ホイットニー・ビエンナーレ2026が問う、世界的「社会システムの危機」とアートの応答

第82回のホイットニー・ビエンナーレが、ニューヨークホイットニー美術館で開幕した(8月23日まで)。アメリカで最も歴史あるこの現代アートの祭典に、今回は56組のアーティストが参加している。最前線のアート作品とその背後にある問題意識をUS版ARtnewsがレビューした。

カルメン・デ・モンテフローレス《Four Women》(1969) Photo: ©Carmen de Monteflores. Photo Philip Maisel. Courtesy the artist
カルメン・デ・モンテフローレス《Four Women》(1969) Photo: ©Carmen de Monteflores. Photo Philip Maisel. Courtesy the artist

今年のホイットニー・ビエンナーレは、歴史家のダニエル・イマヴァールが著書『帝国の隠し方』の副題に用いた「the greater United States(大アメリカ合衆国)」という用語に光を当てている。これは合衆国の50州だけでなく、占領地や併合地、軍事基地、海外領土を含む全領域を指す概念だ。第2次世界大戦後、当局は「植民地」や「帝国」という表現を意図的に避けてきたとイマヴァールは指摘する。だがそれは、単に言葉の上だけのことだ。

アメリカ合衆国が建国250周年を迎える2026年、長きにわたってこの国におけるアートの最新動向を捉え、多くの議論を巻き起こしてきたホイットニー・ビエンナーレは、あえて「ロゴ・マップ」の枠を超えてアメリカを見ようとしている。これもイマヴァールが用いた言葉で、アメリカ合衆国と聞いて多くの人々が思い浮かべる地理的な形状を指している。

キュレーターのマルセラ・ゲレロとドリュー・ソーヤーが選出したアーティストたちのルーツは、アメリカの駐留・占領下にあった沖縄ベトナムイラクアフガニスタンに加え、政治的な秘密工作が繰り返されたチリ、現在および過去の領土であるプエルトリコやフィリピン、そして今もアメリカが資金援助を続けるジェノサイドの対象であるパレスチナなど実に多様だ。こうした視座はタイムレスであると同時にタイムリーでもある。まさにこの記事を執筆中、通知音が鳴ったのでスマホを見ると、イスラエルとアメリカによる空爆でイランの最高指導者アリ・ハメネイ師が殺害されたというニュースが表示されていた。

ところで、何度も繰り返されてきた議論をここで蒸し返さないよう、最初に明確にしたいことがある。今回のホイットニー・ビエンナーレで重要なのは、アーティストの出身地という地理的要素だけではなく、アイデンティティ・ポリティクスからインフラストラクチャー・ポリティクスへシフトする必要があるという問題提起だ。なぜなら、アイデンティティは可視化されるだけでは政治にならず、それが人々の連帯や運動を通じて組織化され、制度やインフラといった現実の条件の変化へと接続されて初めて、効力を持つからだ。この点に民主党は注意を払うべきだろう。

社会の諸システムを題材とした作品群

ビエンナーレの参加アーティストたちは、世界各地の社会基盤となっている諸システムを作品で取り上げている。それは、経済システム(イグナシオ・ガティカ、ジョシュア・シタレラ)、信仰体系(ザック・ブラス)、家族制度(アンドレア・フレイザーとその母、カルメン・デ・モンテフローレス)、エコシステム(バゼル・アッバス&ルアン・アブ=ラーメ、カイノア・グルスペ、エリン・ジェーン・ネルソン、ケリー・アカシ)、エネルギーシステム(アッシュ・アーダー、池添彰)、グローバルサプライチェーン(CFGNY、アジズ・ハザラ)、医療制度(クーパー・ジャコビー)、組織制度(マイア・チャオ、アンドレア・フレイザー、ナイル・ハリス&ダイアー・ローズ)、法制度(ジョーダン・ストレイファー)、価値体系(キモワン・メチェワイス)、公共インフラ(デイヴィッド・L・ジョンソン、エミリオ・マルティネス・ポッペ、モー・コステロ)など多岐にわたる。

そしてネタバレになってしまうが、これらのシステムはどれも崩壊しつつある。

イグナシオ・ガティカ《Sanhattan》(2025)の一場面。Photo: Courtesy the artist
イグナシオ・ガティカ《Sanhattan》(2025)の一場面。Photo: Courtesy the artist

一方で、ゴキブリのようにしぶといシステムが2つある。1つはアルゴリズム(ザック・ブラス、ミシェル・ロペス、クーパー・ジャコビー)で、もう1つは帝国というシステムだ(イグナシオ・ガティカ、アジズ・ハザラ、石川真生、そして恩田晃とホセ・マセダ)。後者は、ビエンナーレを構成する「地理」と「社会基盤」の両テーマを橋渡しするバックボーンとなっている。

たとえば、イグナシオ・ガティカは《Sanhattan(サンハッタン)》(2025)というドキュメンタリー映像作品で、チリの首都サンティアゴの金融街を題材にしている。サンハッタン(サンティアゴのマンハッタンを意味する造語)と呼ばれるこの地区は、まるで遊園地のびっくりハウスの鏡に映し出されたようなマンハッタンのコピーで、先住民の女性を解放する女神像やクライスラー・ビルを思わせる摩天楼、グッゲンハイム美術館に似たらせん状のショッピングモールなどが立ち並ぶ。これらの建造物から浮かび上がってくるのは、アメリカがチリを新自由主義の実験場とした干渉の痕跡だ。

アジズ・ハザラ《Moon Sightings》(2024)の一部。Photo: ©Aziz Hazara. Courtesy the artist and Experimenter Kolkata/Bombay
アジズ・ハザラ《Moon Sightings》(2024)の一部。Photo: ©Aziz Hazara. Courtesy the artist and Experimenter Kolkata/Bombay

アジズ・ハザラの《Moon Sighting(ムーン・サイティング)》(2024)は、暗視カメラによるぼやけた写真のシリーズ作品だ。ムーン・サイティング(イスラム教で新月を肉眼で確認する行為)というタイトルを頼りに緑と紫の線で彩られた作品に目を凝らしたものの、撮影が難しいその状態の月は見当たらなかった。湾岸戦争時に導入された暗視装置は、いったい何を捉え、何を隠蔽するのだろうか? 曖昧さは「もっともらしい否認(*1)」を可能にするが、ハザラはそれこそがアメリカの常套手段だと指摘し、出身地のカブールもその戦略によって壊滅的な打撃を受けたと図録の中で記している。

*1 決定的な証拠がないことを盾に自らの関与を否定すること。

プレシャス・オコヨモン《You have got to sometimes become the medicine you want to take》(2025) ©Precious Okoyomon. Photo Markus Tretter. Courtesy the artist
プレシャス・オコヨモン《You have got to sometimes become the medicine you want to take》(2025) ©Precious Okoyomon. Photo Markus Tretter. Courtesy the artist

通常は意識することのない社会基盤──大抵はそれが機能不全に陥ったときに初めて気づく──を可視化できるのがアートだ。ホイットニー・ビエンナーレの参加アーティストたちは、こうした社会システムを人間の感覚へ落とし込んだ作品を提示している。たとえばスン・テウの作品は、(水質汚染などが懸念される)水圧破砕法で採掘を行うアメリカ各地の油田から発せられる危険信号を、鑑賞者が体で感じられる振動に変換している。

また、バゼル・アッバスとルアン・アブ=ラーメの没入型ビデオインスタレーションは、ガザにおける虐殺を数字ではなく個人の視点から語るものだ(とはいえ、240人以上のパレスチナ人ジャーナリストがイスラエルによって殺害された今では、情報を得る際に報道より個人の体験談に頼るほかないケースも増えている)。システムという言葉には冷徹で合理的な響きがあるが、このビエンナーレでは人々がそれをどう受け止め、その中でどう生きているかを示すことに力点が置かれている。

とはいえ、世界は悪に覆われていて絶望しかないと主張されているわけではない。遊び心に溢れ、ふてぶてしく、さらにゲレロの言葉を借りれば「野性的」な作品が随所にあり、観客をホッとさせ、楽しませてくれる。その好例がパット・オレズコの空気で膨らませた道化師の立体作品や、プレシャス・オコヨモンとCFGNYによる可愛らしくも考えさせられるぬいぐるみ作品だ。会場を回りながら、私はネット空間でよく経験する感情の揺れを感じた。虐殺の場面と愛くるしい動物の映像が交互に現れる中、どちらに対する感情も共存し得るのだと思うことで正気を保とうとする感覚だ。

エミリー・ルイーズ・ゴシオー《Co-Shaping One Another with the Moon》(2025) Photo: ©Emilie Louise Gossiaux. Photo Charles Benton. Courtesy the artist and David Peter Francis, New York
エミリー・ルイーズ・ゴシオー《Co-Shaping One Another with the Moon》(2025) Photo: ©Emilie Louise Gossiaux. Photo Charles Benton. Courtesy the artist and David Peter Francis, New York

「ケア」がもたらす救いと問題点

一方、モー・コステロ、アゴスト・マチャド、エミリー・ルイーズ・ゴシオーの作品に共通するのは、ケアを通じた関係性という心を揺さぶられるテーマだ。ゴシオーは、視力を失ってから編み出した技法を使ったシリーズで、今は亡き盲導犬のロンドンに愛情あふれるオマージュを捧げている。彼女はロンドンと支え合って暮らした様子を描いた絵のほか、100個のペット用玩具を使って愛犬のための遊び場を制作している。犬たちの天国はきっとこんな様子だろうと思わせる作品だ。

1980~90年代にエイズに罹った友人たちを看取ったマチャドは、彼らのための祭壇を制作。また、写真や書類といった友人たちの遺品を保存するため、心温まる聖遺物箱も作っている。孤児でクィアであるマチャドは、核家族や国家という枠組みの外にケアの担い手がいることの重要性や、記憶されたい、誰かにとって意味のある存在でありたいという願いを誰よりも深く理解している。だからこそ、亡くなった人々の人生の痕跡を、アート作品という形で残そうとするのだ。

アゴスト・マチャド《Ethyl (Altar)》(2024) Photo: © Agosto Machado. Courtesy the Whitney Museum of American Art
アゴスト・マチャド《Ethyl (Altar)》(2024) Photo: © Agosto Machado. Courtesy the Whitney Museum of American Art

別の展示室には、私が知る限り最も感動的な家族の肖像の1つがある。制度批判のアイコンとして知られるアンドレア・フレイザーが自作とともに出展したのは、母カルメン・デ・モンテフローレスが手がけた見事な作品だ。人物像や顔が絡み合うように描かれた彼女の鮮やかな切り絵は、何十年も倉庫に眠っていた。これを見た来場者は、フレイザーがなぜあれほど徹底的に美術界の制度批判をするようになったのか納得するだろう。褐色の肌を持つ女性だった彼女の母は乗り越えがたい障壁に直面し、画家として生きていくのを断念した。このビエンナーレでも指折りの素晴らしい作品を生み出したデ・モンテフローレスが、そうした運命を辿ったのは悲劇だとしか言いようがない。

図録の中には、自分のこれまでの活動は母に対する扱いへの「リベンジ」だったかもしれないというフレイザーの言葉がある。同じ場所に並ぶ自身の作品は、コンセプチュアル・アーティストであるフレイザーにしては珍しいもので、幼児が眠る姿を模った彫刻がいくつものガラスケースの中に一体ずつ置かれている。これが体現するように、近年フレイザーは、販売可能な作品を作りたいと考えるようになったと明かしている。その理由は、「必要とされ、評価され、大切にされたい」からだ。また、「無条件の愛」が欲しいからだと言うが、彼女が欲しているのは市場なのだろうか、それとも母親なのだろうか?

この問いにこそ、今回のホイットニー・ビエンナーレの核心がある。それはつまり規模の問題だ。私生活においては、(根っからのナルシストは別として)ほとんどの人が周囲の人たちと助け合いながら生きていくことができる。だがスケールを拡大し、ケアをシステム化すると、しばしば残酷さと非人間性が生じてしまう。

この現象を表現しているのが、時間の経過をカウントする機能が付いたクーパー・ジャコビーのシュールな作品だ。それは、「健康な人」を料金面で優遇するために保険会社が契約者に受けさせる「生物学的年齢テスト」を思い起こさせる。官僚的な仕組みとテクノロジーが織りなす健康保険のシステムは、病人から人間性を剥奪する。疾患のある人に高い料金を請求する保険会社にも、契約者のことを気にかけ、助けようとする従業員がいるかもしれない。だがそのシステムは、機械のような組織の仕組みから彼らが逸脱しないよう、あらゆる手段を講じている。

また、私的なケアが理想化されすぎているという問題もある。多くのケアワークが無報酬で行われる一方で、社会的資本がない人々はケアを受けられない。つまり、女性的な仕事と見なされ、特定の人種に負担が偏り、階級の不平等や搾取が蔓延るケアの分野もまた制度的な問題を抱えており、現状では水圧破砕法による環境破壊や大量虐殺、帝国主義に対抗できるような力を持っていないのだ。

システムへの隷従に対する問題提起

では、こうした有害な諸システムに私たちはどう対処していくべきなのだろうか? アートとファッションの両分野で活動するコレクティブ、CFGNYのメンバーのダニエル・チュウは、「全てが大なり小なりシステムに組み込まれているという認識を皆が共有していると思う」と言い、力とは「システムを破壊することではなく、その中で生き残り、うまく切り抜けていくこと」ことだと付け加えている。彼らの生存戦略は、端的に言えばコラボレーションだ。

私も彼の言うことに賛同はする。だが、その提案が最適解だとは思えない。チュウの言葉には妥協と現実主義が滲んでいる。確かに、問題に直面したときに身近な仲間たちと助け合えれば、生き残りを図ることができるだろう。それは非常に重要なことだ。しかし私は、より大きなスケールで問題を捉え、革命の可能性を探る作品こそ刺激的だと思う。アートは、大きな夢を見ることができる稀有な空間なのだから。社会基盤の崩壊に救いを見出せるとしたら、どんな帝国も必ず滅びると気づかせてくれることではないだろうか。

キモワン・メチェワイスの「Self-portraits」シリーズより《Untitled》(1998)。Photo: ©National Museum of the American Indian. Courtesy the National Museum of the American Indian Photo Services
キモワン・メチェワイスの「Self-portraits」シリーズより《Untitled》(1998)。Photo: ©National Museum of the American Indian. Courtesy the National Museum of the American Indian Photo Services

エミリオ・マルティネス・ポッペは、ケアを社会参加の視点から考察している。写真とテキストで構成される彼の作品には、バスの運転手や清掃作業員など、フィラデルフィアのブルーカラーの公務員の肖像が並ぶ。被写体となったこれらの人々は、自らが住む街に主体的に働きかけられる立場になって初めて、それまでとは異なる角度で街を見つめ直し、変化を起こせるようになったという。

こうした社会基盤への介入を、最もロジカルかつ解放的な方法で行っているのはデイヴィッド・L・ジョンソンだろう。彼の作品は制度を逆手に取りながら、その基盤に亀裂を生じさせる。ジョンソンは今回のビエンナーレで、ニューヨーク各所の私有地にある広場などから規則が記された看板を撤去するプロジェクトを実施した。

スケートボード禁止、喫煙禁止、物乞い禁止、野営禁止、就寝禁止──ホイットニー美術館に並ぶこれらの看板は、ニューヨークの街でじわじわ進む私有化に注意を向けさせると同時に、看板に記された規則を無効化している。規則が表示されていなければ、人々にそれを守らせることはできないからだ。システムは、無意識に従う以外の選択肢はないと私たちに信じ込ませようとする。だがジョンソンは、断固として主体性を持つように訴えかけているのだ。(翻訳:野澤朋代)

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