「AIは道具にすぎない」という思考の重すぎる代償──クリエイティブ業界が直面する本当の課題

AIをめぐる議論は、創造性よりも労働環境の問題へと移りつつある。アニメーターやCGIアーティストなど複数のクリエーターへの取材から、AIをめぐる創作現場の「真の課題」を考察する。

SUQIAN, CHINA - MAARCH 14, 2024 - OpenAI will officially launch Sora to the public this year, March 14, 2024, Suqian City, Jiangsu Province, China. (Photo credit should read CFOTO/Future Publishing via Getty Images)
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創造的な分野における生成AIの使用をめぐる批判には、しばしば歴史の「すべり坂論」的な反論がつきものだ。つまり、「新しい創作ツールはこれまでも次々と登場してきたのだから、なぜ今回だけ目くじらを立てるのか?」という理屈だ。AI擁護派は、「使いやすさをめぐる議論は、かつて写真が絵画に挑戦した時にもあった」とも主張するかもしれない。こうした見方は、歴史的な特殊性を平板化し、「テクノロジーの進歩は避けられない」という観念を強化する。それは、懸念するだけ無駄だと思わせるほどに。

9月末、AI生成による「俳優」ティリー・ノーウッドを生み出したエリーン・ファン・デル・フェルデン(Eline van der Velden)が、この考え方を体現する投稿をInstagramにアップした。ノーウッドが間もなくタレントエージェンシーと契約するという噂に対して、デル・フェルデンはこう書いている。

「AIは人間の代わりではなく、新しいツール──新しい筆だと考えています。アニメーションや人形劇、CGIがライブ演技を奪うことなく新たな可能性を切り開いたように、AIもまた、物語を想像し、構築するためのもう一つの手段を提供するのです」

ただし、まず指摘しておくべきは、この発言が事実として正確ではない、ということだ。

アニメーションと実写映画は、ともにセルロイド・フィルムの発明からほぼ同時に生まれた。人形劇に至っては、舞台演劇と同じくらい古い歴史を持つ。それ以上に問題なのは、この論理が「虚偽の等価性」を生み出し、時代ごとに異なる職人コミュニティの労働関係の歴史を消し去ってしまう点だ。ハリウッドでも、マディソン・アベニュー(広告業界)でも、その他の場所でも。

多くのクリエイターが、生成AIを経営側が人員削減や報酬引き下げに使う「斧」として見ている中、デル・フェルデンはそうした「ゼロサム的」な見方に反論する。では、彼女の言葉を真に受けてみよう。「生成AIを単なるツール──筆として扱う」とは、実際の現場でどのようなことを意味するのか?

生成AIを「単なるツール」と呼ぶのは「詭弁」

アニメーターやCGIアーティストは、すでに何十年もデジタルツールを使ってきた。変化や「革新」そのものが問題ではない。生成AIが論争を呼ぶのは、クライアントがその技術を使って制作者に圧力をかけていること、そして、その開発過程が倫理的に疑問視されていることにある。

筆者が話を聞いた多くのアニメーターにとって、AIはすでに商業案件でのワークフローを変えてしまった。多くの場合、それは悪い方向へ、そして報酬の減少という形で現れている。

複数のアーティストが語るところによると、クライアントはAIで生成したムードボードや参考画像を持ち込み、プロのクリエイターにそれを「再現」させようとするという。つまり、作家自身の創造的専門性を軽視しているのだ。制作が始まると、要求はしばしば急変し、まるでChatGPTやSoraなど、「今の人気AIアプリ」のように、同じ速さと効率で作業できるかのような期待を押しつけてくる。クライアントが明示的にAIの使用を求める場合もあれば、不可能な締切を設定することで暗にそれを強要する場合もある。

「AIが“すぐに作れる”という誤った感覚を、彼らに植え付けているように感じます。でも実際は違うんです」

こう語るのは、アニメーターのサム・メイソン(Sam Mason)だ。彼はヒップホップアーティストのマック・ミラー(Mac Miller)などのミュージックビデオを手がけ、コカ・コーラやトヨタといった大手企業の広告案件にも携わってきた。「今のところ、AIでは完成形の結果を出すことはできません。でも、そのせいで“無限に可能性を出せる”という誤解が生まれ、アーティストのプロセス全体が過小評価されてしまうんです」と彼は語る。

Lil Nas XやMitskiのMV監督、Appleなどの案件で知られるアニメーターのサード・モサジー(Saad Mosajee)によれば、AI導入の圧力はクライアントだけでなく、AIの政治的背景を顧みず積極導入を進める制作スタジオからもかかっているという。多くの画像・映像生成モデルは、制作者の許可なく公開ウェブサイトから数十億件の画像や動画をスクレイピングして訓練されているが、モサジーは、「最も倫理的で現実的な解決策は、自分自身の作品を使ってモデルを訓練することです」と語る。「残念ながら、データセットや学習モデルの透明性・説明責任はほとんど重視されていません。自分の作品を無断で学習に使われた人が大勢いるのは、不公平であり、ある種の抑圧だと感じます」

モサジーやメイソンに共通するのは、共有される倫理基準の欠如に対する懸念だ。

大手テック企業がAIをオープンソースや頻繁なアップデートという形で公開するのは、意図的に「摩擦」──つまり、何が適切で何が逸脱なのかを社会的に議論するための時間や仕組み──を排除するためでもある。そして数々のアップデートを経ても、現行の生成AIツールは、アーティストのためではなく、上司のために設計されているのが現実だ。

「伝統的なビジュアルアーティストがこれらのツールを本当に使えるようにするには、ドローイング、彫刻、パフォーマンスといった身体的な技能と直接連携できる設計が必要です」と語るのは、アニメーションスタジオ「Encyclopedia Pictura」の共同設立者であり、2025年公開予定の映画『The Legend of Ochi』の監督でもあるイザイア・サクソン(Isaiah Saxon)。それでも彼は、そうした「職人仕様のAIツール」がいずれ登場することに希望を持っているという。

ラッダイトとAI 信奉の間に「中道」はあるのか

では、ラッダイト(機械破壊主義)とAI信奉の中間の道とは何か?

理想的には、クリエイター自身の手で設計され、倫理的なデータセットで学習したアプリケーションがあれば、生成AIは労働者を脅かす存在ではなく、純粋な「ツール」としての可能性を発揮できるだろう。だが、現状の業界はそうした方向には動いていない。実際の「中間の道」は、ずっと泥臭いものなのだ。

取材したアニメーターたちは、クライアントから「AIを使えば安く早くできるはず」と言われ、AIの導入を迫られているという。しかし、実際にはそれが必ずしも事実ではない。(名前は伏せるが)ある案件では、クライアントの要望に応えるため、アニメーターが「AIを使ったふり」をして、従来通りの手法で仕上げたという。自分の工程が自動化できると思わせるのは得策ではないように見えるが、時にはそれが最も賢明な対応なのだ。

別のアニメーターは、伝統的な制作方法を貫こうとしたところ、クライアントが予算を削り、資金を別の用途に回してしまったという。その一方で、AIではまだ望む仕上がりが出せないことを説得し、理解を得たケースもある。

とはいえ、そのような話し合いを持つこと自体がリスクを伴う。

アーティストたちはまた、AIを使うかどうかを個人の判断で線引きしている。多くは、自分の情熱を注ぐプロジェクトにはAIを用いない。少なくとも現時点では。

理由はいくつかある。技術がまだ十分に成熟していないこと。新しいツールやアップデートに絶えず追いつく必要があり、精神的にも消耗すること。だが最も根本的な理由は、感情的で直感的なものだ。筆者が話を聞いたほぼすべての熟練アーティストは、AIを使うときに共通して抱く違和感を訴える。それは「不気味」「空虚」といった言葉で表現されることが多く、その感覚は、常に制作プロセスの喪失と結びついている。

サクソンは、「私にとって、新しい技法を取り入れる動機は常に“楽しさ”と“興味”と“ワクワク感”なんです」と語る。「仲間と山で映画を撮ったり、大きなセットやアニマトロニクスの人形を作ったり、彫刻や絵を描いたり、ストップモーションや3Dアニメーションを学んだり──そうした冒険そのものが楽しい。でも、少なくとも今の私にとって、AIを使うことはその『楽しい冒険』ではないんです」

(翻訳:編集部)

from ARTnews

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