砂漠の遊牧民だけが知っていた──古代都市ペトラはいかにして築かれ、なぜ滅んだのか

映画『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』のロケ地として有名なヨルダンのペトラ遺跡。キャラバン貿易で栄華を極めたナバテア人の古代都市にはどんな歴史があるのか。砂漠の岩山の中に忽然と現れるペトラの基礎知識をまとめた。

ヨルダン南部にある古代ナバテア人の都市、ペトラ遺跡にある宝物殿の前でラクダに乗る観光客(2022年12月12日撮影)。Photo: AFP via Getty Images
ヨルダン南部にある古代ナバテア人の都市、ペトラ遺跡にある宝物殿の前でラクダに乗る観光客(2022年12月12日撮影)。Photo: AFP via Getty Images

ヨルダン南西部のピンクがかった巨大岩壁の間を縫うように走る、シークと呼ばれる峡谷を抜けると、世界有数の迫力ある遺跡の光景が目の前に広がる。薄紅色の崖に彫られた堂々たる柱廊と、精緻な装飾が目を引く宝物殿エル・カズネがそびえ立ち、その前には大きな広場が設けられている。ここが2007年に発表された新・世界七不思議の1つ、「バラ色の都」ペトラだ。

ペトラがあるのはどんな土地か

考古学研究者によると、この地域には後期旧石器時代から人類が定住していたことを示す証拠があるという。その後、現在のヨルダンに建設された古代都市ペトラは、宗教的にも重要な場所だった。ここはワディ・ムーサ(モーセの谷)の一部で、モーセが杖で岩を叩くと水が湧き出し、イスラエルの民の渇きを癒す奇跡が起きた地とされている。

今日私たちが知るペトラ遺跡は、それから数世紀を経て、アラビア北部の一部族であるナバテア人によって築かれた。紀元前2世紀から西暦106年にローマ帝国に吸収されるまで、ナバテア王国の首都として栄えている。

死海と紅海の北奥にあるアカバ湾の中間地点に位置するペトラは、アラビア半島やインド、エジプトギリシャローマを結ぶ複数の重要な交易路の要衝にあった。東西の接点である地の利を生かしたペトラは、キャラバン貿易で莫大な富を獲得し、ナバテア王国全体に繁栄をもたらした。その豊かさは、ヘレニズムやビザンチン様式の特徴が見られる壮麗な岩窟建造物に示されている。その一例が、岩壁を掘って作られたペトラの建造物によくある(構造上は必要のない)柱廊だ。

ナバテア人はどんな民族だったのか

ナバテア人はペトラに永住するまで、つまりその歴史の大部分において、アラビア半島の砂漠を移動しながら暮らす遊牧民だった。その民族がペトラに定住することを選んだ理由は、正確には分かっていない。ペトラの砂漠気候はそのままでは居住に適さないが、ナバテア人は高度な灌漑システムを発達させ、1万人から最盛期には3万人に達したとされる居住民を養うのに十分な農業を営むことができたという。

しかし、次第に衰えていったナバテア王国は、西暦106年にローマ帝国に併合されたと考えられている。4世紀末にローマ帝国でキリスト教が国教化され、その後ビザンツ帝国に引き継がれると、ペトラにも教会が建設された。その中には、かつての神聖な墓所に建てられたものもある。

ヨルダン南西部にあるペトラ遺跡の眺め(1898年から1946年の間に撮影されたもの)。Photo: HUM Images/Universal Images Group via Getty Images
ヨルダン南西部にあるペトラ遺跡の眺め(1898年から1946年の間に撮影されたもの)。Photo: HUM Images/Universal Images Group via Getty Images

ペトラはいつ放棄されたのか

ローマ帝国の占領下で貿易ルートが変化すると、ペトラの繁栄にも翳りが出始め、人口が減少し、都市は廃れていった。さらに西暦363年、壊滅的な地震で市街の大部分が破壊され、ペトラは滅亡した。研究者たちは、7、8世紀にはほぼ全面的に放棄され、少なくとも定住者はほとんどいなかったと考えている。しかしその後も長きにわたり、遊牧民ベドウィンはペトラを一時的な住居として利用していた。

1812年にスイスの探検家ヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルトがペトラを発見し、西欧にその存在を紹介したときも、彼はベドウィンのガイドに案内されてここにたどり着いている。ベドウィンたちは1985年までペトラに居住していたが、同年にこの古代都市がユネスコの世界遺産に登録されると、ヨルダン政府によって強制立ち退きが行われた。

遺跡にはどのような建造物が残っているのか

ペトラで目を引くのは、岩を切り開いて作られた建造物群で、その多くは墳墓として使われていた。宝物殿エル・カズネの地下からも、2024年に人骨が見つかっている。そのうち最大かつ最も壮麗なモニュメント、エド・ディルを含むいくつかの建造物は、ビザンツ時代に教会として利用されていた可能性が高い。また、やはり岩壁に掘られたペトラの劇場は8500人ほどの観客を収容できたと考えられているが、363年の地震で大きな被害を受けた。さらに、岩を彫った建造物だけではなく、庭園と池を組み合わせた施設や柱が立ち並ぶ回廊など、自立型の建物跡も驚くほど良好な状態で残っている。

2016年、衛星画像とドローンによる調査で、ペトラの中心部から南に800メートルほどの場所に巨大な建造物が砂に埋もれているのが見つかった。その大きさは、2つのオリンピックプールを並べたほどだという。この遺構はまだ発掘されていないが、画像分析からは、大きな盛り土の基盤があり、その上に基盤より小さな建物があることが分かっている。研究者の推測が正しければ、これはペトラに現存する中で最大のエド・ディルに次ぐ大きさで、最古の建造物の可能性もある。(翻訳:清水玲奈)

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