【追悼】教皇フランシスコが芸術界に与えた影響。略奪文化財返還、ヴェネチア・ビエンナーレ初訪問など

ヴェネチア・ビエンナーレにローマ教皇として訪問した南米初の教皇フランシスコが4月20日に死去したと発表された。88歳だった。

ジュデッカの女性刑務所内の協会でヴェネチア・ビエンナーレに参加したアーティストに挨拶する教皇。Photo: Photo Vatican Media/Getty Images
ジュデッカの女性刑務所内の協会でヴェネチア・ビエンナーレに参加したアーティストに挨拶する教皇。Photo: Photo Vatican Media/Getty Images

ローマ教皇フランシスコが4月20日に88歳で亡くなった。これはカトリック教会にとって一つの時代の終わりを意味し、ローマ教皇庁は次の精神的指導者の選出に向けて動き出すことになる。新たな教皇は、バチカン市内の膨大な図書館と美術コレクションの管理者としての役割も担うことになる。

1936年にマリオ・ベルゴリオとしてアルゼンチンで生まれた教皇フランシスコは、ベネディクト16世の辞任を受けて2013年に教皇に選出された。彼は世界の13億人のカトリック信者を率いるイエズス会の司祭として、そして南半球出身者として初めて教皇の地位に就いた。また、アッシジのフランチェスコから名前を取った最初の教皇として、質素さと利他主義を重視する姿勢を示した。

フランシスコ教皇は、カトリック教義に対しては伝統的な立場を守りつつも、現代において占領下にある人々のために声を上げる姿勢で際立っていた。彼はガザとウクライナでの戦争を強く批判し、両地域におけるキリスト教徒への迫害と破壊を非難した。また、「贖罪の巡礼」2022年のカナダ訪問では、先住民の指導者たちと先住民寄宿学校に通う生徒たちに対し、カトリック教会が先住民コミュニティに強制した同化について謝罪している。

アッシジのフランチェスコとの結びつきは、フランシスコ教皇をその前任者たちよりも芸術に近づけることになった。イタリアの神秘家、詩人であり、貧困な生活を選び遍歴説教を行った修道士であるフランチェスコは、カトリックで最も愛される人物の一人であり、彼の牧会的旅は教会絵画の頻繁な主題となっている。聖フランチェスコの生涯を描いたアッシジのサン・フランチェスコ聖堂にあるフレスコ画は、イタリア・ルネサンスの原点として評価されている。大学で化学を学んだ教皇フランシスコはこのフレスコ画に着想を得て、聖フランチェスコの「被造物の賛歌」から引用したタイトルを回勅『ラウダート・シ(あなたに賛美あれ)』に用いた。この回勅は、パリ気候協定の締結に先立って2015年に発表された。

また教皇フランシスコは、「Foreigners Everywhere(どこにでもいる外国人)」というテーマを掲げた2024年のヴェネチア・ビエンナーレを訪問したが、同芸術祭を訪れたローマ教皇は彼が史上初だった。

当時87歳だった教皇は、ヴェネチア・ビエンナーレのプレジデントであるピエトランジェロ・ブッタフォーコと2024年の総合ディレクター、アドリアーノ・ペドロサと面会したのちに、ヴァチカン館があるジュデッガ島にヘリコプターで降り立った。この島の刑務所を舞台にキアラ・パリシとブルーノ・ラシンによってキュレーションされた展示「Con i miei occhi(イタリア語で「私の目で」という意味)」の中には、受刑者たちとの共同制作による作品もあった。

教皇フランシスコは会場に集まった群衆に語りかけ、故カトリック修道女で活動家のコリタ・ケント、フリーダ・カーロ、ルイーズ・ブルジョワについて言及。「私たちに何か重要なことを教えてくれる」アーティストだと彼女たちを称え、こう続けている。

「世界がアーティストを必要としていることは、あらゆる年齢層の人々が芸術祭のようなイベントや、美術施設を訪れていることが証明しています。親愛なるアーティストの皆さん、どうか地図にまだ存在しない都市を想像してください。人間が誰一人として異邦人と見なされない都市を」

スピーチのなかで教皇は、気候変動がヴェネチアに及ぼす影響についても言及しており、「ヴェネチアの街は水と一体であり、自然環境を保護することができなければ、この街は消えてしまうかもしれません」と語った。

教皇の訪問はヴェネチア・ビエンナーレにとっても重要な出来事となった。同芸術祭はウェブサイト上で教皇フランシスコの死を悼み、「深い悲しみ」を表明したと同時に、「聖なる父の並外れた親しみのある行動を深い感動とともに思い出す」という声明を発表。同芸術祭の声明は、こう続く。

「Foreigners Everywhereは、人権、疎外された人々、最も弱い立場にある人々に対する芸術的表現に焦点を当てていました。この展覧会は、出会いの文化の構築について考察するものであり、教皇フランシスコの感性に響くような展覧会となったはずです」

教皇フランシスコの芸術に対する姿勢は文化財返還の問題にも表れていた。彼の指導のもとバチカンは、バチカン美術館が先住民文明から取得した植民地時代の工芸品の返還に関する協議を開始した。

教皇専用機内で開かれた記者会見において教皇は、「盗んだものは返す必要があるのです。第七の戒めを思い出します」と述べた。教皇の指導の下、バチカン美術館は200年ほど所蔵されていたパルテノン神殿の大理石彫刻の断片3点をギリシャに返還している。教皇はこの行為を、返還が可能な場合に機関が行うべき「正しい行い」と呼び、次のような声明を発表している。

「ものを返還できるのであれば、そして、その姿勢を見せなければならないときがくれば、返した方がよいでしょう。返還を実現することが難しい、あるいは政治的問題が絡むことで返還がかなわないといったこともあるでしょう。しかし、盗まれた美術品を当初の持ち主に返すことができるのであれば、どうか実行していただきたい。人の懐に手を入れることが日常化しないようにするためにも、これはやらなければならない正しい行為なのです」

教皇フランシスコの統治は論争とは無縁ではなかった。2024年4月、バチカン美術館の従業員約50人が、安全が確保されていない労働条件について管理者に対し集団訴訟を起こした。多くが管理人である労働者たちは、「各労働者の尊厳と健康を損なう」労働規則を持つ機関によって「商品」として扱われていると請願書のなかで主張し、昇進プロセスの透明性の向上、年功序列ボーナスの復活、そしてイタリアの基準に近いとされる病気休暇の制度化を求めた。訴状では、残業代が満額支払われていないことや、美術館の高い集客力を持つ展示での警備縮小など、美術館のコスト削減策によって引き起こされたとされる健康と安全上のリスクについて言及していた。

こうした訴訟は教皇庁が初めて直面した出来事だ。訴訟はまだ継続中だが、解決する前に教皇が亡くなったことから、今後の展開は不透明となっている。バチカン市国では労働組合は認められておらず、カトリック教会の実質的な中央官僚機構である聖座は、欧州人権条約の裁判所のメンバーでも署名国でもない。しかし、2009年に欧州連合の通貨条約に署名したことは、欧州人権法を支持する意思を示唆している。(翻訳:編集部)

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