戸惑いからはじまる内省的対話──「フェミニズムと映像表現」展レビュー
フェミニスト・アートを前に居心地の悪さを感じる人もいるかもしれない。そんな人にこそ訪れてほしいのが、現在、東京国立近代美術館で開催中の「フェミニズムと映像表現」展だ。本展が促す、戸惑いから生まれる「真の対話」について考察する。

編註:こちらの記事は毎週金曜日に配信されているニュースレターに加筆修正を加えたものです。
東京国立近代美術館で開催されている小企画展「フェミニズムと映像表現」(6月15日まで)は、実験的な映像からドラマ仕立ての作品まで、多様な作品が展示されている見応えある展覧会だ。一方で、本展に戸惑いを覚えるオーディエンスも少なからずいるかもしれない。
なぜなら、ランドアートを手がけるナンシー・ホルトが、夫のロバート・スミッソンから指示を受け、おぼつかない手つきでカメラを構えながら撮影された《湿地》や、遠藤麻衣と百瀬文が粘土をこねながら「理想の性器」について対話する《Love Condition》、マーサ・ロスラーがアルファベット順に調理器具を紹介する《キッチンの記号論》など、観る者の立場によっては、自身の中に深く根を張る「ジェンダー観」に強力な問いを突きつける作品ばかりだからだ。
なかでも出光真子の作品群は、自分が育ってきた環境や身につけてきた価値観を客観視するきっかけを与える作品と言えるだろう。1970年代のウーマン・リブの流れを受け、映像を使った表現を始めた出光は、1940年に出光興産の創業者の末娘として生まれた。家父長的な父の影響下で育った彼女は、早稲田大学卒業後にその環境から逃れるようにニューヨークへ留学する。1965年には画家のサム・フランシスと結婚し2児をもうけるが、アメリカ社会におけるアジア人女性としての孤立感を抱くようになる。この複重の疎外感こそが、彼女が8ミリフィルムカメラを購入し、独学で映像制作を始める原動力となった。以来彼女は、ビデオカメラなどを駆使して、40本近くの作品を発表してきた。
展示されている出光の《グレート・マザー 晴海》は、母と娘の激しい口論を中心に、家庭内にひそむ支配と依存の関係を描いた作品だ。画面内には複数のモニターが配置されている。2人の口論が激しくなるにつれ、モニター内では母子の内面を象徴するような取っ組み合いが繰り広げられる。同じく複数のモニターを用いて作られた《シャドウ パート1》では、自己と他者、内面と外界との相互作用を表現している。本作では、さまざまな職業の女性たちと、彼女たちが向き合うことを拒む自分自身の姿がモニターに映し出される。キャリアウーマンが部下を叱責する場面と専業主婦が洗濯物をたたむ場面を交差させることで、どちらの生き方を選んでも女性が直面する葛藤を浮き彫りにしている。

これらの作品は、とくに家父長制的な意識の強い環境で育ったことになんの違和感も疑問も抱かずにきた人にとっては、自分が加害者、あるいは傍観者側に位置づけられているような感覚になって居心地の悪さを感じたり、目を背けたくなってしまうかもしれない。しかしそれは、歓迎すべき「戸惑い」であり「気づき」でもある。この複雑な思いを不快なものとして短絡的に処理するのではなく、なぜそう感じるのかを整理して考え続けること──それこそが、ここで紹介されるアーティストたちが作品に託した想いの一部でもあるはずだから。
そこで筆者が思い出したのは、デイヴィッド・バーンとスパイク・リーの対談動画だ。映画『アメリカン・ユートピア』の公開を記念して記録された会話のなかで、2人が交友関係を築くようになったきっかけについて語る場面がある。
白人ミュージシャンのバーンは、過去にMTVから受けた人種差別についてのインタビューの中で、自分が差別主義者であることを素直に認めている。それは開き直りではなく、アメリカという白人至上主義が根深い社会で育った白人である自身の中には差別的思想が知らぬまに内在化していることに自覚的であることが大切なのだという、バーンのメッセージでもある。そのインタビュー映像を見た黒人映画監督のリーがバーンに連絡を取ったことで、二人の交流は始まった。ちなみにリーはその会話の中で、「あんた、ずいぶん前からウォークだったんだな(笑)」とバーンに語っている。
この展覧会は、バーンがそうしたように、わたしたちに呼びかける。わたしたちのなかには、性差別的な思考を含む様々なアンコンシャスバイアスがあるのだということを。そして観客であるわたしたちに、その事実にまずは目を向けてみよう、受け入れよう、と促すのだ。フェミニスト・アートの真の意義とは、誰かを糾弾することではなく、むしろ防御的な姿勢を解いて内省的な対話へと鑑賞者を導くことにある──そんなことに改めて気づかせてくれる展覧会だ。