奈良美智展が子どもたちの教室に──英ヘイワードギャラリーの美術館教育が目指すもの

ロンドンのヘイワードギャラリーでは、学校単位で小学生を受け入れるスクールプログラムが展開されている。2025年夏に開催された奈良美智展でも、子どもたちは展示室を歩き回り、作品を観察し、そこから自分の作品を制作した。現代アートを教材にした美術館教育の現場から、その意義を探る。

ヘイワードギャラリーで開催された奈良美智展でのスクールプログラムで、用意されたワークシートに書き込む子ども。Photo: Courtesy Hayward Gallery

平日の昼間、担任の先生に引率されたロンドンの小学生たちが、鉛筆とワークシートを手にヘイワードギャラリーの展示室を歩き回っていた。作品を見ながら夢中でスケッチをする子もいれば、友達と意見を交わし合う子もいる。その後館内では、作品をヒントにグループ制作を行う工作の授業が行われた。

美術館に足を運ぶ習慣のない家庭の子どもを含め、すべての子どもにアートに親しんでもらうため、小中学生をクラス単位で受け入れる──そんなプログラムに力を入れているのが、ロンドンの美術館、ヘイワードギャラリーだ。テムズ川南岸の文化施設サウスバンク・センターに属する同館は、ロンドンを代表する公共の現代美術ギャラリーとして知られる。館内にはスクールプログラムを担当するチームが常駐し、各回の展覧会に合わせて教材を開発し、子ども向けの鑑賞会やワークショップを開催している。サウスバンク・センター全体では、年間300校以上がこのスクールプログラムに参加している。

すべての子どもにアートとの出会いを

会場に入った子ども達は、鉛筆とワークシートを受け取ったあと、会場全体に散らばって思い思いに展覧会を見て回った。
会場に入った子ども達は、鉛筆とワークシートを受け取ったあと、会場全体に散らばって思い思いに展覧会を見て回った。Photo: Courtesy Hayward Gallery

同館でクリエイティブ・エンゲージメント部門のマーケティング・コミュニケーションマネージャーを務めるエミリー・パルマーは、すべての子どもたちがアートと出会うことの重要性を強調する。

「ヘイワードギャラリーでは、芸術へのアクセスは特権ではなく権利であると考えています。近年、カリキュラムにおける芸術教育の削減、予算の圧迫、コストの増加により、多くの学校で生徒に教室外で芸術や文化を体験させる機会が制限されていることを目の当たりにしてきました。一部の子どもたちにとっては、美術館の学校見学が現代アートとの初めての出会いとなるかもしれません。私たちは経験から、これがいかに変革的な体験となり得るかを知っています」

昨今、子ども向けの鑑賞ガイドやワークショップを用意する美術館は珍しくないが、ヘイワードギャラリーは学校単位で子どもたちを受け入れるなど、学校との連携を重視している点で際立っている。そこには、普段美術館を訪れる習慣のない家庭の子どもを含め、幅広い背景を持つ子どもたちが、世界各地の多様なアートに触れる機会を得るだけでなく、鑑賞と制作を通して自分自身の創造性を発揮してほしいという思いがある。

「子どもたちを歓迎し、適切なサポートを行うことで、アートと向き合い思考を刺激される体験が生まれます。鑑賞の際には作品について問いを投げかけ、それをヒントに自分の作品を創造するように働きかけます。子どもたちが大きなアイデアを探求し、創造性を発揮できるようにするためには、美術館をアートに自分自身を重ねられる場所にすることが大切なのです」

ワークシートには、「少し怒っている大きな目の人物」「楽器が描かれている絵」といった作品を見つけるなどの課題がある。鑑賞のキーワードのクロスワードパズルも。
ワークシートには、「少し怒っている大きな目の人物」「楽器が描かれている絵」といった作品を見つけるなどの課題がある。鑑賞のキーワードのクロスワードパズルも。Photo: Courtesy Hayward Gallery

奈良美智展で行われたスクールプログラム

2025年6月10日から8月31日まで同館で開催された奈良美智の個展でも、ロンドン市内の小学生を対象としたスクールプログラムが実施された。会場ではオリジナルの教材と鉛筆が配られ、鑑賞体験をもとに作品を制作するための素材が用意され、数人のスタッフが子どもたちの指導にあたった。

先生や保護者ボランティアに引率されて訪れた小学4年生の子どもたちは、まずスクールチームの説明に耳を傾けた。

「ナラという名前のアーティストですが、どこの人だと思いますか?」

そんな問いかけに、子どもたちからは様々な国名が飛び出した。続いて作家の略歴や作品の簡単な紹介が行われ、「展示作品の中から好きな1点を選んでデッサンする」という課題が提示される。さらに鑑賞後には別室に移動してワークショップに取り組むが、その際にも展示作品の1点をテーマに制作することが説明された。短いイントロダクションではあるが、その中に子どもたちが主体的に展覧会を見られるようにするための工夫が散りばめられていた。

プログラムに参加する子どもたち。
プログラムに参加する子どもたち。Photo: Courtesy Hayward Gallery

教師を支える仕組み

一方、美術館のスクールチームの一人で、アシスタント・プロデューサー・フォー・スクールズを務めるナターシャ・カーターは、学校と美術館の連携の難しさについてこう語る。

「学校の教師たちは忙しく、子どもを美術館に連れ出すには安全のための保護者ボランティアを募るなど、さまざまな手続きが必要になります。それでも来たいと思ってもらえるよう、美術館としてできることを最大限に行っています」

その一つが「ティーチャーズ・トワイライト」と呼ばれる教師向けイベントだ。平日の夕方に教師を無料で招き、展覧会ツアーを行い、アーティストや作品について理解を深めてもらう。ヘイワードギャラリーでは国際的な現代アーティストの個展を多く開催しているが、「特に先鋭的な現代アートや非西洋のアーティストについては、指導に自信がないという先生も少なくありません。そうした先生たちに知識を提供し、自信を持ってもらうことが目的です」とカーターは説明する。

美術館教育と子どものウェルビーイング

こうした美術館体験の教育効果については、近年研究も蓄積されている。たとえばアメリカの小学生を対象に行われたランダム化比較実験(Kisida, B., Bowen, D. H., Greene, J. P., 2018「Cultivating Interest in Art: Causal Effects of Arts Exposure During Early Childhood」)では、幼児期に美術館プログラムを経験した子どもは、そうでない子どもに比べてアートや美術館に対してより強い関心や好意的な態度を示すことが確認された。

また、美術館での鑑賞体験が子どもの感情への注意や情緒理解を促す可能性を示す研究もある。Koromらによる研究(2021「Shifting children's attentional focus to emotions during art museum experiences」)では、鑑賞の際に、感情に焦点を当てたガイドやツールを用いることで、子どもが作品に表現された感情や色彩、素材などの要素により注意を向けるようになることが報告されている。

さらに、芸術活動への参加と子どもの心理的発達との関連を検討した研究では、音楽や美術などの芸術活動に頻繁に参加する子どもほど、自尊感情が高い傾向があることも示されている(Mak, H. W., Fancourt, D., 2019)。アート体験が子どもの感情理解や美術への態度形成に寄与する可能性を示唆するこうした研究からも、美術館教育は、子どもの情緒的発達やウェルビーイングと関係しうる領域として注目されているのだ。

ヘイワードギャラリーのプログラムで使用された教材。Photo: Courtesy Hayward Gallery
ヘイワードギャラリーのプログラムで使用された教材。Photo: Courtesy Hayward Gallery
ヘイワードギャラリーのプログラムで使用された教材。Photo: Courtesy Hayward Gallery
プログラムに参加する子どもたち。Photo: Courtesy Hayward Gallery

奈良美智展でも、子どもたちが作品を通して自分の感情と向き合う体験に重点が置かれた。カーターは、「(奈良の)絵や彫刻では、大きな目の女の子が悲しみや反抗心や遊び心など、さまざまな感情が全身で表現されています。こうした作品は、子どもたちが自分の感情や気持ちに向き合い、それをアートで表現することで、自らのウェルビーイングに繋げる入り口になると考えています」と話す。

さらにカーターは、奈良作品の素材にも注目する。

「封筒の裏や段ボール箱など日常的な素材を使っていることもそうですし、誤解を恐れずに言えば、奈良の絵には『自分にも描ける』と思わせるようなところがあります。アートを身近に感じ、自分の創造性を発揮するきっかけになるのです」

美術館は大人だけのものではない

カーター自身も東アジアにルーツを持つという。

「ロンドンにはさまざまな背景を持つ子どもたちがいますから、ヘイワードギャラリーで扱うような人種も文化も多様な現代アーティストによる作品と出会うことで、『アーティストは自分と同じような人だ』『自分にもなれるかもしれない』という感覚を持ってもらうことを大切にしています」

耳慣れない名前を持つ遠い国のアーティストが描いた絵が、自分に語りかけてくる。同級生や先生とともに美術館を訪れ、作品を見て考え、そこから自分の作品を作る。子どもたちはしばしば「美術館は大人の場所だ」と思いがちだが、この空間を子どもたちに開くことで、学校の美術の授業とは異なる視点や技法、素材に触れることができる。そして一度訪れた経験があれば、再び美術館を訪れるかもしれない。そこにはもちろん、「未来の来館者を育てる」という長期的な展望もある。

しかしやはりそれ以上に、子どもたちが自分の目と心でアートを味わい、それを人生や自己表現へとつなげていくきっかけを得ることにこそ、このプログラムの真価はある。家庭ごとの選択肢としてではなく、学校単位で子どもたちを迎え入れるヘイワードギャラリーの試みは、アートが誰のものでもあるという感覚を、子どもたち自身の体験として刻み込むための試みでもある。

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