領域横断の先駆者、ロバート・ラウシェンバーグ──多様な素材を自在に操った挑戦の軌跡
2025年に生誕100年を迎えた現代アートの巨人のひとり、ロバート・ラウシェンバーグ。日用品や廃棄物を絵画と組み合わせ、パフォーマンス作品に取り組み、テクノロジーとアートとの融合を図ったラウシェンバーグの幅広い創作活動と、その先駆的試みの重要性を振り返る。
ロバート・ラウシェンバーグ(1925-2008)を一言で表現するとしたら、それは「多面的」──あるいは「多作」──だろう。作品数が1万点にも及ぶとされるラウシェンバーグの創作活動は、どこにでも芸術の可能性を見出せる自由な感性、そして他のアーティストとのコラボレーションに見られる精神の寛大さによって駆動されていた。
ありとあらゆるものを作品に取り込むラウシェンバーグの貪欲さは、1950年代半ばに制作を始めた「コンバイン・ペインティング」に最も顕著に表れている。ロウアー・マンハッタンの街角で拾い集めたファウンド・オブジェを大胆な筆致の絵画と組み合わせる手法は、他人がゴミとして捨てたモノを美術史上に燦然と輝く至宝へと変貌させた。だがラウシェンバーグの飽くなきブリコラージュ(身の回りにあるものを寄せ集めて再構築すること)の試みは、個々の作品にとどまらなかった。彼は写真やパフォーマンス、ダンス、版画など、複数の表現分野を縦横無尽に行き来し、さらにはアートとテクノロジーを融合させようとしたのだ。
その作品はまた、戦後間もない時期にニューヨークを席巻した抽象表現主義からの転換を促す重要な役割を果たしている。彼の作風は抽象表現主義の要素を部分的に残しつつ、その特徴である心理性や演劇的な自己表現を排除するものだった。その代わり、モノそのものを前面に出し、そこに暗号のような意味を散りばめた。この点、彼はマルセル・デュシャンの「レディメイド」の影響下にあったと言えるだろう。実際、20世紀中頃のアート界でデュシャン的な皮肉を再燃させた立役者がラウシェンバーグ、そして1950年代に彼とスタジオを共有し、恋人でもあったジャスパー・ジョーンズだった。
ラウシェンバーグもジョーンズも、キャリアの初期にはネオ・ダダの作家と見なされていた。しかし、ダダイストたちが第1次世界大戦中のヨーロッパで西欧社会の自壊を皮肉たっぷりに祝ってみせたのに対し、2人は冷戦下のアメリカが抱える実存的状況を作品化した。とりわけラウシェンバーグは、アメリカにおいて生来の権利と見なされる、束縛されない個人の主体性を表現するアーティストだった。
そのラウシェンバーグの生誕100周年を記念し、先駆的な創作活動を紹介する展覧会やさまざまな文化イベントが、「RAUSCHENBERG100」(*1)として昨年から世界各地で開かれている。これを機に彼の功績を振り返ってみよう。
*1 ロバート・ラウシェンバーグ財団による「RAUSCHENBERG100」の特設サイトはこちら。
偉大な師や共同制作者となる仲間との出会い

ラウシェンバーグは、ミルトン・アーネスト・ラウシェンバーグとして、テキサス州ポートアーサーのキリスト教原理主義者の家庭に生まれた。ポートアーサーはメキシコ湾に近い石油の町で、父親は地元の電力会社に勤めていた。彼はドイツとオランダのルーツに加え、チェロキー族の血も引いていると公言していたが、それは事実というよりは空想の産物に近いようだ。18歳で薬理学を学ぶためテキサス大学オースティン校に入学したが、失読症のため中退。1944年に徴兵されて海軍に入隊し、サンディエゴの軍病院で雑役係として勤務している。
幼少期から絵を描くことが好きだったものの、ロサンゼルス郊外にあるハンティントン・ライブラリーでトマス・ゲインズバラの《青衣の少年》(1770)を目にするまで、ラウシェンバーグはアーティストになろうと考えたことはなかった。この絵に感銘を受けた彼は間もなく絵画制作を始め、海軍を退役したのち1947年にカンザスシティ美術大学に入学。さらにその後の6年間は、パリのアカデミー・ジュリアン、ノースカロライナ州アッシュビル近郊の伝説的な芸術学校ブラック・マウンテン・カレッジ、そしてニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグで学んだ。
この時期には、師と仰ぐ先達や共同制作者となる仲間との出会いがあった。彼の妻となったアーティストのスーザン・ワイルもその1人で、ワイルとの間には息子クリストファーをもうけている(ラウシェンバーグが画家のサイ・トゥオンブリーと恋仲になって間もなく2人は離婚した)。また、アート・スチューデンツ・リーグで知り合ったトゥオンブリーとは、1952年から53年にかけてイタリアや北アフリカを旅した。このほかにも、バウハウスで教鞭を取った後にアメリカに移住してブラック・マウンテン・カレッジのアートプログラムを率いた画家で色彩理論家のジョセフ・アルバース、さらにはブラック・マウンテン・カレッジで出会い、共同制作を行った作曲家のジョン・ケージや振付家のマース・カニンガムなどがいる。
キャリア最初期の作品が生まれたのは、こうした学びの場やそれに関連する環境でのことだった。また、1951年にニューヨークのベティ・パーソンズ・ギャラリーで個展を開くなど、ラウシェンバーグはこの頃から精力的に作品を発表している。その初期作品の1つに、1950年にワイルと共同制作したサイアノタイプ作品がある。ワイルの手ほどきで取り組むようになったサイアノタイプでは青写真用の感光紙を使い、感光材料を塗った紙の上に物を置いて露光すると物があったところが幽霊のようなシルエットとして浮かび上がる。この技法は、マン・レイ(1890-1976)やモホイ=ナジ・ラースロー(1895-1946)が1920年代に取り組んだフォトグラムに似たものだ。
だが、暗室作業が必要なフォトグラム作品が概して小規模だったのに対し、光が入る環境で作業可能なサイアノタイプではもっと大きな作品も作れる。2人はスタジオの広いスペースで横たわるワイルの全身像などを制作し、その様子は1951年のライフ誌の記事で詳しく伝えられた。また、この青写真作品の1つ《Female Figure(女性像)》(1950年頃)は、エドワード・スタイケンがキュレーションし、ニューヨーク近代美術館(MoMA)で開催されたグループ展「Abstraction in Photography(写真における抽象)」に展示されている。
ミニマリズムやコンセプチュアル・アートの先駆けに

ラウシェンバーグは1948年にブラック・マウンテン・カレッジに入学し、一度ニューヨークへ移ってから同校に戻り、1951年から52年にかけてまたそこに通った。最初の在学期間中、彼はしばしば厳格な教師だったアルバースと対立したものの、アーティストとして成長する上でアルバースの導きが極めて重要だったと後々まで考えていた。
ブラック・マウンテン・カレッジでの2度目の在学中に、ラウシェンバーグはキャリアの出発点となる3つの絵画シリーズを制作している。その1つが、黒を基調とした顔料に砂利や土を埋め込んだ「Night Blooming(ナイト・ブルーミング)」シリーズだ。次に彼は、新聞を敷いたカンバスに光沢のある、あるいはマットな質感の黒い絵の具を塗った単色の絵画を手がけた(後にジョーンズもこの手法を取り入れている)。だが、より重要なのは、住宅用のペンキで真っ白に塗った作品群だろう。モジュール式のパネルとして配置することを意図し、均一な白い面に周囲の光や鑑賞者の影を捉えるこの「ホワイト・ペインティング」シリーズは、ミニマリズムやコンセプチュアル・アートの先駆けとなるものだった。
ニューヨークに戻ったラウシェンバーグは、これと同様にミニマルな手法で紙を支持体とした2点の作品を生み出した。内容をそのまま表すタイトルがつけられた《Erased de Kooning Drawing(消されたデ・クーニングのドローイング)》(1953)と《Automobile Tire Print(自動車のタイヤによるプリント)》(1953)は、一見そうとは感じられないものの、彼が抽象表現主義とのつながりを保っていたことを示している。
ラウシェンバーグは、ニューヨークのシーダー・タバーンの常連だった。抽象表現主義のアーティストの溜まり場だったこのバーでは白熱した芸術談義が繰り広げられ、時には殴り合いに発展することもあった。この店で彼はウィレム・デ・クーニングに近づき、ドローイングを1枚譲ってもらえないかと尋ねた。「消してしまっても構わないドローイングを」という無茶な要求だったにもかかわらず、驚くべきことにデ・クーニングはそれを承諾している。この作品は、抽象表現主義そのものの抹消として解釈されてきたが、その根底にはデ・クーニングに対するラウシェンバーグの敬意がある。これは一種のオマージュであると同時に、彼が「ホワイト・ペインティング」シリーズで試みた絵画的空間の消去にも通じるところがある。
同様に、ジョン・ケージと共同制作した《Automobile Tire Print》も、デ・クーニングへのオマージュだ。この作品は、ケージが車を運転し、ラウシェンバーグが路上に撒いた黒い絵の具の上を通った後、長さ約7メートルの紙の上を慎重に走らせて制作された。タイヤの細長い跡は、デ・クーニングの絵画や、この画家が作品のインスピレーションを得るため出かけていた長いドライブを思わせる。
新しい表現手法「コンバイン・ペインティング」の誕生

とはいえ、ラウシェンバーグはミニマリストではなくマキシマリストだった。1954年になると、彼はその後10年間にわたって作り続けることになる「コンバイン・ペインティング」シリーズの作品に着手した。沈黙を貫くような「ホワイト・ペインティング」とは対照的に、これらの作品は非常に饒舌で、ジャクソン・ポロックのアクション・ペインティングに負けないほどの躍動感があり、見る者の目に強烈なインパクトを与える。その狙いは、鑑賞者をイメージの嵐で圧倒することだった。ラウシェンバーグはその意図を次のように説明している。
「私は日々、テレビや雑誌、廃物など、この世界の過剰さに晒されて生きています。嘘のない絵や作品を作ろうとするなら、これら全てを取り入れるべきだと思ったのです。当時も今も、それが私たちの現実を構成していますから」
コンバインのシリーズには、壁掛けの作品だけでなく、自立型のものもある。その中で最も印象深いのは、《ベッド》(1955)と《モノグラム》(1955-59)だ。《ベッド》は、ある問題への解決策として生まれた。絵を描くためのカンバスを切らしていたラウシェンバーグは、シーツと枕、そしてアーティストのドロシア・ロックバーンから譲り受けたキルトを縦向きに繋ぎ合わせ、ベッドを上から俯瞰したようなイメージを提示した。この作品の上半分を、鉛筆の落書きや絵の具が滴る荒々しい筆跡で覆ったラウシェンバーグは、「シーツの中に潜り込もうとする人が出てくるかもしれないね」と冗談を飛ばしたという。《ベッド》も抽象表現主義を揶揄した作品だと解釈されたが、実際にはラウシェンバーグの私生活を参照した、ある種の自画像だった。さらに、この作品の眠りとの関連性は、抽象表現主義が潜在意識を探求したシュルレアリスムに影響を受けていたことも想起させる。
一方の《モノグラム》は、ラウシェンバーグの代表作とも言える作品で、胴体にタイヤを巻きつけたアンゴラヤギのはく製が中心に置かれている。ヤギの立つカンバスにはキャスターが付いており、巨大な子供のおもちゃのように床の上を自由自在に動かすことができる。ヤギのはく製を中古家具店のショーウィンドウで見つけたラウシェンバーグは、当時の全財産15ドルを投じてこれを購入。ジョーンズの提案で最終形に落ち着くまで、この作品は2度改変されている。最初のバージョンではヤギは絵に取り付けられた棚の上に横向きに置かれていたが、2つ目のバージョンでは小さな台の上に置かれ、後ろに縦長のパネルが取り付けられていた。
ヤギの顔には色とりどりのペンキが飛び散っている。また、タイヤの接地面は白く塗られ、まるで《Automobile Tire Print》の黒いタイヤの跡を反転させているようにも見える。ラウシェンバーグは、タイヤとヤギを文字や記号を組み合わせるモノグラムのように一体化することに力点を置いたと話している。しかし、一部にはこの作品を彼の同性愛と結びつけ、19世紀にイギリスで結成されたラファエル前派の画家、ウィリアム・ハント(1827-1910)の《Scapegoat(贖罪の山羊)》(1854-1856)に言及しているのではないかと解釈する向きもあった。ハントの絵は、罪を償うためにヤギを犠牲にしたヘブライ人の伝統を題材としている。しかし、彼らの解釈によれば、好色の象徴であるヤギが肛門を思わせるタイヤに挿入されている《モノグラム》は、20世紀半ばのアメリカ社会で爪弾きにされていた同性愛者の男性の立場を表すものだった。
こうした解釈が生まれた一方で、コンバイン作品に関しては、そもそもラウシェンバーグの意図を解読しようという試み自体が的外れだとの意見もあった。その一例が《キャニオン》(1959)をめぐる議論だ。《モノグラム》と同様、この作品にもはく製が取り入れられている。翼を広げたイヌワシが止まっている空箱の周囲に絵の具が塗られ、ボール紙や新聞紙、そしてラウシェンバーグの息子が赤ん坊だった頃のスナップ写真が貼り付けられたこの作品について、ある評論家はレンブラントの《ガニュメデスの誘拐》(1635)のパロディではないかと論じた。
レンブラントの作品は、ギリシャ神話の神ゼウスが鷲に姿を変え、ガニュメデスという美少年を連れ去る場面を描いたものだ。しかし、他の評論家たちはこの解釈を一蹴し、ラウシェンバーグの意図は純粋に形式的なものにすぎないと主張した。いずれにしても、はっきりしていたのは、この作品が保護動物のはく製化を禁じる連邦法に抵触していたことだ。そのため、《キャニオン》の所有者だったギャラリストのイリアナ・ソナベントの相続人は作品を売却できなくなり、最終的にこの作品は評価額ゼロでMoMAに寄贈されている。
パフォーマンスからテクノロジーまで多岐にわたる表現媒体

これまで見てきた通り、ラウシェンバーグは根っからの領域横断的アーティストだった。彼のパフォーマンスや振付、舞台美術との関わりは、ブラック・マウンテン・カレッジ時代にさかのぼる。ケージとカニンガムはここで、史上初のハプニング作品とされている《シアター・ピース No.1》》(1952)を共同制作したが、会場の天井にはラウシェンバーグの「ホワイト・ペインティング」作品が掛けられていた。そして、音楽やダンス、ケージによる講演など、多種多様な演目が繰り広げられた夜、ラウシェンバーグはレコードをかけ続けていた。
1961年にはパリのアメリカ大使館で、ジョーンズやヌーヴォー・レアリスムのアーティストであるニキ・ド・サンファル、ジャン・ティンゲリーとともにイベントを企画。観客が見守る中、ラウシェンバーグはステージ上で《ファースト・タイム・ペインティング》を描き上げた。また、彼のパフォーマンス作品の中で最も有名な《ペリカン》(1963)では、自らパラシュートを背負い、ローラースケートで駆け回っている。
あらゆる種類のテクノロジーやガジェットをこよなく愛したラウシェンバーグは、実際に作動する家電製品をコンバイン作品に取り入れ、《ブロードキャスト》(1959)ではラジオを、《パントマイム》(1961)では扇風機2台を用いている。また、高さ約180cmのリトグラフ作品《ブースター》(1967)の構図の軸となったのは、自分の全身X線写真だった。一方、動く彫刻《リヴォルヴァー》(1967)では、モーター付きの金属製台座を挟むように2枚のプレキシガラスの円盤が取り付けられている。透明な円盤にはシルクスクリーンで画像が印刷されており、鑑賞者はコントローラーを使って円盤を回転させ、万華鏡のような効果を楽しむことができる。
さらには、ベル研究所の科学者ビリー・クルーヴァーの協力を得て、芸術とテクノロジーの融合を目指す野心的なプロジェクトにも取り組んだ。その1つが、照明付き展示ケースを約11メートルにわたり一列に並べた《サウンディングス》(1968)という作品だ。それぞれの展示ケースにはシルクスクリーンで椅子の写真が印刷されたプレキシガラスが何層も嵌め込まれ、周囲の音や鑑賞者の声に反応して光と影が変化する仕掛けになっている。アーティストとエンジニアの協働を促すプロジェクト「エクスペリメンツ・イン・アート・アンド・テクノロジー(E.A.T.)」をラウシェンバーグがクルーヴァーらと立ち上げたのもこの頃だが、それはちょうど彼の知名度が上がっていく時期と重なっていた。
様式上の革新や新たな手法の数々に取り組む

ラウシェンバーグが生み出した作品は膨大で、その全貌を解き明かすのは至難の業だ。むしろ、60年以上にわたる創作活動で何度も作風を変化させていった彼の、様式上の革新を通して分析するほうが容易いかもしれない。たとえば、溶剤に浸した新聞や雑誌を表面を下にして置き、その上からインクが切れたボールペンでこすり、元の画像の痕跡を淡く残すという手法を彼は繰り返し用いた。1974年から75年にかけて制作した「Hoarfrost(霧氷)」シリーズでは、シルクやシフォン、サテンのように薄く透け感のある布地にこの手法を使っている。
また、アンディ・ウォーホルと同じく、カンバスの上にシルクスクリーンで印刷をする手法を取り入れ、1963年には宇宙飛行士とケネディ大統領の写真を組み合わせて核戦争の不安を反映した《Retroactive I(遡及的 I)》や《Retroactive II(遡及的 II)》といった作品を生み出した。このほかにもラウシェンバーグが作品の中で扱った政治的テーマには、1960年代から70年代にかけて盛り上がった公民権運動や環境問題などがある。
ラウシェンバーグの作品には具象的なものが多いが、物質性を強調した作品の中には抽象的な表現もある。たとえば、あちこちで拾い集めた壊れかけの古い段ボール箱を素材とした「段ボール」シリーズ(1971-72)や、縫い合わされた布地と籐の棒を組み合わせた「ジャマー」シリーズ(1975-76)などがこれに当たる。
日常のありふれたものに芸術の可能性を見出し続ける

1964年にロバート・ラウシェンバーグは、ヴェネチア・ビエンナーレで金獅子賞を受賞した初のアメリカ人アーティストとなった。だが、ヨーロッパの一部の評論家は、この受賞はアメリカ政府の介入による不正なものだと主張している。1976年にタイム誌の表紙を飾ったラウシェンバーグは一般にも広く認知されるようになり、有名アーティストとしての地位を確立。1968年にはフロリダ州の西海岸、フォートマイヤーズ沖のキャプティバ島に約14ヘクタールの土地を買い、1970年以降はそこで暮らした。
美術史に名を刻んだラウシェンバーグは、死去するまで数十年にわたりアート界の権威として存在感を保ち続けた。そして、多くのアーティストと同様、晩年の作品は以前より穏やかになったが、日常のありふれたものに潜む美的な力に対する興味を失うことはなかった。それはこんな言葉に表れている。
「私は自分に挑んでくる素材を信じます。なぜなら、それらが私を未知なるものへと導いてくれるからです」
(翻訳:野澤朋代)
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