​​「東アジア」の地図から忘却されてしまったもの──「乾いた土地:境界の地図学」【EDITOR’S NOTES】

ARTnews JAPANエディターが送る展覧会レビューシリーズ「EDITOR’S NOTES」。第5回は京都で開催された日韓の写真家たちが東アジアの地図を描きなおす「乾いた土地:境界の地図学」を紹介する。

Photo: Shunta Ishigami

世界的にアジアの文化芸術が注目されるようになって久しい。K-POPや中国エンタメのクオリティの高さやスケールの大きさが称賛されることもあれば、アートにおいてはオルタナティブなマーケットとして期待されてもいる。あるいは2022年に開催されたドクメンタ15の芸術監督にルアンルパが選出されたことが話題を呼んだように、アジアにはこれまでの欧米とは異なる価値観があるのだと言われることもある。

しかし実のところ、私たちが「アジア」という言葉を使って指し示そうとするものは不確かだ。たとえば「アジアの料理」や「アジアの音楽」、「アジアのアート」と言われて私たちが思い浮かべる国や文化は一致するだろうか? 日本で暮らす人々が想像するものとベトナムで暮らす人々が想像するものは一致するだろうか? アジアというワードを巡って歴史的に繰り広げられてきた議論を参照するまでもなく、この概念は決して自明なものではない。人々はこの言葉を使って、ときには異なるものを無理やりひとつにまとめ、ときには恣意的に境界線を引いて何かを除外してきた。

Photo: Shunta Ishigami

京都府立文化芸術会館で開催された「乾いた土地:境界の地図学」は、まさにこうした境界の不確かさに向き合うものだった。韓日国交正常化60周年を記念した現代写真交流プロジェクトとして韓国の啓明大学校が中心となり赤々舎の協力のもと行われた本展は、チョン・ジュハやノ・ギフン、石川竜一、髙橋健太郎など日韓の現代写真家たちが参加したもの。会場で展示された作品が扱うテーマは済州や沖縄、福島、在日コリアンなどさまざまだが、どれも「東アジア」という名称から周縁へと追いやられてきたものであることが共通している。

たとえばノ・ギフンの《View Point Blue》は、済州島四・三事件の犠牲者が最後に目にしたであろう風景を12時間にわたる長時間露光によって描き出している。それは国家の暴力によって抹消された個人の視点と時間を蘇らせるものだろう。同様に、高橋健太郎の《小菊のある部屋》も忘却された記憶を呼び覚ます作品だ。戦時中に朝鮮半島から沖縄へ渡った女性の存在/不在を追うようにして写真家は沖縄の風景を捉えていく。これらの作品は、地図に記されなかった記憶や感覚を浮かび上がらせている。

岩波友紀《Blue Persimmons》 Photo: Shunta Ishigami

あるいは福島第一原子力発電所事故をテーマにした日韓の写真家による作品が並んでいることも、本展の特徴のひとつだ。チョン・ジュハの《Para-Dies》は殺処分されることも売られることもなく宙吊りの時間のなかに取り残された牛たちの姿を捉えたものであり、福島へ移住して作品を制作する岩波友紀の《Blue Persimmons》は、目に見えない放射能によって引かれた境界線を静謐な風景写真によって表現している。そしてコリアン・ディアスポラとしての身体的・精神的アイデンティティの揺らぎをテーマとした金サジやソウルの街並みに飛び込みながらパーティの様子を捉えた石川竜一らの作品は、さまざまな形で私たちの身体やアイデンティティ、社会の境界線を行き来しながらつくられたものだと言える。本展を観ていると、こうしたテーマを表現するうえで、写真というメディアが非常に強い力をもっていることにも改めて気づかされる。

「東アジアという概念は、何を可視化し、何を不可視化するのかを決定してきた〈視覚性の政治〉が残した名である。こうした認識の装置が生み出した地図は、薄く、平板なものにとどまる。地図の上には国家の境界線や地政学的な線だけが残され、実際に生きてきた人々の感覚や記憶、地層のように重なった時間は、体系的に削除されてきた」

このプロジェクトを統括する研究者のチョン・フンは、本展に寄せてそう記している。これは東アジアに限った話ではないだろう。「東南アジアのアートシーンが勢いを増している」、「中東のアートが面白い」、あるいは韓国や中国といった個々の国について語るときでさえ、私たちは何かをまなざすと同時に、何かから目を背け、何かを忘れようとしてもいる。アートシーンが多様化しているからこそ、そんなことを自覚しておく必要もあるはずだ。

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