生命の花)》で使われている建設用クレーンの音、そして、4分ごとに回転するクララ・リデンの標識を使った《Untitled(Haltestelle)無題 [停留所] 》)(2024)の音など、それぞれの周期で反復する機械音が印象的なリズムを生み出しています。そしてその音は、言葉では表せない何かを訴えかけてきます。これこそが展覧会やアートができることなのです。
──展示構成に関しては、解説文に頼りすぎず、作品それ自体が観客に語りかけることを重視していると感じました。これはキュレーションにおける意図的な選択だったのでしょうか?
今回の参加者以外にも、展覧会のテーマに合うアーティストは大勢いますが、この大規模展にはこの14人が適していると思いました。彼らはみな、多くのリソースを注いで密度の高い作品を制作しています。また、観客が自らのペースで個々のアーティストの作品にアプローチし、それを理解する余白を残したいとも思いました。狙い通りに、それぞれのアーティストとの実りある出会いが生まれる場が作れていれば成功です。
また、展示作品は概念を説明するための道具ではなく、インパクトのあるものでなければいけません。作品は自ら語るものです。さらには文脈も重要です。展覧会を企画する際には、アーティストの仕事について深く知ることになりますが、今回の出品作家の中には私が過去に一緒に仕事をした人もいれば、何年も前からその活動に注目し、世界各地で作品を見てきた人もいます。個々のアーティストの活動を深く掘り下げる機会は多くはありませんが、これらの作品をある文脈の中で見ることで浮き彫りになってくる意味があると思います。
──先ほど、廃棄物だけでなく情報も大量に溢れているという話がありました。そして昨今は、明らかに政治的な作品が数多く作られています。一方で「The Gatherers」の展示作品は、たとえ政治的な文脈があるとしても、作品そのものは必ずしも政治的ではなく、単に現状を表したり、示したりしているように見えます。
アートが最も輝くのは、ほかのメディアや表現形態がやろうとしない、またはそれらには不可能な方法で時代に反応したり、それを反映したりするときですし、そこが非常に重要な点です。政治的な課題に関しては、多種多様な方法でアプローチが可能です。「The Gatherers」のアーティストたちはある課題について語るために、引用、抽出、介入といった戦略を用いますが、本質的には創作活動とその成果物を通じて語っています。その方法は、説得力がある場合もあれば、そうでない場合もあります。けれども、彼らがやっているのは、単に物語を語る以上のことなのです。
──彼らはアートだけに可能なことをやっているということですね。
その点について、私はますます確信を深めています。昨今ではアートに対する過剰な期待があるのではないでしょうか。これまでアートが一度も果たしてこなかった役割を期待する傾向がありますが、それが必ずしも素晴らしいものや興味を刺激するものにつながるわけではないと思うのです。全ての文学作品に対して、同じ効果を求めるようなものです。
アートは極めて有効で、力強く、内省的で、思考を刺激します。私たちは鑑賞者として、アートが効力を発揮できるよう十分な空間や遊びを設け、ある種の寛容さを持つ必要があります。アートは、異なる視点を私たちにもたらしてくれますが、それは必ずしも言葉で説明できるものではありません。言葉で説明できるようなら、退屈なものになってしまいます。(翻訳:野澤朋代)
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