米セックス博物館で上映中。『ブロウ・ジョブ』ほか「美の定義を一変させた」ウォーホル映画をレビュー
ニューヨークのセックス博物館(Museum of Sex)で、アンディ・ウォーホルが1960年代に制作したモノクロのサイレント映画作品がまとめて上映されている。同性愛や窃視の欲望を淡々と描いた作品を、美術評論家でビデオエッセイストのカルロス・ヴァラダーレがレビューする。
![アンディ・ウォーホルの短編映画『John Head Not Sleeping / [indecipherable]ing / Screen Test』(1963)16ミリフィルム、モノクロ・サイレント、上映時間3分。Photo: Courtesy The Andy Warhol Museum, Pittsburgh](https://media.artnewsjapan.com/wp-content/uploads/2025/02/19110501/John-Head-Not-Sleeping-1963-cAWM.webp)
パーティではいつもウォーホルの映画を流せばよかった──ニューヨークのセックス博物館(Museum of Sex)で開催中の小規模だが温かみのある展覧会「Looking at Andy Looking(見つめているアンディを見つめる)」(3月9日まで)で、彼の作品を何時間もかけて見直した後、私の心に浮かんだのはそんな思いだった。
そして、誰もがウォーホルの『スリープ』(1964)を見ながら眠りに落ちるべきだ。ベッドでこの作品を見れば、その1コマ1コマがあなたまどろみへといざなうだろう。かつて映画監督のアッバス・キアロスタミは、眠りを誘うような映画、つまり「心地よい昼寝をさせてくれるような、やさしい映画」の方が、観客を「人質に取る」ような爆音と暴力に溢れた映画より好きだと言っていた。
アンディ・ウォーホルの映画には、そうしたやさしさがある。暗殺事件や帝国主義的な戦争、そして金儲け主義がはびこり、終わりの見えない社会不安が続いた1960年代に、彼の映画は気持ちよく昼寝ができる環境を提供したのだ。
とはいえ、セックスの最中に昼寝をするのは、あまり感じがいいとは言えないだろう。何事にも時と場合というものがあり、眠りもその例外ではない。それにしても、セックスしながら寝てしまうなんてあり得るだろうか! 意識が集中したり解放したり、体位がせわしなく入れ替わったりする行為の最中に?
ここでウォーホルの登場だ。彼は慎重に、かつ先見の明をもって、スクリーン上で肉体を平板化した。眠っている恋人(ジョン・ジョルノ)にカメラを向け、彼をそのままにして部屋を出て行き、また入ってきて、恋人の身体をカメラで舐め回し、そのフィルムを増殖するアーカイブの中にしまい込む。
人が眠ったり、ファックしたり、食べたりするのを映した映像の山。その中には、この時代の人々の生がありありと記録されている。その様子は愛おしくもメランコリックだ。眠るジョルノが何を夢見ているのかは分からない。私たちが恋人の無意識に入り込めないことを示すかのように、ウォーホルの作品はただ肉体だけを映している。
この「Looking at Andy Looking」展では、『ブロウ・ジョブ』(1963)も上映されている。会場の解説文で「おそらくアンディ・ウォーホルの映画の中で最も完璧なもの」と説明されているこの作品は、45分間にわたって1人の男性が恍惚とした表情を浮かべる様子をひたすら捉えている。
スクリーンには彼の顔だけがアップで映し出され、下半身で何が行われているのかは想像するしかない。タイトル通りの行為(フェラチオ)なのかどうかは、全編不明なままだ。1964年にウォーホルがこの作品をコロンビア大学で上映したとき、皮肉を解さず、ただ性的興奮を求めていた若者たちが、この曖昧さに怒って暴動寸前になったことはよく知られている。
また、上映時間が5時間を超える『スリープ』で、ウォーホルは眠り続けるジョルノの胸や尻、陰部、意識を失った頭部などを、隅々までフィルムに収めている。実験映画作家のジョナス・メカスによる巧みな宣伝もあり、『ブロウ・ジョブ』、『スリープ』、『エンパイア』などのウォーホル映画は、アメリカにおける美の定義を一変させた。それは、フィルムに収められた美、同性愛者の美、親密な退屈さの中にある美だった。

しかし、この展覧会で最も啓示的なのは、『スリー(Three)』(1964)というサイレント映画だろう。ジム・ジャームッシュが泣いて喜びそうな、ドタバタと穏やかさが同居するこの映画の筋書きは単純だ。ウォーホルの《ブリロ・ボックス》らしき立体作品を制作する仕事の休憩時間に、ジェラルド・マランガ(*1)がファクトリーのトイレに行き、そこでオンディーヌ(*2)の弛緩した堂々たるペニスをくわえる。その脇で3人目の男、ウォルター・デインウッド(オンディーヌの友人で、ウォーホルによく似ている)が、『ジ・オフィス』(*3)のジムのようにカメラを見て顔を歪めてみせたり、リンゴをかじったり、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズの詩『パターソン』を読んだりしている。
*1 写真家、映像作家、詩人。1960年代にウォーホルのスタジオ「ファクトリー」でアシスタントを務めていた。
*2 俳優。ウォーホル映画の常連。
*3 イギリスBBCの同名番組をリメイクし、米NBCが2005年から9シーズンにわたって放送した人気コメディドラマ。
この作品は1960年代の日常を鮮やかに切り取っている。さりげなく、叙情的な優美さでアート、ビジネス、セックス、金が結びついているのを描いた『スリー』にかかっては、昨年しきりに持ち上げられた映画『アノーラ』(第97回アカデミー賞において6部門でノミネーションされている作品。カンヌ映画祭ではパルムドールを受賞。日本では2月28日に劇場公開)など、その足元にも及ばない。この映画はウォーホルの存命中は公開されておらず、彼の親しい友人たちにのみ共有された。仲間同士の間でしか回ってこないヌード画像のように。

とはいえ、36ドル(約5500円)の入館料を払ってでも見る価値があるかどうかは人によるだろう。セックス博物館では、このほかにもエロティックなカーニバルのような体験型展示がある。カーニバルの妖精の車輪形のクリトリスを回すと媚薬が出てくるアトラクションがあり、閉所恐怖症でなければ、女性の大きなお尻の穴に入ることもできる。その中は滑り台になっていて、女性器の形をした出口から外へと飛び出す仕組みだ。魅力がないとは言えないこのキッチュな展示と、漠然としつつシックなウォーホルの作品は対極にある。
宗旨替えしたモダニストたちは、受胎告知画から抽象画まで過去の遺産を浄化せんとして、アンディがアートを終わらせたと喧伝して回る。だが私はそうは思わない。彼はただ、資本主義が唯一神であり、すべての終着点であり、居心地の良い墓場であると思われていた時代を冷静に表現しただけなのだ。
彼はまた、カメラはただの機械だと見抜いていた。それは人のことなど気にもかけず、映像はほとんど意味をなさないとも。スープ中毒で、マリリンと毛沢東を熱愛したウォーホルは、そうした法則を浮き彫りにした。フェラチオは、皆が思い浮かべるような露骨なものではない。それは退屈な恍惚の表情であり、リンゴをかじる戯け者だ。深刻になりすぎない軽やかさと言ってもいいかもしれない。(翻訳:野澤朋代)
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