パリを生き抜いたアジア系アーティストたち──ナショナル・ギャラリー・シンガポール『City of Others』展に見るアートシーンの力学

20世紀前半、アジア圏から多くのアーティストたちがパリへ渡った。芸術の都、パリで彼/彼女らは何に直面し、何と闘い、何をつくろうとしたのか。ナショナル・ギャラリー・シンガポールで開催された『City of Others: Asian Artists in Paris, 1920s-1940s』展は、アジア系アーティストたちの活動を追うことで、「他者」たちがパリのアートシーンのなかにどう位置づけられてきたのか浮き彫りにしている。

会場入口では、藤田嗣治をはじめさまざまなアジア系アーティストの自画像やセルフポートレートが展示されている。
最初のゾーン「Workshop to the World」は、漆工芸を筆頭にアジアの装飾美術や工芸がどうパリで受容されていったかを明らかにするもの。
濱中勝はパリで活躍するデザイナーやアーティストにも大きな影響を与えたとされる。
濱中勝の《Important and Rare Six-Panelled Screen with Mythological Scene》。
1931年のパリ国際植民地博覧会の記録。この博覧会はかなり大規模なものだった。
植民地博覧会では、当時の植民地の建物がそのまま再現されることもあった。
豊富なアーカイブ資料も本展の見どころのひとつだ。
さまざまな展示や建築が地図上にマッピングされることで、当時の様子がよりリアルに浮かび上がる。
さまざまな国のアーティストたちの作品が展示されることで、彼/彼女らのアプローチの差異が浮かび上がる。
戦間期のパリでは日本画が展示されることもあったという。
中国出身のリュウ・カンはシンガポールの近代美術を発展させた存在としても知られている。
多くの資料から藤田嗣治と同時代のアートシーンの交流が見えてくる。
裸婦や馬を多く描いたサンユーは中国のマティスとも呼ばれている。