向井山朋子の《figurante》に見た夢あるいは現実──アーティスト、片山真理が語る

世界的ピアニストとして活躍する傍ら、音楽、ファッション、ダンス、映像などジャンルを超えた表現を探究し続ける向井山朋子。かつて向井山の作品に人生の重要な気づきを得たというアーティスト、片山真理が、「TENNOZ ART WEEK」の一環で寺田倉庫で開催された(7月7日〜9日)向井山の新作インスタレーション・パフォーマンス《figurante》を体験した。

2023年7月7日。エレベーターを降りて、真っ暗な空間へ入っていくと、机に豆が並べられ、人が一人座っていた。向井山朋子さんのパフォーマンスについてテキストを書かねばならないチャレンジに緊張していた私は、なるべく前情報を頭に入れぬよう、イベント情報のイメージ(向井山さんのドローイングにタイトルが入ったもの。私は向井山さんのドローイングがすごく好きだ!)と開催日時、場所だけを確認して挑んだ。だからどんな現象も見逃せない。

その人は、光に照らされた豆を一粒つまんで、数十人いる私たち客の中から、(たぶん)ランダムに1人選び、じっと見つめる。選ばれた人は照れ笑いをしながら手を差し出す。ちょっと不気味な、切実な笑顔で豆を渡すその人。選ぶ人と、選ばれた人、そして選ばれなかった私たち。渡された豆は何を意味するのだろう。私には並べられた豆が、理科の教科書で見た染色体の図に見えた。しかし、いや、こんな主観は鑑賞の邪魔だと気持ち新たに奥へ進む。

血に染まったドレスから得た気づき

向井山さんの作品に出合ったのは、2009年の「大地の芸術祭 越後妻有トリエンナーレ」だった。当時私は、美学美術史学科に在籍する学生で、アーティストというより「人生や生活を通してアートに関わり続けられたらいいな」という態度で美術を学んでいた。ゼミの夏期演習で新潟県十日町の小学校を訪れたのだが、そこに向井山さんの《wasted》があったのだ。

天井まで続く真っ白な絹のドレスのインスタレーション。迷路のような道を進むとその先に経血で染まったドレスが吊るされていた。記憶が曖昧なのだが、たしか会場の入り口付近に向井山さんのテキストが添えられており(作品解説のキャプションだったのだろうか)、それを読んでとても感動したことを覚えている。当時私は二十代前半だったけれど、自分の月経や妊娠について、考えたことがなかったのだ。今思うと、どれだけ自分の身体に無頓着だったかと呆れるが、子宮という臓器が自分の中に存在していることや月経という現象を当たり前に思っていた。何より、妊娠といういつかの可能性を他人事のように思っていたことに、そのとき初めて気づいたのだった。そして私は、いつか子どもが欲しい、と作品を前に自覚した。この夏6歳になった娘を思うと、《wasted》との出合いは重要な決意を持つきっかけだった。

選ばれた/選ばれなかったわたしたちの意味

《figurante》の内部へ。真っ暗な空間に、鼓動のようなリズムで点滅する電球がひとつ。空間には籾殻が敷き詰められ、ところどころ小高い山が作られている。グランドピアノが2台、大きな空間の左右の端に置かれ、天井から布でできたベージュのオブジェがいくつもぶらさがっている。その中にも籾殻が詰まっていて、ときどき、オブジェの先端から思い出したようにサラサラとこぼれ落ちていく。《figurante》のプレスリリースに掲載されていた向井山さんのドローイングの世界が広がっていた。

籾殻はしっかりと床に敷き詰められており、一歩一歩注意しないと足がもっていかれそうだ。籾殻の山を背もたれに寝転んだり、座ったりする観客たち。彼らの背中やお尻にはすでに籾殻がべったりとはりついている。私は特別に用意してもらった椅子に座り、籾殻に手を伸ばした。椅子がパフォーマンスや他のお客さんの鑑賞の邪魔にならないか心配になりつつ、「どこにも居場所がないな」なんて、せっかく用意していただいた椅子に複雑な感情を抱く(ごめんなさい。悪気はないんです)。

すぐ後ろに吊り下がる布のオブジェから籾殻の落ちる音がする。これは何を意味するんだろう? 波の音にも聴こえる。すると海面のような照明が浮かび上がってくる。

向井山さんが登場しピアノを演奏する。私は楽譜が読めないのだけれど、目を凝らして譜面を追いたい。素晴らしいピアノだ。しかし演奏に身体を任せたくても籾殻が気になる。演奏は激しくなっていくが、ピアノの音を籾殻が吸収してしまう。どんなに鍵盤を強く叩いても、音が空間に響かない。間髪入れずスピーカーから音がぶつかってくる。混ざり合わない、まるで音の方向が目に見えるように向かってくる。演奏を諦めたように向井山さんは空間の反対側に置かれたもう1台のピアノへ歩いて移動し、言葉を発していく。しかし言葉は咳で遮られる。苦しそうだ。

ザクザクと、私の背後に歩いてきた若い女性の足音が異様に耳に付く。彼女を含む会場にいた何人かが、光る蛍光灯を運び、観客に渡していく。ひとりまたひとりと観客は出演者になっていく。向井山さんはピアノを弾き続けているが、増えていく出演者に追い込まれているようだ。苦しみに耐える姿をただ傍観しているだけの居心地の悪さ──はたしてこの姿を前に、私たちは「関係ない」と言い切れるのだろうか。

「figurante」という言葉はエキストラという意味を持つが、バレエ用語では、プリンシパルやソリストなど主要キャストのバックで踊るダンサーを意味する。端役のようで、彼らがいないとステージは成り立たない。このパフォーマンスで、ソリストは向井山さんであり、選ばれた/選ばれなかった観客のわたしたちは《figurante》ということなのか。

ソリストの行き着いた逃げ場のない鍵盤は、まるで私たちの社会を表しているようで、どんなに叩いても響かないピアノの音は助けを求める声にも、警告音にも聞こえた。観客から出演者となったわたしたちは、傍観し、ソリストを追い込む共犯者になっている。

コントロールすること、手放すこと

パフォーマンスが終わり、ぞろぞろと退場していく人々の背や足元を見る。それぞれに籾殻がへばりついていて、そこからぽつりぽつりと落ち、帰る道を作っていた。籾殻は、インスタレーションのためにたまたま選択した素材であったとあとから伺ったのだが、観客が意識的に触れようとしたり、無意識に侵食される様は、パンデミックや戦争、環境問題、人間の生死、愛憎、ゴシップ、腫れ物に対し無関心ではいられませんよ、というメッセージのようだった。私は始終、義足に籾殻が入らないよう気をつけていたけれど、(籾殻の上ではなく椅子に座ったことで)なんだかズルをしたようで後味が悪かった。

照明については、構想に半年かかったという作品を照明家のアンバー・ファンデンフックさんが受け取って解釈し、表現として返答したものなのだという。こうした要素をどこまで向井山さんがコントロールしているの? これは何を意味しているの? という質問(作家としてつい気になってしまう)を浮かべるのが馬鹿らしくなるほど、作品の一翼を担った人々のコラボレーションに、人間が生き生きと共生していく姿を見た気がした。舞台上の偶然や、表現を通したコミュニケーションの重なりこそ、私たちが生きる現実そのものだ。

会場の外を出ると、夏の夜の空気がからだを包み込み、さっきまでの緊張を悪い夢のように思わせた。一泊して群馬に帰ると玄関に籾殻が数粒落ちていて、娘に「これなあに?」と言われ息を呑んだ。

Text: Mari Katayama Photos: Tomoko Mukaiyama「figurante」/ Yukitaka Amemiya Edit: Maya Nago

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