AIでセリフ修正はNG? アカデミー賞候補『ブルータリスト』に対する批判に監督が反論
ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞やゴールデングローブ賞映画部門での3冠で、アカデミー賞の有力候補となっている映画『ブルータリスト』。この話題作に突如降りかかったのが、制作にAIを使用したことを問題視する大論争だ。
今年のアカデミー賞レースで有力視される『ブルータリスト』。この映画の編集を担当したダーヴィド・ヤンチョーが、主演俳優のエイドリアン・ブロディとフェリシティ・ジョーンズの演技に磨きをかけるためAIを使用したとインタビューで明かし、物議を醸している。それを受けてネット上で巻き起こった批判の声に対し、1月20日にブラディ・コーベット監督が自身の見解を述べた。
ヤンチョーは、映像制作技術メディア、レッドシャーク・ニュースに1月11日付で掲載されたインタビューの中で、(ハンガリーからアメリカに来た移民夫婦を演じる)ブロディとジョーンズが作中で話すハンガリー語がより自然に聞こえるよう、リスピーチャー(Respeecher)というウクライナ企業が提供するAIツールで発音の調整を行ったと語った。これに対しネット上では、どのような形であれ映画制作にAIを使用するべきではないとの批判が続出。賞の選考対象から外すべきだとの声も多い。
AI使用への批判にコーベット監督が反論
「エイドリアンとフェリシティの演技は、完全に彼ら自身のものです」
1月20日、コーベット監督はハリウッドレポーター紙にそう語り、俳優たちの演技を改良したり変更したりするためにAIが使われたという指摘に反論した。
「2人は、タネラ・マーシャルの発音指導を受け、何カ月もかけてアクセントを習得しました。リスピーチャーの革新的な技術を使ったのは、ハンガリー語の台詞の部分だけです。特に、いくつかの母音や文字の発音の精度を上げるためで、英語の部分は一切変更されていません。リスピーチャーによる修正は、音声担当とポストプロダクションチームによる手作業です。目的は、エイドリアンとフェリシテによる母国語ではない言語での演技に正確を期すことでした。演技そのものを置き換えたり、変更したりすることではありませんし、技術に最大の敬意を払って行われたことです」
この映画の台詞の大部分はハンガリー語だ。レッドシャーク・ニュースのインタビューでヤンチョーは、ブロディとジョーンズの演技を絶賛した上で、ハンガリー語を母国語とする人々にも可能な限り正しい発音に聞こえるようにするため、この言語特有の声音の微調整が必要だったと説明している。
「私の母国語であるハンガリー語は、発音を学ぶのが最も難しい言語の1つです。英語圏の人にとっては特に難しく感じられる音もいくつかあります」
『ブルータリスト』は総予算が1000万ドル(約15億6000万円)以下で制作されている。予算的な制約の中で、制作陣はウクライナのAIスタートアップ、リスピーチャーの技術を使って発音を調整することにしたという。ヤンチョーによると、AIによる調整のために、ブレイディとジョーンズが自分たちの声を録音したほか、自らもハンガリー語のネイティブスピーカーのモデルとして声を入力している。
「彼らの演技を維持することに細心の注意を払いました。(AIを使ったのは)主にいくつかの文字の音を置き換えるためだけです」
この工程はクリエイティブなものというよりは、台詞の編集作業に近いと彼は言う。
「(音楽編集ソフトの)Pro Toolsを使えば手作業で同じことができますが、ハンガリー語の台詞が非常に多いため作業をスピードアップする必要がありました。そうでなければ、いまだにポストプロダクションが続いていたでしょう」
映画制作におけるAI使用についてオープンに議論すべき
映画の終盤では、ブロディ演じる架空の建築家、ラースロー・トートによる建築のデザイン画や完成した建物が出てくるが、これらのデザインのインスピレーション源としても生成AIが使われたとヤンチョーは話している。ただし、撮影に使われたデザイン画自体は手描きされたものだ。こうしたAIの使用について、ヤンチョーはレッドシャーク・ニュースでこう話している。
「この業界でAIについて話すと賛否を呼びますが、そうあるべきではないと思います。それよりも、AIがどんなツールを提供してくれるのかをオープンに議論すべきです。この映画でAIを用いた工程で、これまでの映画制作で行われたことがないものはありません。単にプロセスを大幅に早めただけで、撮影するお金も時間もなかった小さなディテールのためにAIを使っているのです」
一方、コーベット監督は終盤のシーンに出てくる建築デザインについてこう説明した。
「(この映画のプロダクションデザイナーである)ジュディ・ベッカーと彼女のチームは、AIを使って建物をデザインしたり描いたりしてはいません。全てのイメージはアーティストたちによる手描きです。ここではっきりさせておくと、ある場面の背景に出てくる映像の、1980年頃の技術を思わせる荒いデジタル画像も私たちの編集チームが作成したものです」
第2次世界大戦後に難民としてアメリカに移住したハンガリー人を演じたブロディとジョーンズの演技は、批評家から高く評価されている。ゴールデングローブ賞の映画・ドラマ部門主演男優賞を受賞したブロディは、アカデミー賞でも最有力候補だ。コーベット監督は、戦後のアメリカを舞台にしたこの超長編映画について次のように語っている。
「『ブルータリスト』は人間の複雑さを描いた映画で、その制作のあらゆる側面が人間の努力と創造性、共同作業によって支えられています。制作チームと彼らが出した成果を、私たちはとても誇りに思っています」
いかなる理由でもAIの使用は許されないのか
だが、いかなる形であれ『ブルータリスト』の制作にAIが使われたという事実は、ネット上で批判の嵐にさらされ、X(旧ツイッター)上には次のようなコメントが飛び交っている。
「エイドリアン・ブロディのアクセントがAIで修正されたことを知っていながら彼に賞を与えれば、悪い前例を作ることになる」
「このようにAIで修正を加えられた演技は、自動的に受賞対象から外すべきというのが私の意見だ」
「35ミリフィルムで観た『ブルータリスト』のあまりの美しさに驚嘆した。しかし、エイドリアン・ブロディのアクセントを改良するためだけでなく、映画の中に出てくる建物のデザインにもAIが使われていたとはがっかりだ」
一方で、俳優たちの演技をいくつかの母音の発音のせいで評価しないのはフェアではないとする声もある。
「細部へのこだわりについての評価はある程度損なわれるかもしれないが、アクセントが(ブロディの)演技の決め手だったとは思わない。私は彼の発音ではなく、感情表現の巧みさによって心を揺さぶられた」
ウクライナのリスピーチャー社は近年、音声AIの分野で最先端を走る企業として注目を浴びている。同社がルーカスフィルムと契約を結び、今後制作されるコンテンツにダース・ベイダーが登場する場合、故ジェームズ・アール・ジョーンズの特徴ある声をAIで再現することが決まると、一部で物議を醸した。ジョーンズ自身は生前、録音された自身の声がこのように使われることを許可している。
また、ルーカスフィルムが制作したドラマシリーズ『マンダロリアン』のシーズン2の最終話では、マーク・ハミルがルーク・スカイウォーカーとしてカメオ出演しているが、ここでもリスピーチャー社は、彼の声を若返らせる工程で協力を行った。(翻訳:野澤朋代)
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