現実は誰の視点で語られるのか──「アルフレド・ジャー あなたと私、そして世界のすべての人たち」【EDITOR'S NOTES】
私たちが目にしている現実は、本当にひとつなのか。東京オペラシティ アートギャラリーに展示されているアルフレド・ジャーの作品は、言葉や報道写真の視点の偏りを示しながら、見る者の立場を静かに問い返してくる。

世界に現実はいくつ存在するのだろうか。東京オペラシティ アートギャラリーで開催中の「アルフレド・ジャー あなたと私、そして世界のすべての人たち」を観て、改めてそんなことを思った。
本展覧会の冒頭には、1987年にニューヨークのタイムズ・スクエアで上映された《アメリカのためのロゴ》が展示されている。広告の合間に挿入される公共プログラムの一環として制作された本作には、アメリカ合衆国の地図や国旗の上に「THIS IS NOT AMERICA(これはアメリカではない)」「THIS IS NOT AMERICA’S FLAG(これはアメリカの旗ではない)」といった言葉が表示され、やがて画面にはアメリカ大陸全体が映し出される。「アメリカ」という言葉は本来、大陸全体を指すはずの言葉だ。しかし現実には、合衆国のみを示すものとして用いられることもある。ジャーはそのずれを示すことで、言葉が無意識のうちに作り出してきた境界や排除の構造を静かに浮かび上がらせる。
「現実」を形づくる視点
本展に通底しているのは、こうした単一化された現実への疑義だ。言葉の定義や画像の切り取りは、いつも誰かの現実を強調し、別の誰かを見えにくくする。私たちが当然のものとして受け入れている言葉やイメージの背後には、常にそれ以外の視点や異なる真実も潜んでいる。
そのことを端的に示すのが、「ゴールド・イン・ザ・モーニング」シリーズだ。ブラジルのセーラ・ペラーダ金鉱を撮影した作品のひとつでは、写真を収めたライトボックスが壁側を向いて設置されている。鑑賞者はその前に置かれた鏡を通して像を覗き込まなければならない。そこでは、鉱山労働の過酷さを記録した「証言写真」を見ているはずの視線に、自らの姿が重なり込む。これにより、写真は単なる記録ではなく、見るという行為そのものを巻き込む装置へと変わる。私たちは一方的に現実を見る存在ではなく、その現実の構築に関与する位置に立たされるのだ。そしてこの問題は、報道写真をめぐる議論へと接続していく。
その問題を扱っているのが、展覧会終盤に設置されている《サウンド・オブ・サイレンス》(2006)だ。南アフリカの報道写真家、ケビン・カーターが1993年にスーダンで撮影した『ハゲワシと少女』をめぐる出来事を扱うこの映像インスタレーションは、ニューヨーク・タイムズ紙に掲載された一枚の報道写真が世界を震撼させ、物議を醸したと同時に、撮影者自身の人生を揺さぶっていく過程をたどる。飢餓に苦しむ少女の背後にハゲワシが佇むこの写真は、発表直後から「なぜ撮影する前に子どもを助けなかったのか」という批判を呼び、報道写真の倫理や撮影者の責任をめぐる議論へと拡がっていった。
ジャーは、この一枚をめぐる前後の時間に焦点を当てることで、報道写真が真実を伝える装置であると同時に、それを見る私たちの立場の不安定さを突きつける。私たちは、センセーショナルな写真に対して怒りや同情などさまざまな感情を抱き、反応する。だが、それが直ちに現実を動かすとは限らない。むしろ、当事者ではない私たちが容易に反応できてしまうという事実こそが、私たちがその出来事からどれほど遠い場所にいるのかを物語っている。
インスタレーションの中に入った観客たちは、暗い空間の中でテキストを読み続ける。カーターの経歴、写真が掲載された後の反響、そして彼の自死。その物語を追った後、『ハゲワシと少女』が一瞬だけ表示され、直後に強烈なフラッシュが焚かれる。その瞬間、私たちは写真を見る側から、フラッシュを浴びせられる側へと反転する。見るという行為を通じて、私たちは単なる傍観者ではなく、当事者にもなりうることが思い知らされる作品だった。
この展覧会は、私たちが日々接している言葉や映像といった情報を、ただ受け取るだけで終わらせないための視点を差し出している。自分が今どんな立場からそれを見ているのかを問い直すことが、私たちにできるささやかな応答なのかもしれない。











