アイ・ウェイウェイの大規模回顧展に見る「政治的メッセージとアートの力加減」
中国政府に批判的な活動で知られる反体制アーティスト、艾未未(アイ・ウェイウェイ)。2015年に母国の中国を離れ、ドイツ、英国を経て、いまはポルトガルに居を構えている。そのアイの大規模回顧展が現在ウィーンで開催中だ。そこで感じた彼の変容と、いくつかの疑問についてリポートする。
10年前、アイ・ウェイウェイの作品40点を集めた個展が、ワシントンD.C.のハーシュホーン博物館と彫刻の庭で行われた。日本から巡回したこの展覧会には大勢の来場者が詰めかけ、アイは一躍スターになった。一方、現在ウィーンのアルベルティーナ・モダンで開かれている回顧展「In Search of Humanity(人間らしさを求めて)」はその4倍以上もの規模なのに、あまり盛り上がっていない(回顧展の会期は9月4日まで)。
それはなぜだろう? ひょっとしたら、これは「アイ・ウェイウェイ疲れ」かもしれない。2021年だけでも4つの美術館でアイの個展が行われたことを考えれば納得がいく。
しかし、1人のアーティストのキャリアを一度に見ることができる回顧展には大きな魅力がある。アルベルティーナ・モダンでの展覧会も例外ではない。好き嫌いに関わらず、たとえアイに懐疑的だという人にとっても、この展覧会は必見だ。代表作のほぼ全てを一堂に集めた史上最大のアイ・ウェイウェイ展であり、会場を歩けば確かに壮大な雰囲気に包まれる。
アイといえば、難民問題や中国の監視体制、検閲との闘いなどを扱った挑発的な作品が有名だ。たとえば、漢代の壺にコカコーラのロゴを描いた作品。あるいは、大量の木の丸椅子が展示室を占拠する大型インスタレーション。後者は、中国における労働に言及しているのか、マルセル・デュシャンのレディメイド(*1)を参照しているのか、あるいはその両方なのか、人それぞれの解釈があるだろう。
*1 大量生産された既製品をオブジェとして展示するもの(マルセル・デュシャンが考案した概念)。
展示作品には質的にかなり幅があるが、アイのキャリアを語るうえではどれも避けて通ることのできないものだ。特に、初期の作品に注力しているのが、この回顧展の見どころになっている。初期の作品は、いま広く知られているものよりもはるかに奇妙で、暗示的な政治批判が多い。
ニューヨークを拠点としていた80年代、アイはダダに独自の解釈を加えるようになった。20世紀初頭の芸術運動だったダダイズムは、多くの人にとってデュシャンとセットで思い浮かぶものだろう。
実際、デュシャンのレディメイドによって始まったのは、ジャスパー・ジョーンズの言葉を借りれば「物を選び、それに何か手を加え、さらにまた手を加える」という手軽なパラダイムで、ありとあらゆる種類の対象に、ありとあらゆる方法で用いることができる。アイはそれを巧みに応用し、毛沢東が支配する中国で育った自らの経験を織り交ぜながら、共産党政権下の生活に伴う抑圧について思索する作品を制作した。
《Dropping a Han Dynasty Urn(漢代の壷を落とす)》(1995) Courtesy Ai Weiwei Studio/Private Collection
ハンマーと鎌が描かれたバッグに、傘が突き刺さった立体作品がある。これは、雪かきシャベルを用いたデュシャンのレディメイド作品《In Advance of the Broken Arm(腕が折れる前に)》〈1913〉)を引用している。同時に、アイの父親で毛沢東と対立した反体制詩人の艾青(アイ・チン)が、新疆へ追放された時に課せられた労働に言及した作品でもある。ただ、実に奇妙で理解が難しいだけでなく、意外と知られていないため、アイを語る時に触れられることはあまりない。
この作品に使われた傘やバッグはもう使い物にならないが、アイは破壊することで新たな意味を生み出したと言える。この考え方について、展覧会のキュレーター、ディーター・ブッフハートは、「四旧」(旧思想,旧文化,旧風俗,旧習慣)の打破を目指した文化大革命の文脈に当てはめられるとしている。
アイはレディメイドを作り続けてきたが、レディメイドに期待される意味の重さに耐え切れなくなりつつある。たとえば、郵便ポストをめったうちにした作品《U.S. Mail(米国郵便)》(2020)は、2016年の米大統領選挙で郵便投票に不正があったとするドナルド・トランプの主張を取り上げたものだ。アイはこれを「自由な選挙と民主主義が保証する権利」を擁護する作品だと説明しているが、文脈を考慮したとしても、ここにそのような意味は見出し難い。アイにとっては不幸なことだが、このポストはただのポストでしかない。
《A Metal Door with Bullet Holes(弾痕のある金属製ドア)》(2015) Courtesy Ai Weiwei Studio
以前ある同僚が、アイはアーティストとしてよりも活動家として優れた存在になったと言っていたが、この回顧展はその評価を裏付けているようだ。展示室には耳を傾けるべき重要な政治的メッセージを込めた作品が、これでもかと並んでいる。ただ、抗議を叫ぶ声が大きすぎるために、見る人の目は、作品が気づかせようとしている問題ではなく、アイのほうに行ってしまうのだ。
過去の作品はそうでなかった。回顧展に展示されている初期の写真作品の中でも、1989年に撮影されたある作品はとてもショッキングだ。そこには、ニューヨークの警官がエイズ問題への抗議デモから参加者を引きずり出している場面が捉えられている。そしてこの写真の謎めいたところは、警察の残虐な行為を平然と眺めているスーツ姿の3人の男たちがいることだ。
その後に制作された作品で、同じくらいインパクトがある唯一の作品は《81》(2013)だろう。これは、中国政府に投獄された時の独房を再現したインスタレーションだが、アイ本人によれば、拘束の理由はよく分からないという。彼はこの時の陰鬱な空間を記憶にとどめ、カビのしみとともに再現した。来場者はその中に入ることができるが、そこには3台の監視カメラがあり、映像が近くのモニターに流されている。
アイは確かに、この独房とエイズ抗議デモの現場にいた。しかし、なぜ彼が、たとえばエリック・ガーナーの窒息死事件(*2)を扱った作品を作れると考えたかは分からない。レゴで作られた2019年の作品には、ガーナーを取り上げたものや、イスタンブールのサウジ総領事館内で殺害されたジャーナリスト、ジャマル・カショギが最期に残した「息ができない(I can't breathe)」という言葉がサウジアラビアの国旗に書かれたものがある。
*2 警官がエリック・ガーナーの逮捕にあたって絞め技を使用したために窒息死した事件。警官は後に不起訴となった。
アイはガーナーとカショギの死について、偶然かどうかは別として、何らかの類似性があることを示唆している。しかし、バイデン政権がカショギ殺害にサウジアラビア皇太子の関与を認めている一方、ガーナーは米国でタバコの違法販売を疑われたことから警察の尋問を受けた。2人の死は1万キロも離れた場所で起き、その文脈もかけ離れている。そのことを、アイは気にかけていないようだ。
難民や移民に関する作品もある。難民ボートが転覆して溺死し、海岸に打ち上げられたシリア出身の幼い子ども、アラン・クルディになり切った写真を2016年に発表し、物議を醸したのは有名な話だ。幸い、今回はアイの写真ではなく、写真をもとにしたレゴの絵画作品が展示されている(ただ、写真とあまり代わり映えはしない)。
展覧会は、殺伐とした雰囲気のこのシリーズで幕を閉じる。シリーズの中には、救命胴衣を並べた上に巨大なガラス玉をのせた作品もある。これが未来を見つめる手助けになると、アルベルティーナは考えているのだろうか。
筆者が最も疑問に思ったのは、ヨーロッパの海岸でアイ自身が発見したいかだの上に座っている自分を映したビデオ作品だ。彼は海を漂い、カメラはある種の哀愁を帯びて静止している。まるで、海で遭難した難民であるかのように。しかし、彼が難民であるはずはない。なぜなら、難民たちはアルベルティーナのような立派な美術館で大きな回顧展を開くことなどないし、自分の写真を使ったグッズが作られることもない。しかし、このビデオを見た後に通るギフトショップでは、アイのポスターが売られているのだ。(翻訳:清水玲奈)
※本記事は、米国版ARTnewsに2022年6月9日に掲載されました。元記事はこちら。