丹羽優太 Yuta Niwa

《大鯰列島図襖絵》(2019) Photo: 三野伸吾《大鯰列島図襖絵》(2019) Photo: 三野伸吾

丹羽優太は、和紙、墨、顔料、膠(にかわ)といった素材を用い、日本の伝統的な絵画技法にならって作品を制作している画家。2020年からは水墨表現の幅を広げるため、北京に留学している。怪獣のように巨大なオオサンショウウオやナマズをモチーフに、地震や感染症などの厄災を扱う。大学院の修了制作は、12枚の襖(ふすま)から成るインスタレーション「大鯰(なまず)列島図襖絵」を発表した。同作は、かつて地震の元凶と見なされた大ナマズを中心に、阪神大震災、東日本大震災、熊本地震、北海道胆振東部地震の四つの震災の惨状を描く。大地震が多発した幕末に、なまず絵が流行したことに着想を得た。災害をユーモアに置換して悲しみを乗り切る人間のたくましさに、あらゆる時代に通じる創作行為の根源を探っている。同作で、京都造形芸術大学修了制作展大学院賞と、「アートアワード丸の内2019」ゲスト審査員賞を受賞した。

丹羽優太
Yuta Niwa

1993年神奈川県生まれ、北京留学中(現在一時帰国中)。2019年京都造形芸術大学大学院修了。近年の展覧会に、21年「ATAMI ART GRANT」(ホテルニューアカオ)、「やんばるアートフェスティバル2020-2021山原知新」(沖縄県大宜味村立旧塩屋小学校)、個展「なまずのこうみょう」(東福寺塔頭光明院)。18年京都府新鋭選抜展朝日新聞社賞。
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「僕の作品や活動は、いまの日本画と現代アートの微妙な境界線上にある」

丹羽優太は、日本の伝統的な絵画技法を用い、巨大なサンショウウオやナマズをモチーフに、地震や感染症などの厄災を題材にした作品を制作している。京都造形芸術大学大学院を修了後、北京へ留学。現在、新型コロナウィルスの感染拡大により一時帰国中の丹羽に話を聞いた。

災害の記憶に、姿形を与える

取材当日、待ち合わせ場所の六本木駅に現れた丹羽は、本人曰く「サイバーパンクみたいでかっこいいから選んだ」個性的なデザインフレームの眼鏡を着用していた。昨年「TOKYO MIDTOWN AWARD 2021」グランプリ(アートコンペ)受賞の際、自分へのご褒美に買ったのだと無邪気に笑う。昨秋ファッションデザイナー・丸山敬太とコラボレーションし、その日も東京ミッドタウン内のISETAN SALONEの壁には丹羽の作品が飾ってあった。一方で彼は今年、13世紀創建の臨済宗の寺院、東福寺(京都)に納める襖絵24面の制作に取り掛かろうとしている。寺内に住み込み、僧たちと寝食を共にしながら作品を制作する予定だ。活動の振り幅が極めて広い。

──丹羽さんの作品には、巨大なサンショウウオやナマズが登場します。このようなモチーフに興味を持ったきっかけは?

「京都の水族館でオオサンショウウオの生体に出会ったときは衝撃でした。東京出身の僕にとって、それまで見たことのない生き物だったんです。現代の情報化社会において、初見の感動というものは、なかなか得難いのではないでしょうか」

「中近世の絵師たちが、生体を見たことがないまま描いた虎の図には、独特の面白さがありますよね。僕にとって、オオサンショウウオは、そういうモチーフになるのではないかと思いました。ですから、絵を描くときは生物学的に正確に描くことよりも、初めて出会ったときの印象を大切にしています」

「そうやって最初は造形的な興味から入ったのですが、オオサンショウウオに関する伝承などを調べていくうちに、その存在が災害の暗喩として語り継がれていることがわかってきました。ナマズが地震を起こすと信じられていたことは有名ですが、巨大な水生生物が災害に結び付けられている物語の類例は各地に存在するんです」

こうした災害と伝承に関心を寄せた丹羽の学生時代の集大成となったのが、2019年の大学院修了制作《大鯰列島図襖絵》と言えるだろう。12枚の襖に、1995年の阪神・淡路大震災の火災、2011年の東日本大震災の津波、16年の熊本地震による熊本城の石垣の崩壊、18年の北海道胆振東部地震の土砂崩れを描いており、その中心には巨大なナマズが横たわる。同作で丹羽は、アートアワード東京丸の内2019(*1)の25名の一人に選ばれ、ゲスト審査員賞を受賞した。

*1 全国の主要な美術大学・芸術大学の卒業修了制作展に出品された1万1000点以上の作品が選考対象となった。

──描いたのは、丹羽さんが生まれて(1993年)以降に、日本国内で発生した大きな災害ですね。それ以前の作品は、描かれている場所や時代の特定が難しく、オオサンショウウオやナマズの描き方も寓意的でした。なぜ近年の災害を具体的に描こうと思いましたか。

「近年の災害を作品の題材として扱うことに躊躇(ちゅうちょ)はありました。しかし江戸時代の鯰絵(なまずえ)を見て、自分にとってもリアルな記憶や体験がある震災を題材にしようと思えたんです。昔の人々は震災というネガティブな話題を、鯰絵というユーモアを以て乗り越えてきました。ただ悲観するのではなく、社会変革の兆しに希望を抱き、地名や民間伝承の中に災害の記憶を留め、後世に伝えようとしてきました」

「地震でも疫病でも、得体の知れないものに具体的な姿形を与えることで、きっと人は納得し、気持ちの整理をつけるのだと思います。人々がそれを本当に信じていたかは別にして、見えない脅威より、見える脅威のほうが良かったのではないでしょうか」

「そうやってさまざまな妖怪や怪獣が生まれ、絵画や物語になってきたのだと思います。コレラが流行したときも、虎と狼と狸が合体したキメラのような生物が疫病の原因だとされました。地震の起きるメカニズムがわかっている現代でも、災害のアイコンとしてナマズのイラストが使われているのは興味深いですよね」

その場所の歴史を取り込む、しつらえの文化

──丹羽さんはどんな子どもでしたか? どのような経緯で、画家という道に進んだのでしょう。

「いまの自分の作品に影響しているところでは、子どものときからゴジラが好きでした。僕の作品を見た母が『ゴジラみたいだね』と言ったことがあって。たしかに、水爆実験から生まれ都市を破壊する黒い巨大生物は、災害の暗喩であるオオサンショウウオなどとも通じるところがあると思います」

「ゴジラだけでなく、特撮自体も好きなんです。擬似的な再現によって生まれる、本物以上のリアリティのようなものに興味があるのだと思います。今はCGの作業が多いのでしょうけれど、最初から壊すことを前提に作り上げられた精巧な街並みの模型が、映画の物語の中で実際よりもそれらしく見えたりする。すごく面白いです」 

「僕は最初から画家を志していたわけではなく、子どもの頃は大工になりたいと言っていました。建築・設計の仕事がしたくて高校は理工系に進んだのですが、高校の美術の先生から影響を受けて、美大で建築を学ぶという選択もあることを知ったんです。そこから美大受験について調べ出し、美術館・博物館に足を運んだりして、京都造形芸術大学に入学しました」

「日本画を専攻しようとはっきり決めたのは、大学2年の終わりから半年ほどスイスに留学して帰ってきてからです。留学で、自分が日本の美術についてまったく知らないことを再認識しました。帰国後、絵画技法材料学の青木芳昭先生に指導いただいて、伝統的な日本画の画材や技法を勉強し始めました」

「桃山時代や江戸時代の絵描きへの憧れが強くて、長谷川等伯(1539〜1610)が好きです。それから伊藤若冲(1716〜1800)や曾我蕭白(1730〜81)、河鍋暁斎(1831〜89)。300〜400年経った現代の我々が見ても、その作品が面白いと思えるのはすごいことですよね。僕もいつか彼らに並ぶような作家になりたい、という想いが制作の原動力になっています」

──障壁画に多くの名作が残る時代の絵師に惹かれるのは、やはり小さい頃の憧れの原点に建築があるからでしょうか。

「それはあると思います。日本独特の『しつらえ』の文化に興味があります。作品を展示する場所の歴史や、その土地にまつわる物語を踏まえて、作品や展示の仕方を考える時間が、とても楽しいんです。今風に言うとサイト・スペシフィックということでしょうか。学生時代からホワイトキューブでの展示には違和感を抱いていて、これまでに京都の光明院(東福寺塔頭)や興聖寺といった寺院でも作品を展示させていただいています」

「最近はPROJECT ATAMIの企画で、閉館したホテルニューアカオに滞在制作し、作品を展示しました。ニューアカオの経営者と交友のあった森素光という日本画家の作品がホテルに残っていたので、それらと自分の作品を一緒に展示する二人展という形を取りました」

「熱海は昨夏、大きな土砂災害に見舞われました。僕はホテルにあった金屏風に、日本神話に出てくる八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を描きました。八岐大蛇は土石流の表徴とも言われています。展示会場がホテルの宴会場だったので、八岐大蛇をお酒で鎮(しず)めるというコンセプトの作品を発表しました」

日本画と現代アートの微妙な境界線上に

──丹羽さんはアーティストとしての活動が非常に幅広いですね。

「僕は日本の伝統的な画材や技法を用いて作品を制作していますが、日本画と現代アートの世界に、どこか分断を感じています。学生時代から感じていましたが、同じ時代に生きて表現活動をしているのに、日本の古典をベースにしているということで、一枚フィルタを通して作品を見られていると感じるときがあります。もちろん、日本画という伝統の上で制作しているからこそ、由緒ある東福寺光明院の襖絵を描くという機会をいただいたことも自覚しているのですが」

「最初から既存のカテゴリに作品を当てはめてしまうのは、悲しいことだと思います。僕の作品や活動は、いまの日本画と現代アートの微妙な境界線上にあるなと感じます。もっと多くの方に、フラットに自分の作品を見ていただきたいんです。美術はもっと多様であって良いと思います」

「日本画というと、特に高尚なイメージを持たれがちですが、文人画のように技巧にとらわれない作品や、浮世絵のように経済的背景によって成立するような作品が、もっとあって良いと僕は思っています。僕も日本画の基礎を大切にしつつ、ユポ紙(耐水性のある合成紙)に描いてみたり、身近な人に画讃を入れていただいたり、いろいろな表現に挑戦しています」

「また、屋台研究家の下寺孝典とのユニット『親指姫』の活動では、日本画家・丹羽優太としてではない表現を、僕自身楽しみながら展開しています。東京都美術館で6月に開催するグループ展『たえて日本画のなかりせば:東京都美術館篇』には『親指姫』として参加します」

──作家活動の今後の展望を聞かせてください。コロナが終息したら、また北京に戻られるのでしょうか。

「画材は日本製のものが品質も良く扱いやすいですし、京都の街が僕はすごく好きなので、いずれは日本に戻って、京都を拠点に作家として活動したいと思っています。ただ、いまは中国という国が持つ圧倒的な熱量に惹かれています」

「北京にはアーティストの孫遜(スン・シュン)さんをはじめ、僕を温かく迎え入れてくれる人たちが待っています。コロナウィルスの感染が拡がる直前に、中国の古い時代の製法でとても大きな紙をつくっていたのですが、その用紙も画材も何もかも北京に置いてきてしまいました。とにかくいまは、早く北京に戻り作品を制作したいと思っています」

「この半年ほどは、青木先生の茨城のアトリエに通い、改めてご指導を仰ぎながら制作を行っています。今年は作品だけでなく、先生との交流の記録を見せるような展示を考えているんです。僕と先生の師弟関係だけでなく、僕や先生が私淑する過去の時代の作家との師弟関係も見せることができたら面白いな、と」

ARTnews JAPANの企画で選出された30名の若手作家のリストを見て「こんな素晴らしいメンバーの一人に加えていただいて光栄」と素直に喜び、その日のインタビュー取材を「ご縁」と言う丹羽。恩師やこれまでお世話になった人々の名前を次々に挙げ、その都度、感謝の言葉が自然と出てくる。今の自分が、長い歴史の積み重ねと人の繋がりの上に立脚しているのだという想いが、人一倍強い作家のように感じた。彼が多くの人々に愛されているのも伝わってくる。

──コロナの影響で作家活動にさまざまな支障が出ているかと思うのですが、丹羽さんはたくましいですね。

「僕にとって作品の制作や展示を通じて得られる達成感や喜びは、何ものにも代え難いものです。映画を見たり、美味しい物を食べたり、好きな人と一緒に過ごしたり、日々の暮らしの中に楽しいことはたくさんありますが、作家活動の中で得られる充足感は別格なんです」

「作家活動は、一から全部自分でつくっていかなければならないから正直大変ですが、些細な成功が本当に嬉しいんです。こうして自分が真剣に打ち込めるものに出会えたのは本当にありがたいと思っていて、ずっと制作を続けていきたいと思っています」

<共通質問>
好きな食べ物は?
「とんかつ。ごはんを美味しく食べる最高のおかず」

影響を受けた本は?
「10代の頃に読んだ宮崎駿さんの『風の谷のナウシカ』や大友克洋さんの『AKIRA』からは影響を受けていると思います」

 行ってみたい国は?
「今はとにかく中国に戻りたい、というのが一番ですが、一度はニューヨークに行っていろんな現代アートに触れたいですね」

好きな色は?
「黒と赤」

座右の銘は?
「座右の銘というのとは少し違いますが、日本画家の菅原健彦先生からいただいた『まずはやってみろ』という言葉に励まされて、今の自分があるように思います」

(聞き手・文:松崎未来)