NYの31歳新進ギャラリストが躍進──所属作家が2大ビエンナーレへ、その手腕とは

近年、ギャラリーの閉鎖が続くニューヨークで、快進撃を続ける新興ギャラリーがある。20代で独立して2年後に、所属アーティストがニューヨークとヴェネチアの著名芸術祭に出展。意欲的な展覧会を次々と打ち出すデイヴィッド・パリアルーロに取材した。

デイヴィッド・パリアルーロ Photo: Lucas Odahara
2024年に自身のギャラリー、デイヴィッド・ピーター・フランシスをオープンした、デイヴィッド・パリアルーロ。Photo: Lucas Odahara

今年初めには無名に近い存在だった79歳のパフォーマンスアーティスト、パット・オレシュコ。空気で膨らませた大胆な立体作品(インフレータブル人形)を手がける彼女が、ロックスター並みの注目を浴びるようになったのは春を迎える頃だ。

まず、1月末から4月にかけてニューヨークのクイーンズにあるスカルプチャー・センターで回顧展が開催され、脚を大きく広げた女性像など、数多くの立体作品が展示室を埋め尽くした。その2カ月後には、イーストリバーを渡ったマンハッタンにあるホイットニー美術館の大きな展示室を、彼女のインフレータブル作品《Blowhard(ホラ吹き)》が占拠していた。1995年に制作され、2026年のホイットニー・ビエンナーレに出展されたこの作品は、ラッパから炎を噴き出す道化師の巨大な緑色の顔をかたどっている。これは今回のビエンナーレで最も高く評価された作品の1つとなり、同ビエンナーレから賞金10万ドル(約1600万円)のバックスバウム賞が授与された。

アーティストの「相棒」であることが信条

オレシュコがニューヨークで広く知られるようになったのは、新進ギャラリストのデイヴィッド・パリアルーロの尽力によるところが大きい。チャイナタウンにある自身のギャラリー、デイヴィッド・ピーター・フランシスでパリアルーロが彼女の個展を開いたのは、まだ20代だった2024年6月。ギャラリストとして独り立ちしてから3回目の展覧会だった。

同展の企画は、実現の約1年前に彼が送ったメールから動き出している。今は閉鎖されているJTTギャラリーが2020年に開催したグループ展でオレシュコの作品に関心を抱いたパリアルーロが、何の伝手もなかった彼女に連絡を取ってみることにしたのだ。

「最初はあっさり断られてしまいました」と彼は振り返る。しかし、「アーティスト・イン・レジデンスでニューヨークを離れているから」というオレシュコに、彼は粘り強くアプローチを続けた。そして、彼女が1970年代から住居兼スタジオにしているマンハッタンのロフトを訪ねたいと頼み込み、数カ月後にようやく訪問が実現した。2人はすぐに意気投合したが、その関係性を確実なものにしたのはパリアルーロの言葉遊びだった。あるメールの署名を「David」ではなく「Day Bed」にしたことを、駄洒落好きのオレシュコがいたく気に入ったのだという。

実績のない若手ギャラリストだったにも関わらず、パリアルーロはこの展覧会を2カ所で展開するという賭けに出た(当時彼のギャラリーの隣のビルにたまたま空き部屋があり、そこが2つ目の会場となった)。さらに、オレシュコは1990年以来ニューヨークで個展を開いていなかったため、集客力も限られていた。それについてオレシュコはこう振り返る。

「私は『別の人に頼んだら』と言ったんです。展覧会のオファーが来たときは、まったく理解できませんでした。ただただ呆気にとられたという感じです」

デイヴィッド・ピーター・フランシスで2024年に開催されたパット・オレシュコの個展。Photo: Object Studies
デイヴィッド・ピーター・フランシスで2024年に開催されたパット・オレシュコの個展。Photo: Object Studies

現在31歳になるパリアルーロはこの展覧会を開いた理由について、作品が売れるかどうかよりも自分が信じるアーティストを支えることに重きを置いているからだと語った。

「アーティストのために良い仕事をしたい──その思いがモチベーションになっています。彼らにとってはキャリアを左右する重要な機会なのですから、とにかくひたむきに取り組むのみです。私を信頼してくれるアーティストのために、何としても成功させねばなりません。サイドカーで旅に同行する相棒のように」

パリアルーロがこの言葉通り行動してきたことは、そのプロジェクトを見れば分かる。たとえば、現在開催中のホイットニー・ビエンナーレには、オレシュコのほかにもう1人、所属アーティストが出展している。今は亡き盲導犬に捧げるドローイングと彫刻を展示しているエミリー・ルイーズ・ゴシオーだ(ちなみに、パリアルーロはホイットニー・ビエンナーレの共同キュレーターであるドリュー・ソーヤーと交際中だが、2人の関係が始まったのはソーヤーが2024年にキュレーターに任命され、参加アーティストが2025年末に発表された後のことだ。この記事のためパリアルーロに取材した際、彼は2人の関係についてはコメントを避けたいと述べていた)。

また、今年のヴェネチア・ビエンナーレにも、所属アーティストであるキャリー・シュナイダーが出展している。ロールのカラー印画紙にプリントした大きな写真のインスタレーションで知られるシュナイダーは、パリアルーロが独立前に在籍していたチャート・ギャラリーに所属していた。しかし現在は、デイヴィッド・ピーター・フランシスと専属契約し、この春から夏にかけて個展を開いている。

つまり、パリアルーロは、今年のホイットニー・ビエンナーレとヴェネチア・ビエンナーレの両方にアーティストを送り込んでいる数少ないディーラーの1人というわけだ。これはどんなベテランでもそう簡単には実現できないことで、駆け出しの若手にとっては途轍もない快挙と言えるだろう。

複数のギャラリーを経て独立、尖った企画を次々打ち出す

パリアルーロと話していると、彼が若々しくフレッシュな感性を持つディーラーだということが言葉の端々から伝わってくる。プロらしい語り口でコレクターやキュレーターの心を掴む一方で、気に入ったアーティストや作品について「キレッキレ」と表現したりもする。細縁の眼鏡をかけ、ミレニアル世代のカルチャーを象徴するハリー・ポッターに自らを重ねる彼は、ギャラリー名にも遊び心を取り入れている。「デイヴィッド・ピーター・フランシス」は、実在する1人の人物ではなく、自身の名に父ピーターと祖父フランシスの名前を組み合わせたものだ。

「父も、祖父も、アートにはあまり興味がありません。だからこそ、何らの形で彼らをこの世界に巻き込みたかった」とパグリアルーロは話す。ギャラリー名について彼は、笑いながら「妙にカトリックっぽいんです」と付け加えた。

フロリダ州タンパ(彼に言わせると「文化の中心地とは言い難い土地柄」)で育ったパリアルーロは、友人のアーティストのスタジオで美術に触れるようになった。そこは仲間の溜まり場だったと彼は語る。

「今振り返ってみれば、あれが僕にとって最初のスタジオ訪問でした。そういう意味で、僕はずっと前からアーティストたちと共に生きてきたんだと思います」

デイヴィッド・ピーター・フランシスで2025年に開催されたブラジル出身のアーティスト、小田原ルーカスの個展。Photo: Charles Benton
デイヴィッド・ピーター・フランシスで2025年に開催されたブラジル出身のアーティスト、小田原ルーカスの個展。Photo: Charles Benton

パリアルーロはパリ・アメリカ大学で視覚文化を専攻し、美術史を副専攻とした。当初は学術的探求の対象だったアートはやがて、彼の生活そのものになる。2018年に大学を卒業した後、彼はインターンとしてフォート・ガンズヴォートで働いた。ニューヨークにあるこのギャラリーは、ミルランド・コンスタントやシュヴィナイ・アシューナなど、マイナーなアーティストを積極的に支えることで知られている。それ以降はチャートに在籍し、マリナロでディレクターを務めるなど、ニューヨークの複数のギャラリーで経験を積んだ。

2021年、パリアルーロはギャラリーでの夕食会の後、アーティストのエレイン・ライチェックとUberに同乗した。その頃には独立を考え始めていた彼に、「あなたもいつか自分でやってみたら」とライチェックが言ったのをはっきり覚えているという。彼はその助言に従い、2024年に独立を果たした。こけら落としとなったのは、ピーター・ヒュジャー、ゴンサロ・レイエス・ロドリゲス、小田原ルーカスのグループ展で、ロドリゲスと小田原は現在、彼のギャラリーに所属している。

以来、デイヴィッド・ピーター・フランシスは、ニューヨークではますます希少になっている尖った展覧会を打ち出してきた。2026年の1月には「Snake, Turtle, Alligator(ヘビ、カメ、ワニ)と題したグループ展を開催。この展覧会は、戦後に行われたアメリカ原子力委員会の一般諮問委員会(ロバート・オッペンハイマーが委員長を務めていた)の際に出席者が残した落書きを軸とした内容(*1)で、その資料の複製を取り囲むように、グレッグ・ボードウィッツやルーシー・レイヴンらの作品が展示された。

*1 メモが禁止されていた会議で警備を担当していたブライアン・ラプラントという人物が、終了後に出席者の手元の資料を回収し、秘密裏にそれを保存していた。ラプラントはマンハッタン計画にも関わっていた人物で、彼の死後、この資料はオレゴン州立大学に保存された。

5月に開催したのは、サンフランシスコを拠点とする独学のアーティスト、ウィリアム・スコットの個展だ。この展覧会は、黒人やヒスパニック系住民が多数を占める架空の都市「プレイズ・フリスコ」を描くスコットの作品をニューヨークで目にする貴重な機会となった。9月には、アメリカでは無名に近いフランス人映画監督で写真家のアングリー(Unglee)の展覧会が予定されている。

事業拡大を目指さず、現場で挑戦し続ける

自身のギャラリーについて一言で表すとしたら? そう尋ねるとパリアルーロは、「以前誰かに『ここの作品には詩情が溢れている』と言われたことがありますが、その通りだと思います」と答えた。だが、詩情は必ずしも安定したキャッシュフローにはつながらない。デイヴィッド・ピーター・フランシスのように、コンセプチュアル・アートを専門とするニューヨークの若手ギャラリーの多くは、アートフェアへの参加費用や毎月の家賃が重荷になり、閉鎖の危機に直面している。昨今は、どこそこが閉廊したというニュースが毎月のように流れ、それに伴って市況に対する不安も高まっている(実際はそれほど悪くないと主張するディーラーもいるが)。

「彼の手腕には脱帽するばかりで、作品が売れるたびに驚いてしまいます」とオレシュコは不思議がりつつ、パリアルーロにはほかのギャラリストとは違う点が1つあると言う。彼のギャラリーが人を惹きつけるのは、オレシュコが指摘する特徴のゆえなのかもしれない。

「彼にはほかのギャラリストにありがちなエゴや、アグレッシブに人をコントロールしようとするところがありません。そこが新鮮に感じられるし、だからこそ楽しく仕事ができます」

デイヴィッド・ピーター・フランシスで2026年に開かれたキャリー・シュナイダーの展覧会。Photo: Charles Benton
デイヴィッド・ピーター・フランシスで2026年に開かれたキャリー・シュナイダーの展覧会。Photo: Charles Benton

お金の不安はないのかと聞くと、パリアルーロは「常にあります」と答えた。その上で、自身がギャラリーを開いたのは「市場低迷期」だと言い、約20年前の2008年の金融危機の直後にも、多くの個性的なギャラリーが今の彼と同様の挑戦をしていたと続けた。当時は、ラミケン・クルシブルや47キャナルのようなギャラリーが、売りやすいとは言えない作品を展示する大胆な戦略を取り、結果、生き残ることに成功した。パリアルーロも同じような成功を収めたいと考えている。

「状況は少しずつ良くなってきています。ギャラリーを立ち上げた、ちょうど同じ時期に市場が回復し始めたように思います」

参加するアートフェアを年間で数回に絞り込むなど、運営コストを抑えていることも功を奏している(この夏には、ゴシオーの個展形式のブースでスイスのアート・バーゼルに初出展を果たした)。また、自身のほかにスタッフはもう1人という2人体制で切り盛りするなど、人件費も最小限に抑えている。

事業拡大の計画がないのは、ギャラリーは成長するにつれて問題が起こりがちだからだとパリアルーロは言う。そしてこう付け加えた。

「現場から遠ざかってしまいたくないんです」

(翻訳:野澤朋代)

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