美術館の「見せる収蔵庫」をめぐる論争──新刊が突きつける保存と公開のジレンマ

普段、倉庫に眠っている美術館や博物館の収蔵品を一般の目に触れるようにしたのが「見せる収蔵庫」。国内外で導入事例や採用の動きが広がりつつあるこのトレンドを取り上げた書籍が近ごろ出版された。その内容に触れつつ、保存や収蔵にまつわる問題を考察する。

2025年5月にオープンしたヴィクトリア&アルバート博物館の新施設「V&Aイースト・ストアハウス」のウェストン・コレクション・ホール。Photo: David Parry/PA Media Assignment

美術館・博物館(以下、ミュージアム)は通常、コレクションを拡大していくものだ。その反面、世界のミュージアムが集めた品の大部分が収蔵庫に置かれている現実もある。ある推計によれば、その割合は最大95パーセントにも達するという。そんな中、著名ミュージアムの一部では、展示しきれない収蔵品への対応策として、コレクションの保管施設を一般公開するようになった。

この「見せる収蔵庫」は1980年代から存在していたが、2021年にロッテルダムにできたボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館の「デポ」や、2025年にオープンしたロンドンの「V&Aイースト・ストアハウス」などは格段に見ごたえがあり、インタラクティブな鑑賞体験も提供している。保管と展示の境界をなくそうというこうした収蔵庫は、スター建築家を起用し、巨額の費用を投じて建設されることも多い。

「ストレージ(保存)」を論考する新刊

これら新時代のミュージアム収蔵庫について、建築家、批評家、歴史家の論考を集めた新刊『Keeping Culture: The Architecture of Storage(文化を保管する:収蔵の建築)』(Valiz社刊)がこのほど発売された。建築学者のスーザン・ホールデンとアシュリー・ペインが共同編集を手がけた同書の執筆者の多くは、収蔵庫が一般向け展示の空間になってもなお保管施設と見なされるのか、それとも本質は展示を待つ間の保管にあるのかと疑問を投げかけている。

同書が提示するのは、日本からベルギーのフランダース地方に至るまで、多様な事例研究を通じた「ストレージ(保存)」に関する批評的分析だ。そこでは収蔵施設の建築に焦点が当てられ、一般市民、ミュージアム職員、収蔵品の三者の関係を、建物によっていかに構築できるかが考察されている。

たとえばV&Aイースト・ストアハウスでは、来館者をエントランスからすぐに建物の中心部へ導く動線が設定されている。そして、単に美しく演出された木箱やパレットで収蔵品を見せるだけではなく、それらが美術館の中でどのように収納・搬送・管理されているかといったプロセスを可視化している。

編者による長めの序章では、収蔵品の保管に関するいくつかの視点が挙げられている。その1つは、ミュージアムの権威的な方向付けから解放され、収蔵品とニュートラルに出会える場が保管施設であるとする考え方だ。

つまり、ヴァルター・ベンヤミンが「秩序がもたらす穏やかな退屈」と呼ぶものが存在せず、収蔵庫が一見「無秩序」であるように見える状態こそ、より本質的な体験につながるかもしれないというわけだ。それは、本書のインタビューでV&A副館長のティム・リーブが用いた「可視性」「透明性」そしてコレクションの「民主化」といった言葉で語られることの多い、媒介者を通さない直接的な出会いを意味する。

V&Aイースト・ストアハウスのワイヤーメッシュパネルを用いた引き出し式保管ラック。Photo: Hufton +Crow/V&A

「見せる収蔵庫」への懐疑

しかし、「文化を民主化する」という謳い文句による収蔵庫展示は、収蔵品へのアクセシビリティを空間的・物理的な面でしか捉えていない。そして、キュレーションによる解釈を収蔵品への架け橋ではなく、むしろ障壁であるかのように見なす。ミュージアムが収集する品は往々にして、とっつきにくかったり、難解だったりするものだ。だからこそ、研究成果や文脈の提示によって、そうした品々が持つ意味を引き出すことができる。

もちろん、収蔵庫そのものが展示の対象となる場合でも、ミュージアムは見学者に一定のメッセージを発している。すなわち、収蔵品の豊かさや、それを市民と共有する寛大さのアピールだ。しかし『Keeping Culture: The Architecture of Storage』には、見せる収蔵庫の概念に疑問を呈し、ミュージアムが見た目を変えただけにすぎないと考える執筆者もいる。

イギリスの作家でロンドンのデザイン・ミュージアム元館長のデヤン・スジッチは、ロッテルダムのデポを「見かけ倒し」で「見学者が騙されているように感じかねない」と辛辣に批判している。ミュージアムが現在のような大量の収蔵品──中でも植民地支配によって手に入れたもの──を維持することについて批判が高まる中、収蔵庫の公開には大きなリスクがあると言えるだろう。

そして、最大の問題は人骨の保管だ。オーストラリア先住民の建築家キャロル・ゴー=サムの寄稿では、先住民の文化資料を収める施設や、出所が不明または不確かな遺骨を安置する「国立安息の地(National Resting Place)を整備しようとするオーストラリアの試みが概説されている。そこで浮き彫りになるのは、建築物に依存して過去の過ちを償おうとすることの複雑な側面だ。

V&Aイースト・ストアハウスにあるウェストン・コレクション・ホール。Photo: Kemka Ajoku/V&A

「国家をデジタルで保存する」試み

収集とは喪失の裏返しでもあり、つまりは、収集しなければ消え去ってしまうかもしれない何かを救おうとする試みだと言える。その事実を痛切に語るのが、この本の最後に収録されているスペイン人建築家マリーナ・オテロ・ヴェルジェの論考だ。ヴェルジェは、南太平洋の島嶼国ツバルの取り組みに光を当てている。

ハワイとオーストラリアの中間に位置する群島からなるツバルは、海面上昇で水没の危機に瀕する国土をデジタルデータとして保存しようとしている。その目指すところは、「国土の再構築、文化のアーカイブ化、行政のデジタル化」を進め、祖国をメタバース上で再現する「世界初のデジタル国家」となることだ。

だが、莫大なエネルギーを必要とする世界各国のデータセンターは、ツバルの存続を脅かす環境変動の一因になっている。そうした遠隔地のデータセンターに自国の領土をデジタルデータとして再保存しようとする試みは、データの「保存」がはらむパラドックスと、その代償を痛感させる。

文化評論家のスーザン・スチュワートは、保存や収集の未来の可能性を論じる際、ノアの箱舟こそがコレクションの原型だと述べている。しかし、ツバルの例を見ると、神が起こした大洪水について、そして私たちが何かを残すことと引き換えに、流され失われてしまうものについて思いを馳せずにはいられない。(翻訳:清水玲奈)

from ARTnews

あわせて読みたい