忘れられた「システム・アート」の復権──なぜ世界は再びこの概念を必要とするのか

AIやネットワーク、経済や権力構造まで、今日のアーティストたちは複雑に絡み合う「世界の仕組み」そのものを作品化している。その源流にあるのが、1960〜70年代に登場したシステム・アート(Systems Art)だ。忘れられたこの概念が再び注目される理由を、その歴史と代表作から読み解く。

池添彰《Robot Stories Around Solar Panels》(2025) Photo: Courtesy the artist and Proyectos Ultravioleta, Guatemala City, Guatemala
池添彰《Robot Stories Around Solar Panels》(2025) Photo: Courtesy the artist and Proyectos Ultravioleta, Guatemala City, Guatemala

1960年代から70年代にかけてアートの世界で次々と生まれた新しい用語の中でも、「システム・アート」はあまり普及しなかった。だが時を経る中で、その意味は深みを増してきている。半世紀前、マスメディアから冷戦下で拡大した軍産複合体に至るまで、種々のシステムが急速に拡大し、さまざまなプロトコル(手順、取り決め)によって地政学や日常生活がそれぞれの規模で組織化され始めた。

今日、そうしたプロトコルはますます増殖している。私たちは世界をエコシステムとして捉え、人種差別や性差別、障がい者差別をシステム的な問題として捉えるようになった。一方で、アルゴリズムやグローバル金融、サプライチェーンは、目には見えないながらも私たち全てに対して、ますます大きな力を振るうようになっている。システム思考がもはや避けて通れないものとなった今、アートは目に見えないシステムを可視化し、それに立ち向かうための重要なツールになったのだ。

システム・アートの誕生と変遷

システム・アートという概念を初めて提唱したのは、美術史家・理論家のジャック・バーナム(Jack Burnham)だ。だが、1968年のアートフォーラム誌への寄稿で彼が取り上げている多くのアーティストは、むしろミニマリストとして広く知られている。ケネス・ノーランド(Kenneth Noland)やロバート・モリス(Robert Morris)、ダン・フレイヴィン(Dan Flavin)は、作品制作への構造化されたアプローチを確立した。彼らはスタジオをシステム化し、ルールや連続性、反復など、決められた手続きに従って作品を作る方法を編み出した。たとえばモリスは、標準化されているが再構成可能なモジュール式ユニットを使用している。つまり、彼らの創造性は「生成における制約」の産物だと言える。こうした方法は冷戦期にプロトコルが存在感を増していた状況を反映し、それを明らかにするものだった。

バーナムが記事でシステム・アートを論じる際に言及したうち、ミニマリストではない人物にハンス・ハーケ(Hans Haacke)がいる。彼はエイドリアン・パイパー(Adrian Piper)と共に、過去と現在のシステム・アートをつなぐ最良の架け橋となった。バーナムがこの概念について初めて論じたのと同じ年、パイパーは幾何学的順列を用いた《Sixteen Permutations of a Planar Analysis of a Square(正方形の平面解析における16の順列)》(1968)を制作している。一方、ハーケはその数年前に、大気循環システムを可視化した《Weathercube(ウェザーキューブ)》(1963)という作品を完成させた。彼は後にこれを再構成し、タイトルを《Condensation Cube(結露キューブ)》に変更している。光、空気、湿気の相互作用で透明な箱の中に結露が生み出されるこの作品は、雲が形成されるプロセスのミニチュア版だ。そして1968年に世界各地で起きた政治的動乱を受け、この2人のアーティストは社会システムへと関心を移し、今日最もよく知られる作品を生み出した。

現在、パイパーはコンセプチュアル・アーティスト、ハーケは制度批判の実践者として位置付けられている。しかし、表現力や主観性──システムはこれらを単なる人為的ミスとして片付けてしまいがちだが──を脱中心化する論理的な手法を用いている点において、この2つはどちらもシステム・アートの大枠の中に収まる。

一世代前の抽象表現主義がアーティスト個人を中心に据えていたのに対し、システム・アートは、地球の大気循環や社会システムなど、何らかの仕組みを視覚化した作品を通じて、(バーナムの言葉を借りれば)アーティストの存在を「解体」させた。たとえば、ミニマリストのドナルド・ジャッドが《100 untitled works in mill aluminum(ミル仕上げアルミニウム製の100の無題作品)》(1982-86)で着目したのは、ある枠組みに従って作られた金属彫刻に反射する光の効果だった。それに対し、ハーケはギャラリーの空気中の湿気から、美術館理事による不正な不動産取引に至るまで、あらゆるものに鑑賞者の注意を向けさせた。アート作品は以前にも増して、物質的な物としてではなく、バーナムが言うところの「人々と、その環境の構成要素との関係性」として理解されるようになっていったのだ。

テキサス州マーファのチナティ財団に設置されたドナルド・ジャッドの《100 untitled works in mill aluminum》(1982–86)。Photo: Douglas Tuck/Courtesy Chinati Foundation, Marfa/©Judd Foundation/Artists Rights Society (ARS), New York
テキサス州マーファのチナティ財団に設置されたドナルド・ジャッドの《100 untitled works in mill aluminum》(1982–86)。Photo: Douglas Tuck/Courtesy Chinati Foundation, Marfa/©Judd Foundation/Artists Rights Society (ARS), New York

ハーケが社会的な題材へ移行したのを示す作品は、1971年の《Shapolsky et al. Manhattan Real Estate Holdings, a Real-Time Social System, as of May 1, 1971(シャポルスキーほかのマンハッタンにおける不動産保有状況、1971年5月1日現在の社会システム)だ。彼は、公文書から引用したテキストと画像で構成されたこの作品を通して、グッゲンハイム美術館の理事がペーパーカンパニーを隠れ蓑に不動産で不当な利益を上げていた実態を暴いた。21世紀に作られたアート作品を見回してみれば、社会システムを題材としたこの手のものがたくさんあることに気づくだろう。

テクノロジー礼賛への反発

システム・アート作品がこれほど多いにも関わらず、なぜその呼び名は廃れてしまったのだろうか? 近年の例を見ると、ある特定のシステムに焦点を当てた展覧会はいくつもある。たとえば、ニューヨークのスイス・インスティテュートで開かれた「Energies(エネルギー)」展(2024)、バッファローAKG美術館の「Electric Op(エレクトリック・オプ)」展(2024)、ロンドンのホワイトチャペル・ギャラリーの「Electronic Superhighway(エレクトロニック・スーパーハイウェイ)」展(2016)などが挙げられるが、これらはほんの一部に過ぎない。

より広範な視点でシステムを捉えようとした主要な展覧会には、2005年にテート・モダンで開催された「Open Systems: Rethinking Art c. 1970(開かれたシステム:1970年前後のアートを再考する)」がある。同展が示していたのは、ミニマリズム作品と政治的なコンセプチュアル作品の双方でシステマチックなアプローチが取られていることだ。

システム・アートという言葉があまり使われなくなった一因は、美術史家のキャロライン・A・ジョーンズが指摘するように、それについて論じた初期のテキストでバーナムが軍事的な比喩を多用したことにあるだろう。冷戦初期にアメリカ陸軍の技師だったバーナムは、テクノロジーには人類を救う力があると主張し、1968年にはすでに人工知能を称賛していた。産業・技術を手放しで讃えるこうした論調は、特にベトナム戦争の最中において、左派が多いアート業界では受け入れられなかった。後にバーナムも自身の論考を見直し、かつてのテクノ・ユートピア主義を否定している。

この言葉が脇に追いやられた理由はもう1つある。それは前述したハーケの《シャポルスキーほか……》の展示中止だ。1971年にグッゲンハイム美術館でハーケの回顧展が開催される予定だったが、その企画の段階でこの作品を見た美術館の上層部が激怒し、展覧会は急きょ取りやめになった。前述の美術史家ジョーンズは、それを次のように評している。

「この一件では、バーナムが予想もしなかった形でアーティストの解体・粛清(liquidation)が実現した。グッゲンハイムの展覧会中止で明らかになったのは、システム・アートが社会の諸システムと融合し、政治的、法的、経済的な力の影響を受けるということだ。展覧会中止はシステム・アートの究極の見本であると同時に、それ以降その名を口にすることが難しくなってしまった出来事でもあった」

システム・アートは、芸術とは何かを定義する社会システムそのものに挑戦状を突きつけ、その結果、芸術として容易に読み解くことができないものになってしまった。そしてそれは失敗ではなく、多くの点でまさに狙い通りの結果だったと言える。

システムの存在を可視化するアート

システムは、単に作品制作の方法としてだけではなく、作品の主題にもなり得る。そして、システムは社会的なものでもある。こうしたハーケの考えは数十年の時を経て、多くの作家たちが依って立つ土台となった。今日では多くの有名アーティストが、巨大かつ抽象的で、しばしば目に見えないシステムを感知させる作品を作ろうとしている。その際に彼らがよく使うのが、システムの途方もない規模を示唆しながら、より理解しやすいレベルにまでそれを縮小して見せる戦略だ。

たとえば、インフラを主要テーマの1つに掲げた今年のホイットニー・ビエンナーレでは、あらゆる分野のアーティストたちが(説得力に差はあるものの)システムに関する作品を出品している。ある者は、政府やテクノロジーの内部構造を明らかにし、それらがいかに人々を操作しているかを示した。またある者は、人間も生態系の一部であり、それゆえにほかの種に対して責任を負うことを表現している。また、広大な宇宙から超微小な量子に至るまで、知覚を超えたスケールで世界の仕組みを示しながら、人間の生のあり方を問う作品もある。この一大潮流は、作風やスタイルというよりも、「目に見えないものをどう表現するか」という永遠の問いに対する何通りもの答えだと言えるだろう。

21世紀に作られた数多くのシステム・アートの中で最も目立つのは、おそらくスクープ報道のようなプロジェクトだろう。トレヴァー・パグレンの「Limit Telephotography(限界望遠写真)」(2005-25)もそうした作品の1つだ。20年にわたって取り組んできたこの写真シリーズでパグレンは、ドローンや超望遠レンズ付きカメラから軍事用のツールまでを駆使し、アメリカ政府が隠そうとしてきた監視拠点を監視した。

こうして撮影された写真は、人里離れた砂漠地帯などにあって一般市民が容易には見ることができないCIAやNSA(アメリカ国家安全保障局)の望遠鏡や衛星関連施設を捉えている。それらは単なる画像ではなく、監視者を監視する行為そのものだ。この作品は、市民に選ばれた政治家よりもデータが大きな力を行使するテクノクラシーへと私たちの社会が移行していることを指摘するとともに、私たちが独自に生成したデータでいかにそれに対抗できるかを示している。 

トレヴァー・パグレンの写真シリーズ「Limit Telephotography」(2005-25)より。Photo: ©Trevor Paglen/Courtesy Altman Siegel, San Francisco, and Pace Gallery
トレヴァー・パグレンの写真シリーズ「Limit Telephotography」(2005-25)より。Photo: ©Trevor Paglen/Courtesy Altman Siegel, San Francisco, and Pace Gallery

一方、エドワード・バーティンスキーが撮影した産業施設の写真は、グローバルなサプライチェーンの巨大なスケールを肌で感じさせてくれる。「Manufactured Landscapes(生産された風景)」(2003-05)というシリーズで鶏肉加工工場の内部を写した写真には、ピンクの作業服を着た作業員の列が視界の限り、画面の外まで続いている。同シリーズの別の作品では、積み上げられた輸送コンテナが周囲の地形を圧倒するほど高くそびえ立っており、地平線の山々がまるでミニチュアのように見える。どこかの港に積み上げられたコンテナの写真を見ると、それらがどれほどの距離を移動するのか思いを馳せずにはいられない。ここで主題となるのはスケールそのもので、意図的に不可視化されているシステムが露わにされる。つまり、それが存在すると知ってはいても、実際に目にしたことも、肌で感じたこともなかったシステムが眼前に現れるのだ。

システム・アートの「功罪」

パグレンやバーティンスキーによる写真のリアリズムとは対照的に、システムを美しく提示する作品もある。洗練されたこれらの作品は、私たちが抵抗感を覚えるはずのものを、魅力的に見せてしまう危険性をはらんでいる。批評家のボリス・グロイスがテートの「Open Systems」展の図録に記しているように、システム・アートにおけるアーティストは、作者というよりは、プロジェクトを指揮するプロデューサーに近い。実際システム・アート作品には、プロデュース過剰に感じられるものがたくさんある。見えないものの視覚化が行きすぎてしまう場合もあるのだ。

オラファー・エリアソンレフィク・アナドルの作品を思い浮かべてみてほしい。エリアソンによる太陽のシミュレーションや公共スペースに設置された氷河の塊は、確かに環境破壊に対する意識を高めるかもしれないが、気候変動問題を「センス良く」見せてしまう弊害もある。また、作品を実現するために必要なエネルギーシステムについては意図的に目が背けられている。

多くのアートファンにとってAIアートとの出会いとなったアナドルの《Unsupervised(教師なし)》(2022)は、AIというツールを新型のおもちゃのように感じさせた。目に見えない倫理的・環境的コストを上手に回避し、ブラックボックスの中をのぞき見るような感覚をもたらすこの作品は、目の前にあるシステム、つまりアルゴリズムが、そのほかのあらゆるシステムから切り離されて単独で存在しているかのように錯覚させる。MoMAの収蔵作品の画像データから絵画もどきを作るよう訓練されたAIが生成した画像を、美術館のロビーの巨大スクリーンに投影したこの作品は非常に美しい。だが、システムの内部を垣間見せるこの作品は美化されたもので、そこにはある種の偽りがある。

パグレンやバーティンスキーが、ボンネットを開けて手を油で汚しながら作業する整備士だとすると、エリアソンやアナドルは洗車業者のようなものかもしれない。前者は機械の仕組みをむき出しにし、後者はそれをピカピカに磨き上げる。

レフィク・アナドル《Unsupervised》(2022-23) Photo: Refik Anadol/©Museum of Modern Art, New York
レフィク・アナドル《Unsupervised》(2022-23) Photo: Refik Anadol/©Museum of Modern Art, New York

アナドルの《Unsupervised》とは対照的なのが、ケイト・クロフォードとヴラダン・ジョラーによる《Anatomy of an AI(AIの解剖)》(2018)だ。スマートスピーカーのAmazon Echoのコマンド1つを実行するために費やされる鉱物資源や労働力、データセンター、水を可視化したこの作品は明快な図で構成され、アートとは程遠い印象を与えるが、その圧倒的なスケールが見る者の心を揺さぶる。展示室全体の壁面を覆うこの作品は、あまりに密度が高く読み解くのが困難なほどで、鑑賞者はその途方もない情報量に気圧されてしまうが、それこそが狙いだ。

規模と本質は混同されやすい。アナドルの試みは、批評家のシアン・ンガイが定義するギミックの典型例でもある。彼女によると、それは過剰なほど必死に何かをしようとしているように見えながら、同時に頑張りが足りないように思わせるという。アナドルのロビーアート・システムは莫大なエネルギーを使って映像を生成していたが、結果として完全に空虚なものに感じられた。

システム・アートにはこうしたリスクが潜んでいる。システムを可視化しようとするあまり、アーティストはそのロジックを再生産してしまい、意味や人間性よりも、規模や効率を優先してしまうことになる。

「スケールダウン」という手法

システム・アートの中で、その力強さを感じさせるものの多くは、スケールダウンによってこのジレンマに対処している。間近で作用している不可視な力を鑑賞者に感知させることがシステム・アートの目的なら、その一部がありふれた日用品にそっくりだったり、あるいは実際にそういう物であるのも納得できる。キャメロン・ローランドやジュマーナ・マンナーアは、目に見えない権力のシステムによって生み出されたオブジェを展示室に置き、鑑賞者にその来歴について考えさせる。つまり、日常生活に残された政治システムの物質的痕跡を示すのだ。

美術館と奴隷労働の接点を示す作品で知られるローランドは、2020年にロンドンのインスティテュート・オブ・コンテンポラリー・アーツ(ICA)で開催された展覧会で、ICAにあるマホガニー製のドアや手すりに焦点を当てた。このマホガニーは、カリブ海地域での強制労働によって得られた木材だ。一方、マンナーアが展示した曲がりくねった陶器のパイプは、パレスチナの農業や灌漑システムを参照している。何にも接続されず単独で展示されているパイプは古代から現代までの水道や下水システムに言及しつつ、占領下のパレスチナで破壊されたまま放置されたインフラを想起させる。それらが間接的に示すのは、都市を居心地の悪い、あるいは住めない場所へと変えてしまうイスラエルの入植者の手法だ。この2人のアーティストは、何かの一部で全体を表す換喩の手法を使ってシステムを表現している。

キム・アヨン《Delivery Dancer’s Sphere》(2022) Photo: Courtesy Ayoung Kim Studio Ayoung Kim Studio
キム・アヨン《Delivery Dancer’s Sphere》(2022) Photo: Courtesy Ayoung Kim Studio Ayoung Kim Studio

キム・アヨンの「デリバリー・ダンサー」三部作(2022-24)は、個人のスケールでシステムを描いている。1人の人間としてではなく、単なる歯車として扱われがちなギグワーカー(単発請負)の配達員が登場するこれらの映像作品では、テクノロジーと経済の2つのシステムがぶつかり合ったとき起きること、つまり世界に対して不十分な理解しかないアプリがそれを操作する人間に権力を振るう状況が展開する。

配達員はアルゴリズムに従ってソウル市内を駆け回るが、ナビゲーション・アプリはその全過程をシンセサイザー風の効果音で彩られたゲームのように扱う。このアプリは2次元でしか世界を捉えられないため、起伏のある地形を平坦な場所と同じように素早く移動できなかった主人公はペナルティを課される。そして、効率というテクノロジーの幻想が現実の生々しい物理世界と摩擦を起こすにつれ、SF的な光景の中から写実主義的な労働者の肖像が浮かび上がってくる。

ジュマーナ・マンナーアの「Water-Arm Series」より《L-section》(2018)。2021年にロッテルダムのTENTで開催された「To Be Like Water」展にて。Photo: Aad Hoogendoorn/Courtesy TENT, Rotterdam/©Jumana Manna
ジュマーナ・マンナーアの「Water-Arm Series」より《L-section》(2018)。2021年にロッテルダムのTENTで開催された「To Be Like Water」展にて。Photo: Aad Hoogendoorn/Courtesy TENT, Rotterdam/©Jumana Manna

個人どころか、素粒子のレベルまでさらにスケールダウンしているのが、コンスタンティナ・ザヴィツァノスだ。鏡とレーザーによる量子干渉計という装置やホログラムを用いた彼女の彫刻は、独立性を重んじる私たちの考え方が根本的に間違っているのではないかと問いかけている。量子物理学によれば、粒子はバラバラに存在するのではなく、もつれ合う状態にある。万物はつながっているというその論理をザヴィツァノスは拡張させ、2つに分割されたものは、半分ずつになるのではなく、2つに増えることもあると示している。たとえば、ホログラムを半分に切ると2つの像が生まれるように。こうした現象を鑑みて、人間も互いの扱い方を問い直すべきではないだろうか?

上で紹介したプロジェクトはどれも、スケールを変えることでシステムによる抽象化と人間性の剥奪で社会から失われた共感を取り戻そうとしている。

ミニマリストから受け継がれたもの

ラザフォード・チャンとアラン・ルイスという2人のアーティストは、ミニマリストの先駆者たちの戦略を借用しながら社会システムと対峙することで、過去から現在に至るシステム・アートの系譜を意識的に辿っている。現在北京のユーレンス現代美術センター(UCCA)で回顧展が開催されているチャンは、昨年45歳の若さでこの世を去った。チャンの作品には四角形や立方体が多いが、彼の手にかかると、その形は中立的でも、白紙でも、抽象的でもなくなる。

たとえばビートルズが1968年に発表した『ホワイト・アルバム』の初回プレス盤をすべて買い集めようとした《We Buy White Albums(ホワイト・アルバム買います)》(2013-25)というプロジェクトがある。リチャード・ハミルトンがデザインした白い正方形のジャケットで知られるアルバムは、チャンが死去した時点で当初彼が目指していた300万枚の1パーセントが集まっていた。

それらを見ると、消費者にとって、このジャケットが真っ白なカンバスだったことが分かる。鑑賞者が自由に閲覧できるようラックに並べられたアルバムの1枚1枚には、擦り傷や値札など流通の痕跡が刻まれているだけでなく、詩や落書きが書き付けられたものもあり、まるでジャケットが自らの空白を埋めてくれと懇願しているかのようだ。ビニール包装されたままのものも含め、ここに並ぶレコードはいくつもの価値体系を潜り抜けてきた。落書きや傷みのせいで、それらはもはや新品同様とは言えないが、チャンの介入によってその全部がアートへと変容している。

ラザフォード・チャン《We Buy White Albums》(2013-25) Photo: Courtesy Estate of Rutherford Chang
ラザフォード・チャン《We Buy White Albums》(2013-25) Photo: Courtesy Estate of Rutherford Chang

ビートルズも、落書きをした人々も、自分たちが生み出したものをアートだと捉えていたに違いない。だが「ハイ」アートと「ロウ」アート、視覚芸術と音楽は、商品・流通システムの中でそれぞれ別のカテゴリーに振り分けられ、異なる価値が付けられる。それら全てを美術館の中で混ぜ合わせるこの作品の背後には、さらに別の価値体系がある。チャンはアーティストとして活動しながら家族が経営する台湾のテクノロジー企業で働き、出張の多いビジネスマンとして日頃から金融、テクノロジー、そしてグローバルなシステムと向き合っていた。そうした中で彼は、こうした流通システムを喚起させながらも人間性とユーモアを前面に押し出す方法をアートを通して見つけ、立方体や正方形の形を取ることの多い自作に温かみを吹き込んでいる。

ニュースクール大学でシステム・アートを教えるアラン・ルイスも、この夏ロングアイランド東部の美術館、ディア・ブリッジハンプトン(*1)で、システムの社会的な側面に光を当てた個展を開催する。建築を学んだ彼は展示場所の環境を利用し、2階に並ぶダン・フレイヴィンの蛍光灯作品の手法を再構築しようとしている。それは、古き良きアメリカの家を囲む白いフェンスを思わせる作品で、ロングアイランドのラテン系労働者が置かれた状況を描くものだ。フレイヴィンにとって蛍光灯は純粋な光と線だった。しかしルイスの作品は、蛍光灯が労働時間を夜間にまで延長し、資本に奉仕するために設計されたものであることを私たちに思い出させる。

*1 ディア財団が運営するディア・ブリッジハンプトンは、1983年にダン・フレイヴィン・アート・インスティチュートとして開館。ダン・フレイヴィン作品の常設展示のほか、企画展も見られる。この美術館があるロングアイランド東部はマンハッタンの富裕層が避暑に訪れるビーチ沿いの別荘地として知られている。

この展覧会では、壁に取り付けられた銀色の半球も展示される。これは水中に設置してプールの内部を照らすライトなのだが、プール掃除よりも美術史に詳しい人にとっては、ミニマル・アートの彫刻に見えるかもしれない。この美術館があるハンプトンズ一帯は今も富裕層(別荘族)と貧困層(そこで働く労働者)に分断されており、ルイスはこの作品でその双方に言及している。さらに、ロングアイランド東部でICE(移民関税執行局)が行った強制捜査を太陽の軌道と重ねたドローイング作品では、会場の近くにICEの収容施設が2カ所(1つはオフィスビルからの転用が進んでいる)あることが示される。ICEの暴力を表現する方法として、遠回しすぎると思う人もいるかもしれない。しかし、ルイスが私に説明してくれたように、「絵として描けないものもある」のだ。

システム・アートにおけるユーモアと人間性

ディア財団は、設立当初はミニマル・アートに特化していた。やがて間口を広げ、より社会的なプロシージャー・アート(*2)を取り上げるようになり、最近はキャメロン・ローランドや謝德慶(シェ・テチン)といったアーティストの展覧会を開いている。昨年からディア・ビーコンで始まった謝の長期回顧展では、彼が1年間にわたって続けた有名なパフォーマンスの写真が展示されている。労働と官僚主義のロジックをとことん遵守するあまり、不条理にすら見える作品だ。

*2 決められた手順(ルールやアルゴリズム)に従って制作されるアートで、完成した彫刻や絵画そのものよりも、素材が変化していく過程や身体的な行為、偶然性に焦点が当てられる。

《One Year Performance 1980-1981(Time Clock Piece)(1年間のパフォーマンス 1980-1981 [タイムレコーダー])》(1980-81)というこの作品で、謝は1年にわたり1時間ごとに勤怠管理用のタイムカードを押し、それを証明する写真を撮影した。1日24時間、週7日、休むことなく続けられたこのパフォーマンス作品を記録し、一列に並べられた写真は、彼の髪が伸びていく様子を除けばどれもほぼ同じに見える。それは、私たちの労働と生活を支配している時間──広義には定量化可能な指標──と向き合った真摯な実践であると同時に痛烈なパロディでもある。

システムに関して言えるのは、それがどれだけ世界に秩序を押し付けようとしても、合理性の及ばないところが多々残るという点だ。システム的な思考を正面から取り入れた作品づくりをするアーティストがいる一方で、システムのロジックを愚直に守り、一切の妥協なくそれを突き詰めた結果として起きる論理崩壊を作品化するアーティストもいる。

アグニェシュカ・クラントの作品は、データや論理、アルゴリズムを使って世界を予測し、コントロールしようとする恐ろしくも不条理な営みを描き出している。彼女の「Risk Landscape(リスク・ランドスケープ)」(2024-)シリーズでは、データサイエンティストや災害モデリングの専門家の協力の下、企業が災害リスクを軽減した事業計画を立てるための諸評価をホログラムで表現した。コンサルタントや企業は、気候、金融、社会不安、戦争などのデータを用いて資産計画を立てようとする。クラントはAIを用いてパラメータを設定し、これらのデータを可視化した。その結果生まれたのは、見る角度によって抽象的な形が変化する、色とりどりのホログラムだった。利益のためにいくら先を読もうとしても、結局のところ未来は不安定だということをそれは表している。

権力者の多くは、定量化が可能なデータに過大な信頼を寄せている。本当にそれが有用かどうかとは関係なく、定性的なものよりスプレッドシートに入力しやすいからだ。その背後に論理とデータがなければ、クラントの混沌としたホログラムは占い師の水晶玉のように見えただろう。だが、まさにそれこそが彼女が伝えたいことなのだ。

ワリッド・ラード/アトラス・グループ「My neck is thinner than a hair」シリーズより。Photo: Courtesy Paula Cooper Gallery, New York/©Walid Raad
ワリッド・ラード/アトラス・グループ「My neck is thinner than a hair」シリーズより。Photo: Courtesy Paula Cooper Gallery, New York/©Walid Raad

ワリッド・ラードもまた「My neck is thinner than a hair(私の首は髪の毛1本より細い)」のような作品で、定量的なものや機械的な測定で得られた数値への執着を取り上げている。彼の主張によれば、この作品は1975年から91年にかけて続いたレバノン内戦中にベイルートで起きた自動車爆弾テロのあらゆる現場を1つ残らず写真に収めたものだという。もしそれが本当なら、このプロジェクトはラードがまだ子どもだった頃に始められていたことになる。

彼が戦争で荒れ果てたベイルートを、家にあったカメラで撮影して回ることでキャリアをスタートさせたのは確かだが、それでも疑問は拭えない。幼い少年が、いかにしてこれほど包括的にこれらの出来事を記録できたのだろうか? そう考えていくと、大人たちに関しても同様の疑問が湧いてくる。彼らはどうやってこれらの出来事を正確に捉えてきたのだろうか? どんなデータや道具を使って? そして誰がそれを検証できるのだろう? 架空の組織「アトラス・グループ」の名義でこの作品を発表しているラードが仕掛けた罠にはまった、と気づいた瞬間に笑いが込み上げてくるが、同時にその作品はまったく笑えない。無数の自動車爆弾による被害やその背後にある動機、そして瓦礫の中の子どもに思いを馳せると背筋に寒気が走る。

ラードがここで提示しているのは、情報化時代における一種のシュルレアリスムだ。体系的でデータに基づいていながら、同時に無意味なものが今はいくらでもある。たとえば、文法的には正しくても、まったく意味をなさないAIの文章などがその典型だろう。ラードの作品が主題としている戦争もまた、高度に体系化されている一方で、その正当化には論理的な曲芸を要する。

ホイットニー・ビエンナーレに出展されている池添彰の絵の中では、芸術的、社会的、生態学的、そしてエネルギー的なシステムが、工場の組立ラインのような図式的なループの中で絡み合っている。しかし、目を凝らしてそのロジックを追おうとすれば、それがカオスであると気づくはずだ。いくつものシステムが相互につながっていることはわかるが、その仕組みは必ずしも明らかではない。《Robot Stories Around Solar Panels(太陽光パネルの周りのロボット・ストーリーズ)》(2025)という作品では、ロボットたちが忙しそうに動き回っている。彼らはロボットのヴィーナスをモデルにしたボッティチェリ風の絵画を描いてから印刷機を操作し、ソーラーパネルを設置しているが、それぞれの作業の間に一体どんな関連性があるのだろうか?

池添が取っているユーモラスなアプローチの中には、目立たないながらも力強いメッセージが潜んでいる。システム・アートを巡る議論の土台を築いたアートフォーラム誌の記事で、バーナムはシステム理論について「今も昔も人が生きていく中で避けて通れない精神的苦痛や曖昧さに抵抗しようとする、科学によるもう1つの試みかもしれない」と書いていた。そしてアートは、まさにそのような曖昧さに耐えるために使えると彼は主張している。文学研究者のモース・ペッカムを引用しながら、アートは「認知的緊張を耐え抜くことが生存に不可欠となる現実的な状況」に向けて私たちが備えるための「予行演習」になると彼は主張する。システムは必ずしも曖昧さを排除せず、多くの場合は単にそれらを隠蔽しているだけだ。システム特有の方法論を駆使してシステムの仮面を剥ぐラードや池添の作品が示唆するように、図表はコスチュームとして使える。

システムの影響力にいかに抵抗するか

しかし、ひとたびシステムが崩壊するのを目撃したら、その構成要素を使って自由に遊べるようになる。人間に機械の歯車のような無力感を抱かせるよう設計されているシステムもあるが、多くはその設計者が私たちに信じ込ませようとしているほど完璧ではない。

そのことを気づかせる作品が、やはりホイットニー・ビエンナーレに出展されている。デイヴィッド・L・ジョンソンの《Rule(規則)》(2024-)というこの作品は、私有地となった公共スペースから取り外してきた注意書きを並べたもので、そこには「スケートボード禁止」「喫煙禁止」「物乞い禁止」「野宿禁止」「寝泊まり禁止」といった規則が記されている。ホイットニー・ビエンナーレのレビューにも書いたが、彼はこの作品でニューヨークの公共スペースが次々と私有地になっていることを観客に示しながら、その状況に介入している。看板がなくなれば、そこに記された規則はもはや強制力を持たなくなるからだ。

デイヴィッド・L・ジョンソン《Rule》(2024-) Photo: Roberto Marossi
デイヴィッド・L・ジョンソン《Rule》(2024-) Photo: Roberto Marossi

マイケル・ワンもサイトスペシフィックな展覧会「Extinct in New York(ニューヨークでは絶滅)」(2019)でこれと似た手法を使っている。彼は、かつてニューヨーク市に自生していたものの現在は見られなくなった植物や藻類、地衣類を「故郷」へと連れ戻した。ワンがガバナーズ島(*3)の温室で展示したボグ・ゴールデンロッド(アキノキリンソウの仲間)、霧藻、トクサは、過度な開発と汚染のため今のニューヨーク市では育つことができない。そう考えると、この温室は戦場に設営された生命維持システムのテントを彷彿とさせる。確かに私たちは、これらの生命体を衰退させたかもしれない。だがこの作品は、人間が生み出したツールや生態系に対する絶大な影響力を悪用するのではなく、善をなすために使うことで、それらを存続させることができると示唆している。

*3 マンハッタンの南端の先にあり、元はネイティブ・アメリカンが居住していた島。オランダ西インド会社の拠点、イギリス総督邸や南北戦争時の南軍兵士の監獄を経てアメリカ陸軍の駐屯地となり、95年に軍事利用が終了した。その後、住宅地にはしないという条件で2003年にニューヨーク市に譲渡されている。2023年に当時のニューヨーク市長、エリック・アダムスの主導で気候危機を専門に扱うリビング・ラボが設立された。

ジョンソンとワンのこうした介入は、ハーケの1972年の作品《Rheinwasseraufbereitungsanlage(ライン川浄水装置)》と通じるものがある。この作品は、戦後の工業化によって重金属や有害な化学物質で汚染されたドイツのライン川の水質に光を当てたものだ。ハーケは、濁ったライン川の水をろ過システムを通してクレーフェルト美術館内へと引き込み、浄化された水が滴り落ちる展示室の水槽には魚たちが元気に泳ぎ回って水の安全性を証明していた。

ハーケは人新世(*4)という言葉が提唱される以前のこの時期から、その概念を作品化していた。もはや自然環境と人為的環境は別々には捉えられない(私たち人間も動物であり、私たちが生み出した汚染や混乱はあらゆる場所に広がっている)と彼は主張し、環境問題をどう解決すべきか──あるいは少なくともどう介入すべきか──を示していた。それ以上にハーケは、アートと外界を隔てる制度的な壁を無効化することで、政治とアートが相互に絡み合っていることを浮き彫りにしていた。その壁は、制度と生態系を分離するように、象徴的な行為と物質的な行為を隔てている。しかし、どんなシステムも単独では存在せず、全てはつながっている。

*4 人間の活動が地球の生態系や気候に大きな影響を及ぼすようになった時期を指す地質時代区分。大気科学者のパウル・クルッツェンが2000年に提唱した概念。

ハンス・ハーケ《Rheinwasseraufbereitungsanlage(ライン川浄水装置)》(1972) Photo: Courtesy Paula Cooper Gallery, New York/©Hans Haacke/Artists Rights Society (ARS), New York/VG Bild-Kunst, Bonn
ハンス・ハーケ《Rheinwasseraufbereitungsanlage(ライン川浄水装置)》(1972) Photo: Courtesy Paula Cooper Gallery, New York/©Hans Haacke/Artists Rights Society (ARS), New York/VG Bild-Kunst, Bonn

システム・アートが広まるにつれ、その使命の重みは増している。そして、目指すべき方向を示す先駆けとなったのが、ハーケの《Rheinwasseraufbereitungsanlage(ライン川浄水装置)》だ。目に見えないシステムが遍在し、強い力を振るっていることを知らしめる段階は終わった。今問われているのは、システムが私たちに植え付けようとする諦念に、いかに抵抗するかだ。最も勇気づけられるシステム・アートは、単にシステムを図解したりその秘密を解き明かしたりするだけではない。それをこじ開け、あなたにレンチを手渡してくれる、そんな作品だ。(翻訳:野澤朋代)

from ARTnews

あわせて読みたい