モネが避けた「写真の真実性」を逆手にとる──ノエミ・グダルが描くディープ・タイム
写真が普及した時代、あえて絵画にしかできない光の表現を追い求めたクロード・モネ。一方、箱根のポーラ美術館で開催中の「あたらしい目 ― モネと21世紀のアート」で作品を出展しているフランスのアーティスト、ノエミ・グダルは「写真は真実を写す」という人々の無意識を逆手に取る。画像を極限まで解体・再構築し、現実との間に意図的な距離を生み出す彼女に話を聞いた。

私たちが見ているものは本当に自然なのか、それとも作られたイメージなのか──。フランス人アーティスト、ノエミ・グダルは、自然の風景のなかに大掛かりな錯覚を構築し、私たちが無意識に信じている現実のイメージを解体する。
現在、箱根のポーラ美術館で開催中の「あたらしい目 ― モネと21世紀のアート」展で、彼女は印象派の巨匠クロード・モネの絵画と同じ空間に作品を展示している。古植物学者との対話から3億年前の失われた生態系をジオラマのように再構築した「デルタ」シリーズ(2025)と、水の壮大な循環を描き出す映像インスタレーション《不変性の物語》(2025)だ。
ジヴェルニーの庭でみずから水路を引き、理想の風景を人工的に構築したモネと、果てしない手作業によって太古の風景を幻出させるグダル。両者のまなざしの交差は、自然とは何かという根源的な問いを鮮やかに浮かび上がらせる。風景の解体を通じて、私たちは世界をどう捉え直すことができるのか。来日した彼女に思考の核心を聞いた。
抽象と現実の狭間にある余白
──「あたらしい目 ― モネと21世紀のアート」では、クロード・モネの絵画と同じ空間にご自身の作品が展示されています。今回のコラボレーションを経て、モネというアーティストへの印象は変わりましたか?
モネの作品を根本から見つめ直すような刺激的な体験でした。今回の展示に向けて専門家の解説などを聴き込みながら、なぜ彼があれほど長く睡蓮に執着したのか、自分なりに掘り下げてみたんです。同じ庭にずっと留まりながらも、光や天候の違いによって、風景は毎日まったく違う姿を見せる。その変化にどれほど魅了され、生涯をかけて光を追い求めていたのかを知って、深く心を動かされました。
彼の作品は今の私たちの目から見ても信じられないほど力強い。パリのオランジュリー美術館にある大装飾画は個人的にも大好きな作品なのですが、風景をどう切り取るかというフレーミングの手法がある意味でコンテンポラリーだと感じます。絵全体としてはとても抽象的なのに、ふとした瞬間に現実の風景をパッと掴み取れるような小さなディテールが残されているという、モネの抽象と具象のバランス感覚は見事ですよね。
──オランジュリーの睡蓮は極めて抽象的ですが、同時に確かな風景のリアリティも備えています。写真というメディアを使って独自の視覚体験を生み出すグダルさんのアプローチにも、どこか通じるものを感じます。
そういう点もあるかもしれません。例えば今回の展示作品である「デルタ」シリーズも、一見するとかなり抽象的で現実離れした風景に見えます。でも目を凝らすと「あ、これは写真なんだ」と、現実の物体がそこにあると気づく瞬間が画面の端々に潜んでいます。
私は常々、見る人自身が自分の解釈や欲望、あるいは内面的な脆さまでも投影できるような余白を意図的に残したいと考えています。画面に欠けているものを、見る側の想像力で能動的に埋めてもらう。モネの作品も鑑賞者を招き入れ、彼ら自身の解釈で作品を完成させるような側面があるように思います。

──写真技術が台頭してきた時代に、あえて写真にはできない表現を模索したのがモネでした。対してグダルさんは写真メディアを使いながらも、現実をそのまま写し取ることを拒否しています。そのコントラストも面白いですね。
写真が普及して、現実をありのままに記録するという役割が画家の手から離れつつあったあの時代、モネの立ち位置はとても興味深いですよね。彼は、では絵画にしかできないことは何かと自問した。そして、写真には決して捉えられない光の感覚や、夕日を見たときの感動、畑で働く人々を目にしたときに生じる感覚そのものを表現しようとしたわけです。これは私たちが物事を見る方法において、とてつもなく大きなパラダイムシフトでした。
私の場合、まさにその写真メディアが持つ性質を逆手に取っている感覚です。特定の瞬間の光を定着させる写真は、真実を写すものだと誰もがどこかで信じています。その事実性は私も好きですが、同時に画像を極限まで解体し、構築し直すことで、現実の風景との間に意図的な距離を生み出そうとしています。時間や場所の特定性をあえて消し去ることで、単なる記録ではなく、見る人の知覚を揺さぶる体験を作り出したい。現実の記録でありながら、現実から距離を置く。このギャップこそ重要です。
手作業の痕跡で見せる構築の脆さ
──もうひとつの展示作品である、映像インスタレーション《不変性の物語》についても教えてください。複数のスクリーンを立体的に配置し、水が鉱物を運んでいく壮大な循環のプロセスを表現しています。
この映像で表現したかったのは、水という物質がいかに優れた運搬者であるかということです。水は地球上のあらゆる場所を巡り、ある土地から別の土地へと鉱物や栄養素を運び、世界中の生態系を繋ぎ合わせています。その途方もないスケールの循環を、あえて非常にアナログな手法で表現したかったんです。
──非常にアナログな手法、というのは具体的に?
この制作には18人のスタッフが関わり、1週間かけて紙を切り抜き、絵の具を塗り、実際に水を流し続けるという膨大な手作業を行いました。今の時代、PhotoshopやAIなどのデジタルツールを使えば、完璧で美しいイリュージョン映像なんて一瞬で作れてしまいますよね。すべてがあまりにも簡単に構築できてしまうからこそ、私は人々と共有できる物理的な体験を立ち上げることをとても大切にしているんです。たくさんの人が関わり、手作業で切ったり塗ったり水を流したりする、そのプロセス自体に意味がある。

──たしかにグダルさんの作品は、一見すると完璧な風景のイメージを提示しているように見えます。でもよく見ると、セットの裏側にあるクリップやロープ、紙の継ぎ目など、作り物である痕跡がわざと残されていますよね。
画面の中にクリップやロープといった手作業の痕跡を残すのは、人間の営みや、私たちが作り上げる構造物の脆さを示すためでもあるんです。私たちは世界をどう認識しているのか。私たちが信じている現実は、いかに不確かな土台の上に成り立っているのか。そうした認識のシステム自体を問い直したいという思いがあります。
それに、トリックの裏側を完全に隠すのではなく少しだけ覗かせることで、見る人はなるほど、こうやって作られているのかと手触りを感じて、自分自身の体験として作品と深く結びつくことができると思うんです。
──被写体を書き割りのように分割し、レイヤーを物理的に重ねて空間を構築していく手法には、どこか演劇の舞台装置のようにも感じました。お母様が現代演劇の劇場を運営されていたそうですが、舞台芸術からの影響も大きいのでしょうか。
母がパリ郊外の劇場で働いていたこともあって、子どもの頃から現代演劇をたくさん見て育ちました。だから、古典とは違う前衛的で実験的な空間構成のアプローチに触れてきた影響は、どこかにあるかもしれません。
ただ、私が視覚的に何よりも惹かれているのは、本来平らなはずの写真の中に遠近法のレイヤーが無数に潜んでいるという点。ある風景の写真をプリントして切り抜き、手前に別の要素を置き、さらに奥にも別の風景を配置する。そうやってひとつの画像を解体し、レイヤーとして物理的に重ねていくのが純粋に好きなんですよね。
面白いのが、この画像におけるレイヤーの概念が、私が近年深くリサーチしている地球の地質学的な時間、つまり地層の重なりと構造的にすっかりシンクロしているということです。私たちが立っている地面の表面は今ですが、そのすぐ下には100年前の地層があり、さらに下には数百万年前の地層が眠っている。風景の中に刻まれた歴史の層をどう読み解くか。この「ディープ・タイム(地質学的時間)」というテーマが、今の私のリサーチの確固たる核になっています。
ディープ・タイムのスケール
──過去の作品を拝見すると、2021年頃からの作品ではディープ・タイムや古気候学、古植物学への関心がより顕著になっていますよね。それ以前の作品と比べ、人間の歴史や科学史の枠組みを越えて、人間不在の途方もない時間へと関心が移っていったのはなぜだったのでしょうか?
以前は、アリストテレスの時代から現代の科学者に至るまで、人間が同じ山や海をどう解釈してきたかという、いわゆる科学史をリサーチしていました。社会や宗教、科学的な前提が変わることで、同じ風景に対する認識がどう変わるのか。その変遷の軌跡に興味があったんです。でも、そこからさらにもう一歩踏み込んで、人間の存在をいったん脇に置いてみることで、より普遍的で哲学的な環境の成り立ちそのものに目を向けたいと思うようになったんです。
例えば、フランスのブルターニュ地方とアメリカのテキサス州は、はるか昔、同じプレートで繋がっていました。人間のスケールを完全に超越した、地球の途方もなくゆっくりとした動きを想像するのは、足元が揺らぐほど圧倒的で、強い畏敬の念を抱かせる体験です。
──人間の短い歴史を相対化するような、強烈な感覚ですね。
はい。とはいえ、ディープ・タイムを見つめることは人間を完全に排除するという意味ではないんです。古気候学や古植物学に向き合うことは、私たちがどこから来たのかという現在との繋がりをたぐり寄せる行為でもありますから。
夜空の星を望遠鏡で覗き込んだとき、私たちが見ている光は数百万年前に放たれたものです。過去の光が、現在という瞬間に同時に存在している。それと同じように、私たちが今ここに存在しているのも、生命が生存できる環境を地球が途方もない時間をかけて作り上げてきた結果です。いつが始まりなのかは誰にも分からない。すべてはひとつの長く、途切れることのないプロセスとして繋がっているんですよね。
──「デルタ」シリーズもそうしたリサーチに基づいているのですよね。
「デルタ」シリーズは、石炭紀の化石が閉じ込められた地層から着想を得ています。それは数億年前の生態系をそのまま閉じ込めた、いわば時間のかたまりのようなものです。博物館のショーケースにある化石は退屈に見えるかもしれませんが、その背景にある途方もない物語を知ると、それがどれほど貴重で美しいものかに気づかされます。
あの作品では、板ガラスを重ねることで記憶のメカニズムを表現しようと試みました。被写体がガラスに触れている部分はシャープに見えて、遠ざかるほどにぼやけていく。1時間前のことは鮮明に思い出せるのに、1年前のことは曖昧になってしまう人間の記憶と同じですよね。古代の地層に対する私自身の知覚を、記憶というレンズを通して表現したかったんです。

科学の発見を魔法に変える
──そうした途方もない科学的な知見や論文を、どのようにして作品へと昇華させているのでしょうか。
実は私、年間数点しか作品を作れないほど制作ペースが遅いんです。というのも、新しい作品に取り組むたびに、未知の素材や技術、表現方法を自分自身で発見するプロセスが必要だからなんですよね。まるで探検に出かける子どものような気持ちで、常に探索し続けたい。科学は私にとって世界を理解するためのアプローチであり、インスピレーションの入り口なんです。
科学者と対話したり、論文を読んだりして、素晴らしい発見に出会うことはたくさんあります。サハラ砂漠の砂が海を越えて飛び、アマゾンのジャングルにリン酸塩という栄養をもたらしているというNASAの映像を見たときも、その地球規模の相互作用に大きな衝撃を受けました。でも、それをどう作品にするか、自分の中で完全に腑に落ちる瞬間が訪れるまでは形にはしません。
大切なのは、科学的な事実そのものを説明することではないんです。科学の知見に触れたとき、私自身がそれをどう体験し、どれほど魔法のような驚きを感じたか。それをいかに自分自身の個人的な反応として作品に落とし込むか、という部分を何より大切にしています。
──最後に、グダルさんの作品における現実との距離の取り方について教えてください。
光が触れることによって、現実のある瞬間がその痕跡を残すこと。それが私が写真を好きな理由です。でも同時に私は、画像を極限まで解体し、構築し直すことで、現実の風景との間に意図的な距離を生み出そうとしています。これは写真だと信じ込ませながら、実は時間も場所も意図的に消し去られている。
頭の中の概念だけで完結させるのではなく、自分の手でガラスを重ね、紙を切り抜き、被写体を動かしていく。現実の記録でありながら、現実から距離を置く。そのギャップや空白こそが、見る人自身が自らの記憶や感覚を使って埋めるべき場所なのです。そしてそこに、新しい風景のヴィジョンが現れると信じています。